序.イエスの死と向き合う

主の御受難を覚える「レント」の期間の最後の主日となりました。今週は受難週であります。与えられております聖書の箇所(ルカ234449)は、主イエスの死の場面であります。ここで私たちは主イエスの十字架の死と向き合わされるのであります。
 
今日の箇所には主イエスが十字架上で息を引き取られた前後のことが書かれているのですが、その中心は46節にある主イエスが語られた言葉であります。お手許に「十字架上の七言」のプリントをお渡ししていますが、先週の礼拝では、七言のうちの最初の二つが含まれた箇所から御言葉を聴きましたが、今日の箇所の言葉は七言の最後のものであります。こう語られました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られたのであります。この前には、@太陽が光を失って、全地が暗くなったこと、A神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたことが書かれており、この言葉の後には、B百人隊長が「本当に、この人は正しい人だった」と言ったこと、C群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰っていったこと、そして、Dイエスと関係の深かった人たちもこれらのことを見ていた、ということが書かれています。これらの一連の出来事は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたことに伴うものであって、密接な関係のあることであります。
 
そこで今日は、この主イエスの御言葉を中心に、このとき何が起こったのか、それは私たちとどう関係するのか、ということを聴き取りながら、主イエスの死と向き合いたいと思うのであります。結論を先に申しますと、キリストを信じる者の生活とは、この主イエスの十字架の死と向き合って生きることであります。具体的には、こうして礼拝に来て、十字架の主の御言葉によって生かされるということです。逆に言いますと、十字架の主に向き合うことがなければ、キリスト者でなくなり、命を失い、死んだも同然になるということであります。

1.全地は暗くなり

では、主イエスの十字架の死にあたって、何が起こったのか。それらの出来事は私たちの生き方とどう関わるのか、ということを順に見て行きたいと思います。
 
まず、44節から45節の初めにかけて、こう書かれています。既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。――これは何を意味しているのでしょうか。主イエスが十字架につけられたのは過越し祭の時でしたが、その時期に日食は起こり得ません。たまたま急に黒い雲が太陽の光を遮ったということなのでしょうか。ルカがこのことを記したのは、単に自然現象を描いているのではないでしょう。神様は世界創造の最初に、「光あれ」という言葉によって光を造られました。暗闇の混沌の中に、光を投じられたのでありました。それと逆のことが起こっているということを言おうとしているのではないでしょうか。主イエスの死によってこの世から光が失われるということです。ヨハネ福音書は主イエスが世に来られたことを、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(19)と書き、主イエスが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ812)と語られたことを記しています。その「世の光」である主イエスの死に呼応するように、太陽が光を失い、全地が暗くなったのであります。これは光が闇に負けたということでしょうか。そうではありません。世の光である主イエスを受け入れない人間に対して神様の審きがあることを示しているのではないでしょうか。
 
私たちはどうなのでしょうか。私たちは地上の主イエスと同時代に生きているわけではありませんから、主イエスの死に対して責任がないと言えるのでしょうか。私たちが自分の人生・自分の生き方の中に主イエスを受け入れていないとすれば、世の光である主イエスを拒否しているということであり、そこでは闇が支配し始めるのであります。これは単なる比喩ではありません。単に警告として語られているということでもありません。これは私たちの現実を示しています。私たちが主イエスを失うとき、たとえ、この世的な楽しみや豊かさがあって、表面的には明るく見えていても、暗闇が忍び寄って来るのであります。そして私たちを支配し始めるのであります。
 
しかし聖書は、この十字架の出来事によって、光が闇に敗北して、神様の創造の御業が無に帰したということを言おうとしているのではありません。神様はこの主イエスの十字架の御業によって、闇の世にまことの光を輝かせようとしておられるのであります。そのことを示しているのが、45節の後半に記されている出来事であります。

