序.信じて命を受けるために

先週のイースターの礼拝では、人形劇を演じながら、主イエスを裏切った弟子のペトロが復活の主イエスと出会って、弟子として復活した物語を聞いたのでありました。この物語については、次週の主日礼拝において、ヨハネ21章によって、もう一度取り上げることにしているのですが、今日はその前の20章の19節以下に書かれている物語、即ち、家の戸に鍵をかけて隠れていた弟子たちのところに復活の主イエスが現れた出来事の箇所から御言葉を聴きたいと思います。
 
この箇所のうち、19節から23節までは、去年のペンテコステの翌週に取り上げました。ペンテコステの翌週でしたから、22節の「聖霊を受けなさい」というメッセージを中心に聴きました。今日は、もう少し広い範囲になっていますが、後半に書かれている、トマスと主イエスの出会いを中心に、復活ということをどのようにして信じることが出来るか、というテーマに取り組んでみたいと思います。
 
ところで、今日の箇所の一番最後の31節にこう書かれています。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。これは、小見出しにあるように、このヨハネ福音書全体を書いた目的が記されているのでありますが、その目的とは主イエスを信じて命を受けることであります。この命とは、もちろん永遠の命のことであります。そして、主イエスを信じるとは、「イエスを神の子メシアであると信じる」ということですが、そのことは主イエスの復活を信じるということと切り離すことが出来ません。ヨハネ福音書全体には、主イエスの様々の御業や御言葉が記されていますが、それら全てを信じて受け入れることが出来ても、もし主イエスの復活のことが信じられなければ、主イエスを信じたということにはなりません。ですから、私たちが永遠の命を受けるためには、主イエスの復活を信じることを抜きに出来ないのであります。
 
今日の箇所に至る前には、週の初めの日の朝、女の弟子が墓に行くと、既に主イエスの遺体が墓にはなかったこと、そして、復活された主イエスに出会った、という知らせが男の弟子たちにも届いていたのでありますが、彼らは主の復活を信じられないでいたのであります。その彼らがどのようにして信じることが出来るようにされたのか、そのことを通して、私たちがどのようにして信じることが出来るのか、ということを、今日の箇所から聴き取りたいと思っております。

1.信じることの恐れ

まず、今日の箇所の冒頭、2019節には、こう書かれています。その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
 
主イエスが復活された日の夕方のことであります。この日朝早く、マグダラのマリアが墓に行って、そこに主イエスの御遺体がなかったことを弟子たちに知らせたので、二人の弟子が墓まで行って、それを確認しました。また、マグダラのマリアは復活の主イエスにお会いしたことも弟子たちに知らせましたが、弟子たちは主イエスが甦られたとはとても信じられませんでした。むしろ、<これは余計面倒なことになって来た>と思ったのであります。というのは、主イエスの遺体がなくなったとか、主イエスにお会いしたという噂がたつと、十字架に架けたユダヤ人たちを刺激しかねないからであります。現に、マタイ福音書によりますと、墓の番兵たちが祭司長たちに報告すると、彼らは相談して、「弟子たちが夜中にやって来て、死体を盗んで行った」と言いふらすように命じたのであります。いつ、あらぬ疑いをかけられるかもしれません。弟子たちは、ただもう恐れて、部屋の戸に鍵をかけて、肩を寄せ合うようにして、閉じこもっていたのであります。
 
