「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」             (ルカによる福音書2334 

 福音書は十字架上における主イエスの苦しみについては語らず、人々が主イエスをどう扱い、どう向き合ったかということと、それに対して主がどう語られたかを記す。
 ルカ福音書は、「人々」が主イエスを二人の犯罪人と共に十字架につけたことを記して、主イエスが何の罪もないのに罪人の一人になられたということを強調している。今一つ注目すべきは、「人々(彼ら)」が十字架につけたと記し、兵士か、総督ピラトか、祭司長や議員たちか、民衆かを特定していない。ルカは自分自身を含め、皆が十字架につけたと言いたいのだろう。その「人々」の中に、私たち自身の罪の姿も見なければならない。
 次に、民衆も、議員たちも、兵士たちも、主イエスをあざ笑って、「自分を救うがよい」と言ったことを記す。彼らは、主イエスが病気の人、困っていた人、虐げられていた人を救ったことを認めつつも、自分を救われない主イエスを救い主と認めていない。だが、もし、主イエスが自分を救うために十字架から降りられたなら、人々を罪から救い出すという目的は達せられない。主は自分を救わず、「人々」を救ったからこそ、本当の王であり、メシア(救い主)」なのである。
 主イエスは「人々」のために、標記のように祈られた。「人々(彼ら)」は罪なき神の子を十字架につけていることに気付いていない。そこに罪がある。だが、そんな「人々」のために、主は赦しを願っておられる。
 主イエスと共に十字架につけられた犯罪人の一人も、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ってなじった。だが、もう一人の犯罪人は、彼をたしなめて「お前は神をも恐れないのか、・・・我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言った。彼は十字架の主に向き合うことによって、自分の罪を認めるとともに、主に罪がないことを証ししている。そして遠慮がちに「御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された。この大罪人も、主の十字架のゆえに、天国に招き入れられたのである。それだけではない。主は、ののしったもう一人の犯罪人も、御自分を十字架につけた「人々」さえも赦されることを願っておられる。教会は、この主イエスの祈りがあるので、すべての人の救い(罪の赦し)を宣べ伝えるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2013年3月17日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカ23:32−43 説教題:「十字架上のイエス」   説教リストに戻る