序.十字架と向き合う

先週の礼拝後の昼食会のときに、米子伝道所の十字架をもっと高くして遠くからでもよく見えるように出来ないか、という話が出ました。十字架は紛れもなく教会のシンボルであって、遠くからでも十字架が見えれば、誰でもそこに教会があると分かります。十字架は世界中で通用する教会のしるしであります。
 
しかし、十字架は言うまでもなく、単なる教会の所在を示すしるしではありません。十字架は神の子イエス・キリストの死のしるしであり、罪の贖いのしるしであり、救いのしるしであります。十字架は、神が私たちにどう関わって下さったか、私たちが何によって生かされているのか、ということを表わすしるしであります。ですから、もし私たちが、十字架を単なる教会の所在を示すしるし、あるいはキリスト教のシンボルとしてしか見ないなら、十字架が表わしている本質と関わっていないということになりますし、十字架を単に重罪人の処刑のしるしとして見るだけでは、私たちは主イエスの十字架の傍観者または見物人に過ぎないことになります。今日与えられております聖書の箇所は、正に主イエス・キリストの十字架の場面であります。ここでは十字架の傍観者や見物人であることを許されません。私たちが十字架とどう向き合うのか、どう関わるのかが問われます。主イエスの十字架の周りには色々な立場の人がいました。そして、それぞれが十字架と向き合わされました。そして、そこで十字架とどう関わったかによって、主イエスの救いに入れられるかどうか、神の国に入るか否かという大きな分かれ道を選択することになるのであります。
 
十字架がそのような重要な分かれ道になるのであれば、私たちは十字架の状況について詳しい情報を得たいと思います。しかしながら、聖書は十字架の状況について、特に主イエスの十字架上でのお苦しみについては、極めて控え目にしか記していません。何年か前にキリストの受難を取り上げた「パッション」という映画が公開されましたが、これはキリストの苦しみを目に見える映像で表現しようとしたものでしたが、聖書に記されていないことまで想像して描いていました。しかし、聖書はどうしても書かなければならないことだけを簡潔に記しています。それでも、そこには非常に豊かな内容が含まれています。今日の聖書の箇所だけからでも、多くのことを学び、聞くことができますから、ここだけで幾つもの説教が可能でしょう。しかし、聖書の語ろうとする中心テーマは一つであると言ってよいかと思います。それは、「救い」ということ、言い換えれば「罪の赦し」ということであります。今日は、主イエスの十字架に向き合うことによって、この中心テーマである「救い」に与かりたいと願っています。

1.人々はイエスを十字架につけた

さて、3233節にはこう書かれています。ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
 
ここには主イエスが、二人の犯罪人と一緒に扱われたことが強調して書かれています。ほかの犯罪人と一緒に死刑場へと引かれて行き、二人の犯罪人と並べて十字架につけられたのであります。先程朗読されましたイザヤ書53章は、「主の僕の歌」と呼ばれているもので、十字架の主イエスのことを預言したものだと受け止められていますが、その12節には、「罪人のひとりに数えられた」と語られておりました。また、主イエス御自身も、ルカによる福音書22章の37節で、十字架を前にして、このイザヤの預言を引用しながら、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」と言っておられます。そのことが実現したのです。
 