弟子たちは、ユダヤ人を恐れただけではなかったかもしれません。もし、本当に主イエスが甦られたのであれば、裏切った自分たちを主イエスがどう扱われるのか、主イエスが自分たちのところに来られたら、とても顔を合わせることができない、という主イエスに対する恐れがあったことも考えられます。このように、ユダヤ人を恐れ、主イエスを恐れているところには、復活を信じる信仰は生まれて来ません。主イエスの復活を信じるということは、ある意味でとても恐ろしいことであります。というのは、主イエスの復活を科学的に証明できるわけではありませえん。マグダラのマリアが復活の主イエスに出会ったと言っても、彼女が幻を見たかもしれません。確かに主イエスは、御自分の復活のことを予告されていました。でも、それは主の言葉を信じるしかないことであって、信じることによってしか受け入れることの出来ないことであります。復活を信じるということは、自分の目で確認することや科学的な根拠を求めることを放棄して受け入れることであります。目に見えることには信頼を置かず、信仰だけによって生きるということであります。これは非常に勇気の要ることであって、恐ろしいことであります。弟子たちが家の戸に鍵をかけて閉じ篭っていたというのは、外から来るものへの恐ろしさと同時に、内面において、信じることの恐ろしさ、厳しさを覚えて、何とか自分を保ちたいという弟子たちの心の様子を映し出しているのではないでしょうか。こういう弟子たちのことを、頑なであるとか、意気地がないとか、不信仰だと言って批難することはできません。
 
19節に書かれているのは、週の初めの日の夕方に、家の中に閉じこもっていた弟子たちについてでありますが、その日、どういうわけかディディモと呼ばれるトマスは、そこには一緒にいませんでした。彼も主イエスの復活の知らせを聞いて恐れを覚えたでありましょう。しかし、彼の場合は、他の弟子と一緒にいることも危険だと感じて、別の場所に潜んでいたのか、人目を避けてどこかをうろついていたのかもしれません。あるいは、自分なりに復活されたことの確証を求めて、情報収集に当たっていたのかもしれません。
 このトマスという弟子と主イエスとのこれまでの関係を見ておきますと、ヨハネ福音書1116節には、主イエスに危険が迫っている中で、トマスが他の弟子たちに「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と呼びかけたことが記されています。そういう勇気を持っていた人であります。また、145節では、主イエスが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃった時に、トマスが正直に「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言ったことが書かれています。このように、物事を中途半端には出来ない性格の人でありました。こういう人ですから、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」ということを言っても、自分で確かめるまでは信じられないと思ったとしても当然であります。そして、確信さえ持てたなら、勇敢に行動できる人であったでしょう。しかし、それだけに、主イエスが復活されたということを簡単には信じませんでした。信じることを他の弟子たち以上に恐れて、悩んだのでありましょう。
 八日後に、また弟子たちが家の中にいたとき、今度はトマスも一緒にいましたが、トマスは25節にあるように、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。
 
このトマスのことを、頑なな人とか疑い深い人とか不信仰な人と呼ぶことが多いのでありますが、別の言い方をすれば、自分に正直で、真剣に今回の出来事に向き合おうとしていたと言えるのであります。

2.来て真ん中に立つ主

さて、もう一度、週の初めの日の夕方の場面に戻りますが、弟子たちが家の戸に鍵をかけて隠れていると、そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして、手とわき腹をお見せになったのであります。
 
主イエスが鍵のかかった戸をどうして開かれたのかというようなことを詮索しても意味がありません。スーパーマンのような特別な力を持っておられたということに感心してみても意味がありません。しかし、そうだからと言って、主イエスが幽霊のように入って来られたとか、弟子たちが幻を見たというように考えては間違いであります。後でお示しになりますように、肉体をもった姿で、手に触れることのできる体で入って来られたのであります。
 
ここで私たちが聞かなければならないことは、恐れおののいている弟子たちのことを主イエスが放って置かれなかったということであります。主イエスは弟子たちの恐れと不安を取り除くために、物理的・心理的な障害をも乗り越えて、弟子たちのところへ来られたのであります。主が私たちのところに来てくださる時も同様であります。私たちが恐れと不安の中にあるとき、どうしてよいか分からなくて困り果てているとき、主は私たちを取り囲む外なる障害も、私たちの内にある頑なさや不信仰の障害も乗り越えて、私たちの真ん中に立ってくださるのであります。
 
そして、主イエスは弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われました。この言葉は、ユダヤで普段使われている挨拶の言葉で、「シャローム」という言葉です。「ごきげんよう」とか「こんにちは」と言うのと同じであります。けれども、この日は只の挨拶の言葉ではありません。復活なさった主イエスが、今、目の前に立って語っておられるという重みのある言葉であります。弟子たちの中に本当の平安をもたらす力のある言葉であります。どのようにして復活したか、どのようにして鍵のかかった戸から入ることが出来たのか、というような説明は一切不要であります。主イエスが現にそこにおられるということが「シャローム(平和、平安)」なのであります。
 
