序.正しい人を装う

217日の主日から、主の御受難を覚えるレントの期間に入っておりまして、カリキュラムでは受難週の出来事が記されている箇所から御言葉を聴くことになっております。受難週は主イエスがエルサレムに入城された「棕櫚の日曜日」に始まって、月曜日には「宮清め」が行われ、火曜日は「論争の火曜日」と言われますが、ルカ福音書で言えば、20章に記されている問答と21章にある終末の予告があった日であり、このあと、水曜日は「香油の水曜日」と言われ、主イエスの頭にナルドの香油が注がれた出来事があった日が続き、木曜日は最後の晩餐が行われた日ですが、「洗足の木曜日」と言われるように、晩餐の席に着くにあたって主が弟子たちの足を洗われた出来事があって、「十字架の金曜日」、「陰府降りの土曜日」、そして「復活の日曜日」へとつながるのであります。
 
先週は、「論争の火曜日」の出来事のうち、209節以下の「ぶどう園と農夫」の譬えの箇所から御言葉を聴きました。なぜ、この時に主イエスがこんな譬えを話されたかというと、その前に主イエスが宮清めを行われたことについて、祭司長や律法学者といった当時のユダヤで権威を誇っていた人たちが、主イエスに対して、「何の権威でそのようなことをするのか」と問いかけた「権威についての問答」があっからです。それに続いて、主人からぶどう園を貸してもらっていた農夫たちが、主人から遣わされた僕たちを次々と袋だたきにし、最後に送った主人の息子を殺してしまったという譬えを話されました。それは、祭司長や律法学者というのは、権威を誇っているけれども、本当の権威者である神様から権威を貸してもらっているだけで、神の子としての権威を持っておられる主イエスを十字架に架けて殺そうとしているではないか、ということを語られたのでありました。
 今日の箇所は、その続きであります。祭司長や律法学者たちは、「ぶどう園の譬え」で、自分たちのことが批難されたことに腹を立てて、何とか主イエスをやっつけたいと、その機会を狙っていたのであります。彼らは回し者を使って、主イエスを陥れる質問をしました。それは、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかどうか」という質問ですが、これも結局は、「誰が本当の権威者であるか」という問題につながっているのであります。
 
このような権威についての論争は、祭司長や律法学者と主イエスとの権威の主導権争いだと見れば、詰らない話になってしまうのですが、そうではなくて、祭司長や律法学者の姿の中に、私たちが持っている罪の姿が見られるのであって、神さまを疎んじ、主イエス・キリストを蔑ろにして、自分のことだけを考えて、自分の権威や自分の誇りにしがみつこうとする私たちの問題性が扱われているのであります。
 
ところで、先週の「ぶどう園の農夫の譬え」は2年前に説教をした箇所でありまして、同じ説教を繰り返すわけには行かないので、何を新しいメッセージとして聴き取るかということが説教者として苦労したところなのですが、先週は、先ほど述べたように前後の関係から「誰が本当の権威者なのか」というテーマを軸にお話をさせていただいたのであります。そこで今日の箇所なのですが、実は、ここも3年前に説教しておりまして、説教題も今日と同じ「神のものは神に」ということで説教しております。短いテキストでありますし、中心のメッセージがいくつもあるわけではなくて、「神のものは神に」というテーマをはずすわけにはいかないので、説教者としては困るのでありますが、今日は、そこに行く前に、主イエスの言葉じりをとらえて、とっちめてやろうと思っている人たちについて書かれている言葉に着目してみました。そこに、私たちの罪の姿が映し出されているからであります。
 
20節には、こう記されています。そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。ここに「装う」という言葉があります。これは、「ふりをする」「見せかける」「偽装する」「偽善を行う」といった意味を持っている言葉であります。元々は「芝居」という言葉から来た語で、それが「ふりをする」とか「偽善」という意味になったのです。マタイによる福音書の併行箇所では、質問を受けた主イエスが最初に発せられたのは、「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか」(マタイ2218)という言葉でありました。
 
もう一つの言葉は、23節ですが、こう書かれています。イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。この「たくらみ」という言葉です。「抜け目なさ」「悪賢さ」「狡猾」といった意味を持つ言葉です。マタイ福音書では、「彼らの悪意に気づいて」と書かれています。
 
「偽善」とか「たくらみ」とか「悪意」というと、ここにいる皆様とは縁遠いことのように思われるかもしれません。特に、主イエスに対して、「偽善」的になるとか、何か「たくらむ」とか「悪意」を抱くということはないように思います。私自身もそのように思っています。しかし、今日の箇所を見て行くと、主イエスを陥れようとする人たちの姿の中に私たちの姿が見えて来るのであります。今日は、そこから、主イエスのメッセージに接近したいと思うのであります。