ではなぜ、主イエスが「罪人のひとりに数えられた」ということがこのように強調して書かなければならないほど重要なのでしょうか。それは、主イエスがこの世に来られた目的がそこにあるからなのです。主イエスは病気の人を癒したり、目の見えない人を見えるようにされたり、見捨てられた人々の仲間になられました。それらのことも、他の人には出来ない大きな御業で、そういう主イエスが好きな人は多いのです。しかし、犯罪人と同じ十字架に架けられた主イエスは好きになれない人、そのことに目を向けたくない人が多いのです。しかし、聖書が最も重要だとするのは、主イエスが罪人の一人に数えられたということなのであります。もっとも、罪人の中に身を置くということ自体はそれほど難しいことではなくて、私たちでも出来ることであるかもしれません。しかし、自分に罪がないのに罪人になるということは、私たちには出来ません。主イエス・キリストしか出来なかったことであります。主イエスはそのことをするために来られたのです。だからこそ、聖書は強調して書いているのであります。ところが、主イエスを十字架につけた人々は、そのようには毛頭考えていないのであります。主イエスにこそ問題がある、神様に対して大きな罪を犯しているので十字架が当然だ、と思っているのであります。そして、自分たちは正しいことをしていると思っているのであります。
 ここでもう一つ注目したいことは、33節に、「人々はイエスを十字架につけた」と書かれていることです。ここで「人々」とは誰でしょうか。実は原文は、「人々」ではなくて、「彼ら」であります。「彼ら」とは誰かと思って遡って行きますと、26節の冒頭に「人々は」とありますが、これも実は「彼ら」であります。ピラトの所から刑場まで引いて行ったのはおそらくローマの兵士たちであろうと考えられますが、ルカはそう書かずに、「彼ら」と記します。更に遡りますと、25節の最後に「彼らに引き渡して」とありますが、それは23節や21節に出てくる「十字架につけろ」と叫んだ「人々」のことでありまして、それは祭司長たちかもしれませんし、彼らに扇動された民衆かもしれません。いずれにしろルカは、十字架につけた人を特定していないのです。つまり、特定の人が十字架につけたのではなくて、皆がつけたと言いたいのであります。祭司長たちも、民衆も、ピラトも兵士たちも、みんなして主イエスを亡き者にすることに加担していた、と言いたいのであります。
 
では、私たちはどうなのでしょうか。「私たちはその場にはいませんでした」と言って、関与を否定できるのでしょうか。私たちは自分の生活の中で、主イエスをどのように扱っているかを顧みなければなりません。主イエスは私たちのどのような場面でも、私たちの主であろうとなさいます。主権を行使しようとされます。しかし私たちは、自分の生活の隅々まで関与されるのを嫌います。迷惑だとばかりに、主をないがしろにしようと致します。主を無視しようとします。主の存在を否定しようといたします。―――それは主イエスを十字架につけることではないでしょうか。私たちは、主イエスを十字架につけた人々(彼ら)の中に、自分自身の姿を見なければなりません。私たちが主イエスを、あたかも罪ある犯罪人の一人のようにして、消し去ろうとしているのであります。「人々」とは実は「私たち」です。そう言うと、「いや、私はイエス様を偉大な人物だと評価しています」と言うかもしれません。「いや、私は十分とは言えないまでも、イエス様のために出来るだけのことはして来たつもりです」と言うかもしれません。確かに、イエス様のために、また教会のために、何某(なにがし)かのことはしたかもしれない。しかし、それは、イエス様のためと言うよりも、自分のため、自分の名誉や言い訳のためではなかったのでしょうか。私たちがして来たことは、その表向きや外見はともかく、「そこで人々はイエスを十字架につけた」と言われている事柄と同じようなことをして来たと言えるのではないか、ということであります。十字架に向き合う時に、そういう自分の恐ろしい罪の姿が明らかにされるのであります。そのような人間の本当の姿が、34節後半以降に更に鮮やかに示されています。そこを先に見ておきます。

2.「自分を救うがよい」

34節後半には、人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った、とあります。ここでも、「人々」と書かれていて、特定されていませんが、他の福音書では兵士たちと明記されていますし、そういうことが許されていたのは十字架につける役をした兵士だけであったようですから、兵士たちに違いありません。彼らは、主イエスの苦しみには関心がありません。ただくじを引いて何が自分に当たるかに関心があります。いかにもレベルの低い話であります。しかし、ここでもルカは「人々」(彼ら)と書いて、「兵士たち」とは書かないのは、読者もこの兵士たちと同様に、自分の利害のことしか考えずに、主イエスの苦しみなどどうでもよいのではないか、と言いたいからであります。私たちは主イエスの十字架よりも、もっと楽しいこと、自分の利益になること、自分を高めることに関心があるのであります。
 
35節から38節にかけては、人々が主イエスをあざけっている様子が記されています。最初に、民衆は立って見つめていた、とあります。彼らは何を思い、何に関心を持って見つめていたのかは記されていませんが、その後に、議員たち、とありますから、議員たちと同様に、民衆もあざ笑っていたということでしょうか。
 
