「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」 
                          (ルカによる福音書2017 

 主イエスが神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出したことで、祭司長や律法学者たちは、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と詰め寄った。それに対して主は、逆に「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも人からのものだったか」と問い返されると、彼らは立場上、どちらとも答えられなかったので、主も彼らの問いにはお答えにならなかった(2018)。
 しかし、主イエスは、「ぶどう園と農夫」の譬えをもって、真の権威者は誰なのか、主イエスの権威とはどのようなものかをお語りになった。ある主人が農夫たちにぶどう園を貸して旅に出た。収穫の時になって、主人は収穫物を納めさせるために僕を送ると、農夫たちは僕を次々と袋だたきにした。主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思って送ると、農夫たちは殺してしまった。戻ってきた主人は農夫たちを殺すにちがいない。――この譬えの主人とは神のこと、ぶどう園とはイスラエルの民を表わし、農夫たちは祭司長や律法学者のこと、僕とは預言者たちのことで、主人の息子とはイエス・キリスト御自身である。
 だが、この農夫たちの姿は現代の私たちの姿でもある。神は豊かな世界を創造され、私たちの命をはじめ、能力も生活環境も、全てを備えて下さっている。それらは神からの預かりものである。しかるに、私たちはそれらに対して自由に権威を揮えるかのように錯覚している。そんな私たちに対して、神は御子イエス・キリストを送られたが、その権威を認めず、ないがしろにしている。そうであれば、農夫たちのように、私たちも主人である神によって殺されなければならないのだろうか。
 ところが、主イエスはこの譬えのあとで、詩編に記されている標記の言葉を引用された。これは譬えの本当の結末を示している。確かに、主人の愛する息子、即ち主イエスは捨てられた石のように殺された。しかし、神はその石を隅の親石として新しい神の救いの家を建てることによって、神の権威を回復なさる。その権威とは、力を振るって敵を滅ぼす権威ではなく、十字架の愛の権威である。そして主は、捨てられるべき私たちを新しいぶどう園の農夫として、もう一度用いて下さるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2013年2月24日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカ20:9−19 説教題:「隅の親石」   説教リストに戻る