2.神殿の垂れ幕が裂ける

神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた、と書かれています。これは一面においては不吉な出来事であります。神殿の垂れ幕というのは、神殿の中で神様が御臨在されるとされた至聖所を仕切る幕のことで、その中には一般の人は入ることが赦されず、大祭司が一年に一度だけ人々の罪を贖う動物の血を携えて入ることが出来るだけでした。その幕が裂けたということは、それまで行なってきた動物の犠牲による贖いの終焉が告げられたということであります。
 
では、もはや人間の罪が赦されることはないということでしょうか。そうではありません。至聖所を隔てる幕が裂けたということは、一方では神様に近づくことの出来る道が開けたということであります。というのは、主イエス・キリストが十字架にお架かりになって死なれたからであります。それまでの動物に代わって、神の子が犠牲になって、その血が流されることによって、もはや動物の犠牲を献げる必要がなくなり、すべての人の罪が赦され、すべての人が神のもとに近づくことが出来るようになったからであります。ヘブライ人への手紙ではこのことをこう述べています。「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(ヘブライ101920)十字架の上で主イエスの肉が裂かれたことによって、完全な犠牲が献げられたので、もはや至聖所を遮っていた垂れ幕が不必要となって、裂かれて、神様に直接近づくことが出来る道が開かれたということであります。

3.わたしの霊を御手にゆだねます

しかしながら、主イエスの十字架の死というのは、息を引き取られたという単なる肉体的な死の出来事ではありません。主イエスを死に追いやった人間の罪がそこに集約されています。先程述べましたように、そこには私たちが主イエスを受け入れない罪もあります。また、十字架という刑罰には、大きな肉体的な苦しみがあると共に、精神的な苦しみと霊的な苦しみが伴います。人間的には大きな恥を負うことであり、人々から捨てられるということです。先週聞きましたように全ての人々の侮辱を受けねばならないことでありました。そうした人間の精神的苦痛だけではありません。十字架に架かるということは、神様から見捨てられるということでありました。神様との関係が断たれるという、決定的な審きを受けることであります。これは霊的な苦痛であります。そのような十字架の死には、その先に何の光も望みもありません。ただ永遠の闇の中に落とされることであります。しかも、主イエスは神様と人に対して何の罪も犯されていないのであります。これほど不条理なことはありません。主イエスはゲッセマネの園において、苦しみもだえながら、こう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ2242)このように、主イエスしか負うことの出来ない多きな苦しみと辱めと戦いながら、父なる神様の御心に従って十字架への道を歩んで来られたのであります。
 
46節にはこう記されています。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」――これは、詩編316節に出てくる言葉です。詩編のこの言葉の前後を読んでみたいと思います。

主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によってわたしを助けてください。あなたの耳をわたしに傾け、急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き、隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。わたしは空しい偶像に頼る者を憎み、主に、信頼します。慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました。わたしを敵の手に渡すことなく、わたしの足を広い所に立たせてくださいました。主よ、憐れんでください、わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも、苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに、年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ、骨は衰えていきます。わたしの敵は皆、わたしを嘲り、隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き、外で会えば避けて通ります。人の心はわたしを死者のように葬り去り、壊れた器と見なします。ひそかな声が周囲に聞こえ、脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいます。主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、「あなたこそわたしの神」と申します。わたしにふさわしいときに、御手をもって、追い迫る者、敵に手から助け出してください。あなたの僕に御顔の光を注ぎ、慈しみ深く、わたしをお救いください。(以下略)(詩編31:1−17

この詩編は、今読んだだけでもすぐお分りになるように、苦しみの中にある詩人が、神様に対する絶大な信頼を表現したものであります。詩人が苦しみを表現している事柄の中に、主イエスの十字架の苦しみと重なるところがたくさんあります。それと同時に、詩人の神様への堅い信頼を表わす言葉も随所にみられます。主イエスは、もう息を引き取られる直前ですから、この詩の全部を語るわけにはいかない。そこで、この中の6節の言葉で祈りながら、この詩の全体を祈っておられるのでありましょう。「わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られていますが、この「霊」というのは、「魂」という意味で、それは肉体と離れた霊魂のようなものではなくて、肉体も魂も含めた存在のすべて、という意味です。主イエスは神様に全てを委ねられたのです。
 