議員たちは、あざ笑って言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。議員たちも主イエスが他人を救ったことは認めております。主イエスは多くの困った人を助け、病人を癒し、虐げられている人々に慰めを与えられました。それは主イエスが旧約聖書に預言されている「来るべき」メシアであることのしるしであります。しかし、議員たちは「もし神からのメシアで、選ばれた者なら」と言っております。この「メシアで、選ばれた者」というのはイザヤ書に「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」(イザヤ41:1)と言われている「わたしの僕=メシア」を指した言葉であります。議員たちは主イエスがそこで言われているメシアであることを認めていません。そして議員たちは、「自分を救うがよい」と言います。今、自分を救えないようでは、メシアと言えない、というのであります。これは、普通の考え方であります。この世では、自分が一番大切なのが当たり前です。自分が救えないようでは信用ができません。私たちも、自分を救わない方(かた)をなかなか信用できないのであります。私たちも、困った人を助けたり、病気を癒したり、虐げられている人を慰めるイエス様は好きですが、ここぞという所で力を発揮せず、御自分の力をお示しにならない主イエスが理解できないのであります。黙って侮辱を受けておられる主イエスを物足りなく感じるのであります。
 
3637節には、兵士たちによる侮辱が記されています。酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、とありますが、元来は痛みを軽くするためのものであったようで、マタイによる福音書では、イエス様はそれを飲もうとされなかったと書かれています。それは、苦しみを味わい尽くそうとされたのだと見ることが出来ます。しかし、ここでは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」という侮辱の言葉を吐いて、酸いぶどう酒を突きつけております。それは、王様に向かって僕がぶどう酒を差し出す仕草をして、茶化しているのであります。ほかの福音書では、兵士たちは王の象徴である紫の服を着せ、茨の冠をかぶらせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼したと書かれています。彼らは思いっきり主イエスを侮辱したのであります。
 
38節によると、主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてありました。ここにも、侮辱が込められています。人々は主イエスがユダヤ人の王として、自分たちをローマの支配から救い出してくれることを期待しました。しかし、主イエスはそのような期待には応えられませんでした。それで、<ユダヤ人の王であると言いながら、自分を救うことさえ出来ないではないか>という侮辱を込めた罪状書きが掲げられたのです。
 
今、兵士たち、民衆、そして議員たちがこぞって、「自分を救うがよい」と言って、主イエスを嘲(あざけ)る様子を見て来ました。では、私たちはこの十字架の主イエスとどう向き合うのでしょうか。私たちが主イエスに対して期待していることは何なのかということを考えてみる必要があります。私たちも、この人たちと同じように、主イエスが十字架から降りて来られることを願っているのではないでしょうか。もっと色々な形で力を振るってほしいと思っているのではないでしょうか。自分の病気を治してくださるとか、こじれた人間関係を修復してくださるとか、自分の人生や今の社会をもっと豊かにしてくださるとか、そういうことで力を発揮してほしいと思っているのであります。しかし、それは主イエスを十字架から引き摺り下ろすことになります。もし主イエスが十字架から降りられるなら、先ほど聞いた「罪人のひとりに数えられる」という本来の目的から降りることになります。もし主イエスが自分自身を救うために十字架から降りられたら、人を救うことは出来ません。人は皆、自分が幸せになること、自分の誉れが高まることを求めて、そこに救いがあると思っています。しかし、そこにこそ罪が現れています。そのような人間の求めに応じるために主イエスが十字架から降りられたならば、罪からの救いという本来の目的を達成することが出来なくなります。ですから主イエスは十字架から降りることはなさいません。自分を救わないで、他人を罪から救ったお方こそ、本当の王であり、メシアなのであります。

3.「彼らをお赦しください」

さて、主イエスを十字架につけ、このような侮辱の限りを尽くした人々に対して、主イエスが言われた34節の言葉を聞かなければなりません。「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです」。「彼ら」と言っておられます。これは直接的には、主イエスの体を十字架につけた兵士たちのこととも考えられますが、先ほども申しましたように、この辺りに出てくる「彼ら」や「人々」は兵士とか議員とか民衆に特定できないのであります。むしろ全ての人々を含んでいるのであります。おそらく筆者のルカは、この主イエスの言葉の「彼ら」の中にも、自分自身を含めた全ての人を含めて受け取っているのでありましょう。主イエスは、この私たちのためにも、「彼らをお赦しください」と祈ってくださっているのであります。世界中の人間が、この主イエスのお言葉によって救われているのであります。
 