主イエスはそう言いながら更に、手とわき腹とをお見せになりました。手には十字架にお架かりになった時の釘の跡があります。わき腹には、槍で刺された傷があります。まさしく、十字架に架かられた主イエスが、今、目の前に立っておいでになるのであります。十字架の死で全てが終わったのではなかったのであります。人間の罪とその結果である死に勝利されたお方が、今、目の前におられるのです。だからこそ、「平和があなたがたに」という言葉が語られ得るし、現に平和(平安)がそこに創られるのであります。そして、弟子たちも平和で満たされるのであります。
 
弟子たちは、主を見て喜んだ、とあります。ただ<ご無事でよかった>と喜んでいるのではありません。裏切って主イエスを十字架に送ってしまった自分たちの罪をも赦された喜びであります。もう何ものをも恐れる必要のない平安を与えられた喜びであります。主イエスが共にいてくださる喜びであります。

3.あなたの指を、手を

では、八日後の、トマスも一緒にいたときはどうだったでしょうか。26節以下ですが、やはり家の戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。ここまでは前回と一緒ですが、そのあとトマス個人に向かって言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」――主イエスはトマスの疑問を知っておられます。そして、そのような疑問を抱くことを、お咎めにはなりません。むしろ、主イエスは愛する弟子の疑問を解くために、このようにまでおっしゃるのであります。主イエスは、信じられない人が、何とか信じる人になることが出来るようにと、これほどまでに心を用いてくださる、ということであります。(現に主は、疑い深い私たちのためにも、このトマスの出来事を用意して、聞かせてくださっているのであります。)
 
この主イエスのお言葉を聞いて、トマスは実際に釘跡に指を当て、手をわき腹に入れてみたでしょうか。そのことは記されていません。しかし、もう、そうする必要もありません。トマスは、主イエスがどれほど自分の疑い深い信仰のことを考えてくださっていたかが、よく分かりました。主イエスの温かいお心遣いが、身に浸みるように分かりました。トマスにとっては、それだけでもう十分なのであります。もはや、自分の目、自分の手で確かめるよりも、主イエスのお言葉の方が、もっと確かだったのであります。自分の目や自分の手で確かめるよりも、主イエスを信じることの方が、どれほど確かなことかということが分かったのであります。

4. わたしの主、わたしの神よ

主イエスは続けて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。当り前のことを言っておられるようですけれども、そうではありません。この言葉には主イエスのお心が込められています。これは主イエスが心から望んでおられることであります。このことが実現するためには、御自分が苦しい目に遭おうと、恥を負わされようと、十字架に架けられても構わない、というお心であります。
 
そのような主のお心がトマスには分かったのでしょう。そこで、トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。主イエスの言葉に対する返答であれば、「はい、信じます」となるのですが、そうは言わずに、主イエスのことを「わたしの主、わたしの神」と告白しているのであります。これは信仰の告白です。先程朗読されましたイザヤ書25章では神様について言われている「主」あるいは「神」という呼びかけがキリストに対して言われているのであります。
 
竹森満佐一牧師は、ここの説教の中で、この告白で表現されていることは、一つは自分が夢にも思わなかったことに出会った驚きであり、それと同時に主イエスに対する感謝であり、更に疑いから解放されて救われた喜びであろう、と分析されたあと、さらにもう一つのことがあると言われて、それは、「不信仰な私をお助けください」という願いをもった祈りではないか、と指摘されるのであります。去る227日の説教で、汚れた霊につかれた子を癒された箇所の御言葉を聞きましたが、霊につかれた子の父親が、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言いますと、主は「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる」と突っ込まれました。するとその父親はすぐに、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びました。主イエスの言葉によって、自分の不信仰に気付かされたのであります。それと同じように、トマスも今、主イエスの前に自分の不信仰を思い知らされながら、「わたしの主、わたしの神よ、どうか不信仰なわたしをお助けください」と祈っているのだ、ということであります。
 