1.総督に渡す機会をねらう

さて、20節に「機会をねらっていた」とあります。これは、祭司長・律法学者たちが命を奪う機会を狙っていたという意味であります。しかし、主イエスに直接手を下すということは考えなかったようで、「イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうと」していました。ということは、死刑の判決を下すことの出来るローマ総督の手で、十字架刑にしてもらおうと考えたのであります。
 
また、自分たちが直接論争して対決しても見破られると考えたようで、回し者を使います。マタイ福音書とマルコ福音書では、ファリサイ派とヘロデ派の人を遣わしたとしています。この二つの派は、普段は仲がよいわけではありません。ファリサ派の人というのは現実に妥協しないで、信仰の純潔を守ろうとした人たちで、そのために社会的に不遇になることをも厭わない人たちであります。ローマの支配に対しては抵抗感を持っている人たちでした。それに対してヘロデ派というのは、領主であるヘロデ家を擁護する立場の人たちで、現実的な姿勢をとっていて、ローマの支配を受け入れていました。このように両派の政治的立場は大きく違うのですが、主イエスを陥れるという点では一致して協力するのであります。
 
私たちはどうでしょうか。もちろん、祭司長、律法学者、ファリサイ派の人たちやヘロデ派の人たちのように、主イエスを亡き者にしようなどとは思っていません。むしろ、多くはイエス・キリストに対する信仰を表明している人たちであり、求道中の人たちも、イエス・キリストに対して尊敬を覚えて、彼から良いものを得たいと願っておられるのであります。しかしそれは、私たちの生活や私たちの立場が乱されない範囲で関わっている間であって、もし、主イエス・キリストが私たちの生活に深く入り込んで来られて、自分の生活のペースが崩されたり、自分の社会的な立場が揺らいだり、危うくなるということになると、主イエスが疎ましくなってしまうのではないでしょうか。信仰を持つということは、単に精神世界のことではありません。極めて現実的なことであります。生活のあり方に深く影響することであります。祭司長や律法学者たちは、主イエスによって自分たちの社会的立場が危うくされたのであります。だから、何とかして亡き者にしたいと考えたのであります。そのように、私たちが主イエスと関係を持つということは、私たちのそれまでの立場が失われ、生活が変わることなので、おいそれと関わって来られては都合が悪いのであります。私たちの本心の中には主イエスによって自分の全てが束縛されるのは避けたいという思いが、どこかにあるのではないでしょうか。本当は、主イエスの権威の下に服するのではなくて、主イエスが自分の権威の下に服していてほしいのであります。自分の利益になる限りにおいて、関係を持ちたいけれども、主イエスの前にひれ伏して、全てを献げるということはしたくないのであります。礼拝というのは、神とイエス・キリストと聖霊の前にひれ伏すことであります。自分の生活の全てを委ねることであります。ですから、礼拝というのは、信徒の義務だから出席するのというようなものではなくて、礼拝からすべての生活が始まるのであって、生きて行く上で欠かせないものであります。しかし、私たちの内実は、そうはなっていないのではないでしょうか。もし、主イエスに従っていることで、自分にとって何らかの不利益が及ぶとか、自分の立場が保てなくなると、主イエスから逃げ出してしまうか、主イエスを追い出してしまうということがあり得ます。そういうことは私たちの教会でも起こっていることですし、他人事ではなく、私たち自身もその危うさを持っているのであります。そうであれば、私たちも主イエスをローマ総督に渡そうとした人たちと、根底ではつながっていると言えるのではないでしょうか。

2. 回し者のたくらみ

次に、回し者たちがどんなたくらみをもって、主イエスのところに行ったかを見て行きましょう。ここにも私たちの姿が映し出されています。まず、回し者たちは21節で、主イエスにこう言っております。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」――これは、主イエスに対する正しい評価だと言えます。主イエスは確かに、「おっしゃることも、教えてくださることも正しい」お方であります。御自分の好き嫌いや、御自分の利益を考えて「えこひいき」される方ではありませんでした。そして、確かに「真理に基づいて神の道を教えておられる」お方でありました。しかし、このように語っている回し者たちの態度には、裏があります。第一に、これは彼らの本心ではありません。もし本当にこのように思っているのであれば、主イエスのおっしゃること、教えておられることに従うのが本筋であります。主イエスの弟子になって、生活がガラリと変わってしかるべきであります。彼らはそんなことは毛頭考えていません。表面の言葉は美しいのですけれど、彼らの本当の思いは全く別であります。だから彼らは、正しい人を装っているだけの偽善者であります。
 
私たちもまた、言葉だけの、表面的な信仰に陥りがちであります。信仰生活において、良い格好をしたり、綺麗ごとを言って、表面を繕うことは何の益にもなりません。生き方が変わり、生活が変わらなければ、口先だけでは意味がありません。人からなら、かろうじて評価されることがあったとしても、神様はすべてお見通しであります。
 