しかし、私たちはこの言葉の厳しい側面も聞き逃してはならないでしょう。それは、赦しが必要だということは、罪があるということを意味するからであります。十字架の周りにいる人たちにも、私たちにも、神様から罰せられるべき罪があるということです。死に値する罪を犯した、ということであります。
 
主イエスは神様に赦しを祈られたときに、その理由として「自分が何をしているのか知らないのです」とつけ加えておられます。これはどういう意味でしょうか。主イエスは、意識的に罪を犯した人と、無知から罪を犯した人を区別しておられるということなのでしょうか。例えば兵士は、イエスを十字架につけたと言っても、彼らがイエスを罪に定めたわけではなくて、彼らは深い事情は何も分らなくて、ただ職務として命令に従っただけだから、赦されるということなのでしょうか。ピラトも、ユダヤ人の中にあったイエスを殺したい事情がよく分らないうちに、死刑の判決を下さなければならない所へ追いやられたから、赦されるということなのでしょうか。――そういうことではありません。主イエスは、彼らがよく分らないまましてしまったこと、していることも罪だとおっしゃるのであります。だから赦しが必要なのであります。よく分らないからと言って、罪を免れることは出来ません。兵士が職務からやったことも、ピラトがユダヤ人たちの主張に押されてやったことも、罪なのであります。無知や無定見も言い逃れにはなりません。無知や無定見から人を傷つけ、人の命を奪ってしまうのであります。知らないことも罪なのです。「知りませんでした」という言い訳は、神様の前では通用しません。
 
では、なぜ主イエスは父なる神様に「彼らをお赦しください」と祈られるときに、「自分が何をしているのか知らないのです」と付け加えられたのでしょうか。それは、彼らは自分が何をしているのか知りたくなかった、自分たちが神の子を侮辱し亡きものにしようとしていることを認めたくなかった、そこにこそ罪があり、それゆえにこそ神様の赦しが必要であったからであります。
 
私たちとイエス様の関係はどうなのでしょう。私たちも十字架の周りにいた人たち(議員や兵士や民衆)と、何ら違わないのではないでしょうか。私たちも自分が何をしているか知らないのです。自分がしていること、しようとしていることを知りたくないのであります。自分が主イエスを十字架につけたのではなくて、誰か他の人がつけたと思いたいのであります。あるいは十字架についておられるお方を神の子だとは認めたくないのです。それらを認めると自分の立場がなくなるからであります。――しかし、そこに罪があります。その罪こそが、主イエスを十字架に追いやっているのであります。主イエスはその罪のためにこそ、「お赦しください」と祈っておられるのであります。
 

4.「わたしを思い出してください」

39節からも、同じ十字架の場面ですが、今度は主イエスの両隣で十字架に架けられた二人の犯罪人との対話が記されています。彼らが何の罪で十字架につけられているのか、聖書は何も語っていません。マタイ、マルコでは「強盗」と書かれていますが、政治犯ではなかろうかとも言われております。しかし今はそんなことはあまり重要ではありません。
 
私たちは今、直前の箇所を通して、私たちが十字架の周囲の人たちと同じ罪人であり、神の赦しを必要としている者たちであることを見て来ました。本来は私たちも、主イエスの両脇の犯罪人と同じように十字架につけられて、神の審きを受けて死ななければならない罪人であることを知らなければなりません。
 
犯罪人の一人が、十字架の周りの人たちと同じように、主イエスをののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。この犯罪人は、自分が十字架につけられなければならないような罪人でありながら、それを棚に上げて、隣の主イエスに勝手な要求をしています。あたかも、自分が十字架につけられなければならないのは主イエスの責任でもあるかのような言い方であります。これが人間の姿であります。私たちもまた、責任逃れをします。自分の過ちは認めたくないのです。あの人が悪い、環境が悪い、時代が悪いと言って、責任を転嫁してしまいます。おまけに、こんな自分を救えないキリストが悪い、などと、とんでもないことを考えてしまうのであります。
 