トマスがこのような信仰告白に至ったのは、彼の深い思索の結果ではありませんし、主イエスの論理的な説明に納得が出来たからでもありません。主イエスが御自分の命をかけて信仰へと導いてくださったことが分かったからであります。かつてペトロが主イエスのことを「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白したときに、主イエスは「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。ここでも、トマスの告白を導いたのは、主イエスの愛の御業であり、天の父なる神様の働きかけであります。私たちが復活を信じる信仰へと導かれるのも、同様で、私たちの深い思索によってではなく、論理的な説明に納得することによってでもなく、ただ、主イエスの愛の御業と父なる神様の働きによるのであります。

5.見ないで信じる幸い

29節で、主イエスはトマスにこう言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」29節)
 
この言葉は、読み方によっては、トマスを叱っておられるようにも読めます。復活の主イエスがトマスの要求に応じるかのように、トマスの前に現れて「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」とまで言われなければ信じられなかったトマスに対して、本当は、釘跡のある手や槍の傷があるわき腹を見せなくても信じる信仰を持つべきだった、と言っておられるようにも読めるのですが、そうではありません。ほかの弟子たちも皆、主イエスの手とわき腹を見て信じて、復活の証人とされたのであります。では、この主イエスの言葉は何を言おうとされているのでしょうか。Tペトロ18節にこのような言葉があります。これはペトロが小アジアの教会の信徒たちに宛てた手紙の一節ですが、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と言われています。つまり、小アジアの信徒たちは、「見ないのに信じたのであります。それは、現代の私たちも同様であります。ですから、この主イエスの言葉は、トマスに対しておっしゃったというよりも、後の信者たち、そして私たちに向けておっしゃった言葉であります。主イエスは目の前の弟子たちに御自分の十字架の体を見せて信仰に導きながら、将来、もはや肉眼では主イエスを見ることが出来なくなる後の世の人たち、すなわち私たちを見据えて、このことを語っておられるのであります。私たちは、この弟子たちの伝えた言葉によって、見ないで信じるという幸いに導かれるのであります。
 
ヘブライ人への手紙11章には、こう書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」信仰とは見ないのに信じることであります。主イエスは、その信仰に私たちを招きいれようとしておられるのであります。私たちは見て信じるのではなくて、聖書を通して、弟子たちの証言を聞いて信じるのであります。それが本当の信仰であり、喜ばしい恵みであります。

結.信じて命を受ける

最後に、冒頭で見ました31節に書かれている言葉をもう一度聞きましょう。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により永遠の命を受けるためである。――今日、私たちは復活の主イエスが弟子たちに現れ、殊に、疑い深かったトマスに現れてくださったことを聴いたのでありますが、それは見ないのに信じる信仰を与えられるためであり、更には私たちが永遠の命を受けるためだったのであります。今日も私たちはこうして礼拝へと導かれ、弟子たちの証言を聞くことによって、信仰へと導かれ、永遠の命を受けたのであります。私たちが永遠の命を受けて、トマスと共に「わたしの主、わたしの神よ」と言ってひざまづくことが出来るのは、このようにして御言葉を聞く喜びの礼拝以外ではあり得ません。礼拝から離れていては、この命を受け継ぐことはできません。今日、私たちがそのような礼拝に導かれたことを感謝したいと思います。
 
(讃美歌275の歌詞を参照)

祈  り

父なる神様!
 
私たちをこの礼拝に呼び集めてくださり、復活の主イエスが弟子たちに現れられた出来事を通して、私たちのような不信仰な者をも、主の十字架の故に赦してくださることを覚え、見ないで信じる信仰へと招いてくださいましたことを感謝いたします。
 
どうか、復活の主を仰ぎつつ、なお私たちに残された地上の歩みを、希望と確信をもって歩むことが出来ますように、お導きください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年4月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ20:19−31
 説教題:「
見ないのに信じる」         説教リストに戻る