この回し者の言葉は、偽善的な美しい言葉というだけではなくて、これには罠があります。これから問いかけようとしている問題は、当時の状況の中で政治的に極めて微妙な事柄でありました。けれども、そういう中でも、<先生は正しいことを教えられるし、えこひいきなしに、真理に基づいて語られる方なのだから、イエスかノーかをはっきり答えてほしい>と、釘を刺しているのであります。
 
その上で、22節で一つの質問をいたします。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」――当時のユダヤはローマ皇帝の支配下にあって、ユダヤ人は皆、1年に1デナリオンの人頭税をローマ帝国に払わなければなりませんでした。1デナリオンというのは、労働者の1日の賃金ですから、額としてはそれほど大きくはないのですが、ユダヤ人としては屈辱的なものであります。この納税については、ユダヤの律法に書いてあるわけではないので、立場によって考え方が微妙に違っていたようで、祭司長や律法学者といったユダヤの宗教指導層の人たちは、胸のうちではローマ皇帝への納税に抵抗がありますが、自分たちの立場を守るために、表立って反対することはせず、容認しておりました。しかし、ユダヤ人の中の愛国的な立場の熱心党と呼ばれる人たちは、納税を拒否しておりました。一方、ローマの保護を受けていたヘロデ王をかつぐヘロデ党の人たちは、納税に賛成していました。そうした中で、ユダヤの民衆は、自分たちをローマの支配から解放してくれる指導者が現れることを待ち望んでいて、主イエスこそ自分たちを救ってくれる人ではないかと期待していたのであります。
 
こういう状況の中で、主イエスがこの質問に対して、まともにイエスあるいはノーとお答えになるならば、どちらにしても主イエスの権威を失墜させることが出来ると、考えたのであります。というのは、主イエスがこの質問に対して、「皇帝に税金を納めるのは、神様の律法の精神に反している」と否定的に答えれば、明らかに皇帝の命令に背くことになりますから、主イエスを反逆罪で訴えて、死刑にしてもらうことができます。反対に「皇帝に税金を納めなさい」と肯定的に答えれば、ローマの支配に対して内心では反感を持っているユダヤの民衆の人気を失うことになるし、神の権威を疎かにするのかとの非難を受けるでしょう。19節には、「律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」と書かれていますから、民衆が主イエスに味方しなくなれば、主イエスを亡き者にすることは簡単であります。ですから、どちらに答えても主イエスを窮地に追い込むことが出来ると考えたのであります。その場にいた人々は皆、固唾を飲む思いで、主イエスのお答えを待っていたと思われます。

3.皇帝のものは皇帝に

しかし、主イエスは彼らのたくらみを見抜いておられました。そして、おもむろに口を開いて、こう言われました。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」――彼らはデナリオン銀貨を持っていましたから、すぐ取り出しました。これはローマ帝国の貨幣ですから、そこにはローマ皇帝の肖像と名前が刻まれていました。彼らは「皇帝のものです」と答えます。当時のユダヤ人は、ローマ帝国の支配に反感を持っていましたけれども、ローマの貨幣を使わざるを得なかったので、持ち歩いていたのです。このことに象徴されるように、ローマ帝国が治めているお陰で、ユダヤ人も平和に暮らすことができ、生活が成り立っていたのであります。ローマ帝国はユダヤ人から税金を取るだけでなく、色々な苦しい目に遭わせるようなこともしました。しかし、ローマの支配がなければ、安心して生活が出来ないという面もあったのです。祭司長や律法学者たちが、いくら偉そうなことを言っても、彼らだけでは、ユダヤの人々を安心して暮らさせることは出来なかったのです。主イエスはそのことを分からせるために、デナリオン銀貨にローマ皇帝の肖像と名が刻まれていることを示されたのであります。
 
その上で、主イエスは「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。ローマ皇帝の支配の下で、平穏に暮らせるならば、皇帝に税金を納めるのは当然であります。神様は、たとえ問題がある支配者であっても、この世を治めるために、この世の権力者をお用いになるのであります。私たちも、政治家やこの世の権力者の批判をしているだけでは、責任をもった国民や市民とは言えません。払うべき税金は払い、守るべきルールには従わなくてはなりません。最初に申しましたように、祭司長や律法学者たちは、自分たちの権威が損なわれることを恐れているのであります。私たちも、自分が他の人を支配して、自分の思い通りに気侭に過ごしたいために、権利を主張したり、他の人を抑えつけようとするのであります。主イエスは、そういう私たちの気侭な支配欲を、「皇帝のものは皇帝に」という言葉で戒めておられるのであります。パウロもローマの信徒への手紙の中で、こう言っております。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ1312)。耳を傾けるべき言葉であります。私たちは、この世の権力を尊ぶ必要があります。

