序.自分を知っているか

今年のイースター(復活節)は3月31日の主日ですが、イースターの礼拝は子供たちとの合同礼拝として行うことにしています。そして、礼拝の中で人形劇を行うのですが、その題は「復活のイエスとペトロ」ということで、ペトロが弟子になったところから始まって、ペトロの信仰告白、裏切り、そして、主イエスの十字架と復活があって、裏切ったペトロが復活の主イエスと出会って、もう一度、弟子としての新しい人生を与えられるという物語であります。
 
 今日、与えられた聖書の箇所は、ペトロの裏切りを主イエスが予告されたことが記された場面で、人形劇の中にもペトロの裏切りを予告された場面はあるのですが、ルカによる福音書には、他の福音書にはない主イエスのお言葉も含まれていますので、今日は、そのあたりを中心にメッセージを聴き取りたいと思っています。
 
ところで、ペトロの裏切りの予告は最後の晩餐の席で行われたとみられるのですが、22章の初めを見ますと、この時にはもう、主イエスを捕らえて殺そうとする人たちがその良い機会を狙っていたということが書かれていて、そのことは主イエスも弟子たちにも分かっていたと思われます。そうした緊迫した雰囲気の中で、今日の箇所の場面があるわけです。そういう状況の中で、ペトロを初めとする弟子たちも、もしそういうことがあれば、自分たちは身を挺して主イエスをお守りしなくてはならない、ということも真剣に考えていたと思われます。しかし、主イエスははっきりとペトロの裏切りを予告なさるのであります。そして、このあと、何時間も経たないうちに、主イエスのおっしゃったことが現実となってしまうのであります。ということは、弟子たちは主イエスを売ったイスカリオテのユダを除いては誰も、自分が裏切ることになるとは思っていなかったということです。誰も、自分の本当の姿を知らなかったということです。この事実は、私たちに対する大きな問いとして受け取る必要があるのではないでしょうか。
 
私たちと主イエスとの関係について、私たちは自分のことが本当に分かっているのだろうか、ということです。自分のことを正直に振り返ってみて、大抵の方は、主イエスに対して、一定の尊敬の念を抱いておられると思います。どんなことがあっても主イエスには従って行くのだと自信を持って言えないにしても、少なくとも主イエスに反抗しようとか、主イエスを無視しようとは思っておられないので、こうして礼拝に来て、主イエスの御言葉に耳を傾けようとされているのだと思います。中には、誰が何と言っても、自分は生涯、主イエスを信じ抜くのだと、心に決めておられる方もいらっしゃるかもしれません。
 
しかし、ペトロの裏切りの物語は、私たちが自分の信仰のことについて、自分と主イエスとの関係について、本当には分かっていないのではないか、という問いを投げかけるのであります。そしてそこから、新たな思いで、主イエスというお方と向き合うことへと導かれるのであります。今日は、そういう礼拝になればよいと思っています。

1.だれがいちばん偉いか

さて、今日の箇所も、いきなり裏切りの話になったのではなくて、すぐ前に書かれていることの続きですので、24節からの段落を見ておきたいと思います。
 
24節に書かれているように、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった、のであります。これは主イエスとの最後の晩餐となる食事の席でのことです。多分、十二人の弟子たちがいました。その中で誰がいちばん偉いか、という議論です。弟子たちの中では先輩・後輩とか、位の上下はありませんでした。しかし、周囲の人たちから見て、誰が偉そうに見えるか、ということには関心があったようです。人間というのは、ある集団が作られると、その中で誰が目立っているか、誰がリーダー格なのかということをどうしても考えてしまいます。表立って争うことはなくても、心の中ではどうしてもそういうことを考えて、その集団の中での自分の地位というものが気になります。それは学校でも、職場でも、同好会のようなものでも同じことです。教会の中でも、そういうことが出て来ることがあります。今、弟子たちは、先ほど触れたように、主イエスの命を狙っている人たちがいるわけですから、誰が偉いかなどということを議論するような状況ではないのですが、危機が迫っている中で、誰がリーダーシップをもって敵と向き合うことが出来るかということに関心が向かったのかもしれません。しかしそれは、弟子たちの心が、主イエスが受けようとしておられる苦しみのことから離れているということです。主イエスの生死がかかっているのに、そのことよりも自分たちの中でだれが偉いのか、誰がよい働きを出来るのか、その中で自分の立場はどうなるのか、ということの方に心が向いてしまっているのであります。浅はかと云えば浅はかなのですが、私たちも普段、主イエスとどう向き合うかという一番大切なことよりも、自分の立場のこと、自分が人からどう大きく見られるかということに心が占領されてしまっていることがあるのではないでしょうか。弟子たちも、主イエスの十字架を無視した議論をしてしまっていたのであります。そこに彼らの罪が現れて来ているのであります。
 