ところが、もう一人の犯罪者は、これをたしなめて言いました。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。 他の福音書によれば、はじめはこの犯罪者も一緒になって主イエスをののしっていたようです。しかし、十字架上の主イエスのお姿を見、お言葉を聞いているうちに、自分が人に対してだけではなく、神に対して罪を犯したことに気付きました。自分が死に値する者であることを認めることができました。そればかりでなく、主イエスが何も悪いことをしていない罪もない方であることを告白することまで出来ました。これが悔い改めであります。自分を見つめて反省したから、罪を認めることができたのではありません。主イエスのお姿を見、お言葉を聞いたからであります。本当の悔い改めは、主の十字架を仰ぐことによってはじめて出来るのであります。
 
そして彼は主イエスに一つのお願いを申し出ました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。――彼は自分が天国に行ける者だとは思っていませんから、「一緒に御国に連れて行って下さい」とは言っておりません。せめて思い出してほしいと言っております。ここに、彼の主イエスに対する信頼があらわれています。<この方は罪もないのに、自分と同じ十字架を負っておられる。自分と一緒にいて下さる>。その主を見ることによって、そこに主イエスに対する信頼が湧き上がって来たのであります。そして主に憐れみを求めました。

結.「今日わたしと一緒に楽園に」

これに対して主イエスは、<勝手なことを言うな>とはおっしゃいません。こう言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。一緒に天国に行ける、と約束して下さったのであります。ここに大きな希望があります。主イエスは自分を十字架につけた人々のために赦しを祈られました。それだけでなく、死すべき大罪人をも天国に招きいれて下さるお方であります。
 
ところで、カール・バルトはこの箇所で「イエスと共なる犯罪人」という題の説教をバーゼルの刑務所の囚人たちの前で行なっています。その中でバルトは、主イエスが共におられるのは、自分の罪を認めたもう一人の犯罪人だけではなくて、主イエスをののしった犯罪人とも一緒におられる、ということを言っています。しかも、ここに最初のキリスト教会がある、と言うのであります。私たちはつい、悔い改めた犯罪人の方に目が行き勝ちであります。確かに、悔い改めなければ、天国に入ることは出来ません。その点では二人の犯罪人には大きな違いがあります。しかしよく考えて下さい。主イエスは現に、二人の犯罪人と一緒に十字架について、同じ苦しみを味わっておられるのです。悔い改めた犯罪人とだけでなく、ののしっている犯罪人とも一緒におられるのであります。現に主イエスは、「自分を救ってみろ」と叫ぶ人たちに対しても、34節で「彼らをお赦しください」と祈っておられます。主イエスを侮辱している人たちも、赦されて天国に入れられることを望んでおられるのであります。主イエスはその人たちとも一緒におられるのであります。主イエスの十字架はその人たちのためでもあるのです。
 
教会というのは、このように、主イエスが罪人と一緒にいて下さるところであります。主が罪人たちのために十字架についていて下さるところ、共に十字架を負っていて下さるところ、そして、パラダイスへの招きが語られるところ、それが教会であります。もちろん、悔い改めなければ、天国に入ることは出来ません。しかし、まだ悔い改めていない者にも、また一度は悔い改めてもまた罪の中に落ち込んでいる者にも、主イエスは教会において出会ってくださいます。そして、<お前の十字架を一緒に負うよ>、と言って、神の国へと招いていて下さるのであります。
 
 今年の目標は「喜びの礼拝」でありますが、その礼拝とは、十字架の主と共にある礼拝であります。私たちも死すべき者として、十字架を負っています。しかし、その私たちに、主イエスは約束されます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。このお言葉を聞くことの出来るので、「喜びの礼拝」なのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

御子イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪をも贖って下さった父なる神様!その恵みを覚えて感謝いたします。
 
どうか、私たちを十字架の主イエスの御許から離れることがないように留めて下さい。どうか、終わりの日には、罪深い私たちをも残らず御国に加えて下さいますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年3月17日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカ23:32−43
 説教題:「
十字架上のイエス」         説教リストに戻る