4.神のものは神に

それでは、主イエスはこの世の権力者と妥協して生きることを勧めておられるのでしょうか。――そうではありません。
 
主イエスは「皇帝のものは皇帝に」という言葉に続いて、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。いかに強い権力者といえども、神様の御支配には服さなければなりません。ローマ皇帝といえども、当時のこの世の政治的権力の一部を神様から預かっていたに過ぎませんから、自分のために権力を欲しいままに用いることは許されません。祭司長や律法学者たちは、当時のユダヤの宗教指導者として、自分たちの権威を誇っておりましたが、その権威は神様から預かったものに過ぎませんから、それは神様に返すべきものであって、神の子であるイエス・キリストが来られたのであれば、預かった権威を神様に返して、神の子である主イエスの権威にこそ従うべきであったのであります。
 
「神のものは神に返しなさい」という言葉は、しかし、当時の祭司長や律法学者たちにだけ語られたものではありません。主イエスは今日、私たちに向けても、同じことをおっしゃっているのではないでしょうか。私たちは多くのものを神さまからいただいています。それらは皆、本来、神様のものであります。神様から預かっているものであります。先週の「ぶどう園の農夫」の譬えでは、農夫たちは主人から貸していただいていたぶどう園を、不当にも自分のものとしようとしました。そのように、私たちは神様から預かったものを、あたかも自分のものであるかのように、自分の自由に使おうとするのであります。
 
そもそも、私たち自身も、本来は私のものではありません。神様から与えられた体であり、神様から預かっている命であります。そして、私たちの人生は、神様のものであります。私たちは、<自分の人生は自分のものだから、自分の思い通りに生きて当然だ>と思っていないでしょうか。いやいや、<他の人の役に立つことも考えている>という人はいるかもしれません。しかし、私たちの人生は、本来は神様のものであります。私たちは自分の幸せのために生きているのでもなく、自分の周りの人たちの幸せのために生きているのでもなく、人類の幸福のために生きているのでさえなくて、私たちは神様のお役に立つために生かされているのです。私たちが与えられているもの、命も、体も、持ち物も、能力も皆、神様のものであります。それらを神様のために用いてこそ、神様にお返しすることが出来るのであります。
 創世記の人間の創造が記されている中で、127節には、「神は御自分にかたどって人を創造された」と書かれています。デナリオン銀貨にはローマ皇帝の像が刻まれていましたが、私たちには神の像が刻まれているのであります。私たちは元々、神のものであります。ですから、私たち自身を神様にお返ししなければなりません。私たちは本来誰のものであるのか、誰の権威と支配のもとにあるのかを知る時に、私たちの人生の本当の意味を見出すことが出来るし、生きる目標も見えて来るのであります。

結.真理に基づいた神の道

最後に、回し者が主イエスについて言った21節の言葉に戻ります。その中で、主イエスのことを「真理に基づいて神の道を教えておられる」と言っております。これは回し者の偽善的な言葉ではありますが、主イエスの本当の姿を言い当てています。主イエスはこの時、神様の御心に従って、御自分の全てを献げて、十字架へと向かっておられました。イエス・キリストこそ、実際にこの世で、「神のものを神に返す」ということを実行して、御自分をいけにえとして神様の前に返されたのであります。その意味で、神の像を現したお方であります。口先で真理を教えておられるのではなくて、身をもって神の道を歩んでおられるのであります。
 
今日は、祭司長・律法学者や、彼らから遣わされた「回し者」の姿を通して、私たちが正義を装っている偽善者であることを覚えさせられたのでありますが、そのような私たちはどのようにして、真実の神の道を歩むことができるのでしょうか。それは、私たち自身では切り開くことの出来ない道であります。そんな私たちに代わって、主イエスは御自身の全てを献げられることによって、私たちが神様にお返しすべきものを代わって返してくださいました。それ故に私たちは、諸々の地上の諸力からも、偽善の罪からも自由なものとされて、神のもとへ返されたのであります。そうでありますから、私たちは、この自由の喜びに招かれていることを感謝したいと思います。そして、私たちのこれからの人生が、真に、神と人とに仕える人生とされることを祈りたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちは、あなたから頂いたあなたの似像としてのあり方を失って、あなたと人を偽った生き方をしているものであることを示されました。
 
そのような私たちのために、御子イエス・キリストをお遣わしくださって、私たちがあなたの許に帰ることの出来る道を開いて下さいましたことを覚えて、感謝いたします。
 
どうか、絶えず御言葉を聴き続けることによって、あなたからいただいた私の全てを、あなたにお返しする生き方をさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年3月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカ20:20−26
 説教題:「
神のものは神に」         説教リストに戻る