そこで25節以下で、主イエスはこう言っておられます。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」2527節)――これは、人間の集団の中では偉そうにするより、互いに謙遜に仕え合った方がよいという道徳の教えではありません。ここで「給仕する」とは、単に人のために仕えるということではなくて、主イエスの十字架のことを言っておられるのであります。ここで「給仕する」とは、人のために罪を負うということであります。主イエスはこれから十字架に向かおうとされているのに、弟子たちは内部でどちらが偉いかという議論をしているわけです。
 
しかし、このような弟子たちの姿がまた私たちの罪の姿でもあるのではないでしょうか。主イエスはそのような私たちのためにも、十字架への道を歩んでおられたのであります。

2.ふるいにかける――試練

今日の箇所の31節以下に入りますが、そんな弟子たちに対して、こう言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」――シモンというのはペトロの本名です。ペトロは弟子たちの中でリーダー格でありました。そんなペトロが名指しで呼ばれています。しかし、言われていることの中身は、「あなたがたを」と言われていますように、ペトロだけでなく弟子たち全部のことです。「サタンはあなたがたを、ふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われています。「ふるいにかける」というのは、収穫された小麦をふるいにかけて、良い麦だけ残して、それ以外は捨てられるように、本物の信仰を持っているかどうかでふるい分けられて、偽の信仰しか持っていないものはサタンの手に渡るということでしょうか、あるいは、信仰にゆさぶりをかけて試されて、しっかりと神様につながっていないものは振り落とされるということでしょうか。いずれにしろ、サタンが神様の許可を得て、弟子たちを試みているということであります。旧約聖書のヨブ記の最初に、サタンが信仰の篤いヨブに試練を与えることを願って許可される場面が描かれています。なぜ神様がそんなことを許可されるのか、私たちには理解しにくいことですが、私たちの人生の中でも、現にこのようにして、信仰を試されることがあるのであります。
 
今、主イエスが敵の手に引き渡されようとしています。これは弟子たちにとって大きな信仰の試練であります。主イエスとの関係が試されるのであります。そういう中で弟子たちは、だれがいちばん偉いかというような議論をしている。正にサタンの試みを受けて、落ちこぼれようとしているのであります。現に、このあとペトロは、いい格好をするのですが、それは信仰から出たものではなかったので、あっさりとサタンの試みにひっかかってしまうのであります。これがまた、私たちの現実であります。

3.信仰が無くならないように

ところが主イエスは、続けて32節でこう言っておられます。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と。サタンは弟子たちや私たちをふるいにかけて、信仰から振るい落とそうとします。しかし、それに対して主イエスは「信仰が無くならないように」と祈っておられたというのであります。ペトロは主イエスがなぜそんな祈りをされたのか、分からなかったのではないでしょうか。ペトロは先に、主イエスに対して立派な信仰の告白をして、主イエスからお褒めをいただきました。そして、今も主イエスを深く信頼しているつもりです。主イエスに、もしものことがあっても、しっかりとお支えするつもりでいます。ですから、主イエスからこんな言い方をされるのは不本意であったでしょう。自分の心意気が分かってもらっていないのを不服に思ったかもしれません。しかし、主イエスはペトロの弱さを見通しておられます。ペトロの信仰の危うさを見ておられます。信仰が危ういのはペトロだけではありません。他の弟子たちも同様であります。彼らが、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうかと議論していることのなかに、信仰の危うさが表われています。
 
私たちもまた、自分の立場が大事で、自分が人からどう思われているかが一番気になるのであります。そこに、主イエスに対する信仰の危うさがあります。ですから、私たちも主イエスから見れば、「信仰が無くならないように」祈っていただかなくてはならない者たちであります。それなのに、私たちは周りの人の信仰の状態を見て、あの人はまだ信仰が足りないとか、あの人の信仰は本物ではないのではないかとか、あの人の信仰には危うさがあるなどと、自分の信仰が一段上にあるかのように評価したりしているのではないでしょうか。主イエスは、そんな私たちに、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われているのであります。
 
「祈る」ということは、神様と向き合うということであり、神さまを信頼しているということです。そこには、サタンとの戦いが伴います。主イエスが「あなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われる場合、それは、私たちのために主イエスがサタンと向き合って戦われた、ということであります。私たちは、主イエスが伝道を開始される前に、荒野でサタンの試み受けられたことを知っています。それは、神の子だからこそ受ける特別な試みでありました。その試みに対して主イエスが神様の御言葉によって戦われ、サタンを排除されました。この主イエスの戦いはまた、私たちのための戦いでもありました。弱い私たちに代わって、予め戦って下さったのでありました。そういう意味で、十字架の御業を先取りする戦いでありました。主イエスは御言葉への絶対的な信頼をもって、サタンの試みに勝利されたのでありました。主イエスは今、ペトロにもそのことを言っておられるのではないでしょうか。
 