主イエスの祈りと詩編の言葉とで違う箇所が一つあります。詩編では「まことの神、主よ」と呼びかけられているところを主イエスは「父よ」と祈っておられます。この上もない大きな苦しみと不条理を身に負いながらの死を前にして、主イエスは天の神様に「父よ」と呼びかけておられます。そこには、父と子という切ることの出来ない絆が示されています。そして、そうした父と子の深い信頼の関係の中に、人々を、そして私たちを引き込もうとされているのではないでしょうか。
 
この詩は当時のユダヤ人たちにもよく覚えられていて、人生の中で様々な苦しみに遭遇したときに思い起こして慰めを与えられていたのではないかと思われます。私たちもこの詩によって、自分の苦しみと重ね合わせながら、慰めを与えられます。しかし、主イエスの十字架の苦しみというのは、私たちが遭遇する苦しみとは量的にも質的にも格段に違うわけであります。けれども、主イエスは十字架上でこの詩の言葉を引用しながら祈られることによって、ただ自分の苦しみのことを祈っておられるのではなくて、私たちの苦しみの祈りに関わろうとしておられて、私たちの苦しみをも共に担おうとしておられるのではないでしょうか。そして、主イエスと同じように、私たちもすべての苦しみ・悩み・重荷を神様に委ねることが出来るようにしようとして下さっているのではないでしょうか。私たちの神様に対する信頼は十分ではありません。ですから不安が拭い切れません。しかし、主イエスの父なる神様に対する信頼は絶大です。その主イエスの信頼へと私たちを伴って行こうとされているのであります。
 
説教の冒頭で、今日の箇所の中で、この主イエスの祈りが中心であるということを申しました。では、最初の太陽が光を失ったことと、この祈りとはどう関係があるのでしょうか。詩編31編の17節で詩人は「あなたの僕に御顔の光を注ぎ、慈しみ深く、わたしをお救いください」と言っております。失われた光の回復を求めているのであります。主イエスも人間の罪によって失われた光が回復されることを求めておられるのではないでしょうか。その光はどのようにして回復されるのでしょうか。それは、主イエスが神様への絶大な信頼をもって御自身を捨てて十字架の死を遂げて下さったことによるのではありませんか。また、神殿の垂れ幕が裂けました。それは神様との交わりが回復する道が開けたことを意味するのだということを申しました。そのことはどのようにして実現するのでしょうか。それもまた、主イエスが父なる神様に対して絶大な信頼をもって十字架の死を遂げて下さったことによるのではありませんか。ですから、父なる神様に対する主イエスの祈りに込められた絶大な信頼が、失った光を回復させますし、閉ざされていた神様に近づく道を開くのであります。

4.正しい人だった

47節に進みます。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した、とあります。百卒長というのは、ローマ軍の百人単位の部隊の長に当たる人であります。おそらく、主イエスを十字架につける役目をした兵士たちの長に当たる人でありましょう。真の神様を知らない異邦人であります。その人が主イエスの十字架の死の出来事の経緯を見て来て、「本当に、この人は正しい人だった」と告白したのであります。この「正しい」とう意味は、ローマ法上の罪を犯していないという意味もあるでしょう。総督ピラトも主イエスに何の罪も見出せないまま、群衆の求めに応じて十字架につけることを決めてしまいました。しかし百卒長は、やはり主イエスには罪がなかった、と認めているということが含まれていると思われます。しかし、それだけではないでしょう。主イエスが神様への絶大な信頼をもって祈っておられることを見て、異邦人ながらも、神様との関係において、主イエスは何の罪もない正しい人であった、ということを知らされたのではないでしょうか。伝説によれば、この百卒長はロンギスという名前で、後に洗礼を受けたと伝えられています。そのことの真偽はともかく、主イエスの神様に対する信頼に満ちた祈りを聞いて、異邦人の百卒長までが、主イエスが父なる神様との深い信頼関係にある「正しい人」であることを認めたのであります。
 
百卒長だけではありません。48節によれば、見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った、とあります。どのような感動を覚えて胸を打ったのかは書かれていませんが、ユダヤ人であれば皆、詩編31編を知っていたでしょうから、主イエスの祈りを聞いて詩人の言葉を思い出しながら、やはり父なる神様に対する主イエスの深い信頼を覚えて胸を打たれたのではないでしょうか。もちろん、主イエスの十字架の御業だけでは救いの業は完成いたしません。ですから、百卒長や胸を打った人々が、この日の出来事を見ただけで、クリスチャンになって救いを得たわけではなくて、復活の主との出会いが伴わなければなりません。けれども、救いの御業の中心に主イエスの父なる神様に対する深い信頼があるということ、そのことに間違いはありませんし、私たちもその信頼関係の中へと招かれているということであります。

結.私たちは何を見ているか

最後に、49節を見ましょう。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた、と書かれています。十字架の近くには十二人の弟子たちはいません。「イエスを知っていたすべての人たち」とは、弟子たちよりも広い層の人たち、主イエスの癒しを受けたり、慰めを受けたり人たちでしょう。「ガリラヤから従って来た婦人たち」とは、主イエスの一行とともに旅行をしながら、弟子たちの身の回りの世話をして来た女の人たちであります。そうした十二弟子以外の人が、主イエスの十字架の死にきっちりと向き合って、主イエスが父なる神への絶大なる信頼をもって死なれたことを見届けたのであります。けれども、この場にいた「イエスを知っていた人たち」も「ガリラヤから従って来た婦人たち」も、「遠くに立って」見ていたに過ぎません。まだ、主イエスとの間には距離が残されていました。この人たちが更に主イエスに近づき、主イエスを神の子・キリストと信じて新しい歩みを始めるためには、復活の主との出会いが必要でありました。しかし、十字架の主の姿を見たこと、そして十字架の上での主イエスの祈りを聞いたことは、自分たちの救いとはどういうことなのか、そのために主イエスが何をして下さったのか、そこには主イエスの神様に対する絶大な信頼があった、ということを心にしっかりと焼き付ける出来事であったことは確かであります。
 
彼らは、「遠くに立って、これらのことを見ていた」と記されています。遠くからではありますが、見ていたので、後に十字架の出来事を人々に伝えることが出来ました。では、私たちはどこに立って、何を見ているのでしょうか。今日は、私たちもまた、この人たちと主イエスの十字架の場面に、聖書と説教を通して立つことを許されました。まだ、遠くに立っているだけかもしれません。しかし、主イエスは私たちをも、十字架の出来事の証人として、主イエスの父なる神様に対する信頼によってこそ、私たちを救って下さる道が開かれたことを証しすることが出来る者へと召して下さっているのではないでしょうか。私たちもまた、主イエス・キリストと父なる神様への信頼をもって、従って行くものとされたいと思います。
 
主イエスの執り成しによって祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
御子イエス・キリストがあなたへの絶大な信頼をもって十字架の死を受けて下さったことによって、私たちの罪の贖いが成し遂げられ、私たちが赦され、救われましたことを覚えて、深く感謝いたします。
 
私たちはなおも、この恵みを忘れ、あなたとの関係を疎かにしてしまう弱い者であることを恐れます。どうか、御言葉によって、絶えず主イエス・キリストのあなたへの信頼を思い起こす者とならせて下さい。どうか、主イエスとあなたに、全てを委ねる信仰を持ち続けることが出来るようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年3月24日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカ23:44−49
 説教題:「
正しい人の死」         説教リストに戻る