主イエスは更に続けて、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とも言われています。これからペトロの信仰が無くなるかもしれないという段階でありますのに、主イエスはもう、ペトロが立ち直った時のことまでも述べておられるのであります。主イエスが祈られたことによって、ペトロが立ち直ることを確信しておられるのでしょう。否、主イエスが立ち直らせようと決心なさったのです。主イエスはまた、信仰の危うい私たちの信仰が無くならないようにサタンと戦って下さるだけでなく、殆んど信仰を失うような危機に陥っても、そこから立ち直らせようとして下さるというメッセージを聴くことが許されるのではないでしょうか。
 
そして、主イエスはペトロに「立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい」とまで命じられます。立ち直るということは、それだけで留まらないのであります。兄弟たちを力づけるという使命を果すために立ち直らされるのであります。「兄弟たち」というのは、他の弟子たちや教会の仲間ということです。主イエスによって立ち直らされた者は、更に周りの仲間を立ち直らせることが出来るのです。それは、仲間を立ち直らせることが出来るような力を持つと言うより、立ち直らせて下さった主イエスの愛と真実を証しするということでありましょう。

4.主イエスを知らないという

ペトロは、このような主イエスの御言葉をいただき、大きな約束を与えられたのでありますが、このときはまだ、主イエスの御心を十分には受け止めることが出来なかったようであります。33節を見ると、するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った、とあります。ペトロは良い加減な気持ちでこう言ったのではないでしょう。しかし、自分の信仰が無くなるかもしれないという危機的状況に、まだ気がついていなかったのであります。そして、相変わらず、自分は他の弟子の誰よりも強い信仰をもって従って行けると、自分を過信しているのであります。私たちはこのような元気の良い発言を好む傾向があります。しかし、自分の力に立脚している限りは弱いのであります。主イエスの言葉を信頼している時に初めて、本当の強さが出てくるのであります。主イエスはペトロの強気の言葉にも拘らず、弱さがあることを見抜いておられます。そこで、主イエスはこう言われました。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」――厳しいお言葉でありますが、これはペトロの本当の姿であることが、もう数時間の間に明らかになってしまうのであります。御承知の通り、ペトロは、主イエスが捕らえられたとき、ペトロを見つけた人から「あなたはあの主イエスの仲間ではないか」と問われると、あっさりと「そんな人を知らない」と三度、言ってしまいます。このことは、イースターに行う人形劇でも演じることになっています。主イエスはそのようなペトロの弱さを知っておられて、彼の裏切りを予告なさったのであります。
 
しかし、このお言葉は、単なる厳しい審きの言葉ではありません。そのお言葉の裏には、先ほど聞いたように、「信仰が無くならないように」との主イエスの祈りがあります。ペトロが後になって、主イエスが自分の弱さを知っていて下さったこと、そしてその弱さのために背後で祈って下さっていたことを思い出せるように、このように語っておられるのであります。何という深いご配慮でしょうか。この暖かい御配慮があったから、ペトロも、主イエスの復活後、立ち直って、主の弟子としてもう一度仕えて行くことができるのであります。

結.あなたのために祈った

主イエスは私たちの弱さについても、私たち自身以上によく知っておられるでしょう。それゆえに私たちは聖書や説教を通して、主の厳しいお言葉に出会わなければなりません。私たちはそれをあまり深刻には受け止めようとしないで、よく仕えているつもりになったり、逆に、主イエスとの関係を大切に考えずに、距離を置いた生き方をしてしまいます。しかし、主イエスはそんな私たちの信仰が無くならないように、あるいは信仰を深めて、主イエスとの交わりが確かになるようにと、祈りつつ、サタンと戦っていて下さるのであります。
 
今日の箇所は、単に主イエスがペトロの裏切りを察知して予告なさったという話ではありません。主イエスがペトロを愛し、信仰が無くならないことを切に願って祈っておられたことが大事で、その祈りがあったからこそ、ペトロの弱さも裏切りも察知できたということでしょう。主イエスはまた、私たちの信仰が無くならないようにとの切なる思いをもって祈りつつ、サタンと戦っていて下さるからこそ、私たちの弱さに対して、暖かい警告を発しておられるのです。そのことを覚えて、この御受難を覚える季節を過ごしたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
 
主イエスがペトロに語られた御言葉を、私たちにも語られた御言葉として聞かせていただき有難うございます。自らの弱さに気づいていない私たちですが、主が私たちのために祈って、執り成しをしていて下さることを覚えて感謝いたします。
 どうか、主イエスの深い御配慮に応える者とならせて下さい。どうか、間違いを犯してしまう私たちを立ち直らせ、兄弟を力づけることの出来る者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年3月10日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカ22:31−34
 説教題:「
信仰が無くならないように」         説教リストに戻る