序.何の権威でこのようなことを

先週からレントと呼ばれる、主イエスの御受難について思いを巡らす季節に入っております。四旬節とも呼ばれるように、復活節の前の四十日がその期間であります。カリキュラムによって与えられた聖書の箇所も主イエスの地上での最後の一週間(受難週)の出来事が書かれている部分に入っています。
 
今日の個所のすぐ前には、「権威についての問答」という小見出しがつけられた箇所があります。そこには、神殿の境内で、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスに近づいて来て、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」(202)と言って詰め寄っている場面が書かれています。ここで「このようなこと」と言っているのは、その前に書かれていることなのですが、主イエスが神殿で商人たちを追い出したという出来事のことであります。神殿というのは、祭司長や律法学者や長老といった当時の指導者たちが権威を誇っている場所であります。主イエスはそこで商売をしていた人たちを追い出したのですから、彼らにとっては自分たちの権威を傷つけられる出来事だったのであります。そして、この日も主イエスは神殿の境内で民衆に福音を語っておられました。これも彼らの権威を侵害する行為と写ったのでありましょう。
 
祭司長たちの追及に対して主イエスは逆に質問をされました。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。洗礼者ヨハネは当時の指導者をはじめ人々の過ちを指摘して悔い改めを迫った人物であります。民衆はヨハネを預言者として尊敬していましたが、指導者たちにとっては煙たい存在でした。そうした状況の中で、祭司長たちは、「天からのものだ」と言えば「ではなぜヨハネを信じなかったのか」と言われるだろうし、「人からのものだ」つまり<普通の人間に過ぎない>と言えば、民衆が自分たちを批難し始めるだろう、と考えて、彼らは「どこからか、分からない」という曖昧な答をしました。すると主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言われたのであります。
 
主イエスはなぜ、彼らの問いに直接お答えにならなかったのでしょうか。彼らとの争いを回避して、逮捕の口実を与えないためでしょうか。そうではないでしょう。主イエスはお答えにならないことによって、神の権威をもって来ておられた主イエスを受け入れようとしない彼らの姿を明らかにされたのではないでしょうか。
 
そして、今日の「ぶどう園と農夫の譬え」は、その延長上で、真の権威者は誰なのか、そして、主イエスの権威とはどのようなものなのか、ということを、譬えをもってお語りになったのであります。今日の箇所の最後の19節を見ていただくと、そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたということが書かれています。彼らは自分たちの権威を守るために、神の権威をもって来られた主イエスを亡き者にしようとたくらんでいるのであります。
 
しかし、そのことは、祭司長や律法学者たちだけのことではありません。私たちもまた、神の権威を持って私たちのところに来て下さった主イエスを迎え入れようとせずに、反って追い返したり、ひいては殺してしまうのと同様なことをしてしまうのであります。今日の「ぶどう園と農夫」の譬えは、そのような私たちの姿を明らかにいたします。しかし、今日の箇所はそれだけで終わってはいません。その後に説教題にもありますように、「隅の親石」のことを話されたことが続いています。これは、先ほど朗読いただいた旧約聖書の詩編118編をもとにして語られたことでありますが、なぜここで「隅の親石」のことを話されたのでしょうか。主イエスの権威の話とどうつながっているのでしょうか。そのようなことを考えながら、今日の主イエスの御言葉に耳を傾けていただきたいと思います。

1.農夫たちに貸して――権威の貸与

譬えは9節の後半から、こう始まっています。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。」――「ぶどう園」というとユダヤの人たちには、それがイスラエルの民を指していることはすぐ分かりました。旧約聖書のイザヤ書などに出ているからです。「ある人」とありますが、この後を読むと、それはぶどう園の主人のことであり、父なる神様を表わしていることは明らかです。では、その父なる神様がイスラエルの民を託した「農夫」というのは何を表わしているでしょうか。それは、イスラエルの民を指導する立場にあった祭司長や律法学者たちであります。
 
ぶどう園の主人は長い旅に出ます。旅の間、ぶどう園での作業や管理について、主人は一々指図するのではなく、農夫たちを信頼して任せます。神様はイスラエルの指導者たちを信頼して、イスラエルの民を委ねたのであります。彼らは、ぶどう園を託された農夫がよく働いて豊かなぶどうの実を収穫できるまで育てたように、イスラエルの民をよく指導して育てて来たのであります。そこまではよかったのですが、農夫たちはぶどう園で一生懸命に働いているうちに、そこが主人から貸し与えられた所であることを忘れて、あたかも自分のぶどう園であるかのように思ってしまうのであります。そのように、祭司長や律法学者たちも、イスラエルの民の主人は神様であることを忘れて、自分たちの権威を振り回すのであります。そして、神様を礼拝する場所である神殿を自分たちの権威を振りかざす場所にしてしまっていたのであります。
 
しかし、この祭司長や律法学者たちが陥っている状態というのは、先ほども触れましたように、現代の私たちの状態でもあります。ぶどう園の主人はすっかり整えられたぶどう園を農夫たちに貸し与えたように、神様は豊かな世界を創造され、それを私たちに貸し与えてくださいました。私たちは、豊かな生活の場・仕事の場・そして礼拝の場を神様から預かっているのであります。しかるに私たちはそれらのものを、自分で獲得したもの、自分で選び取ったもの、自分で築き上げたものと錯覚してしまうのであります。私たちの家庭も住まいも、隣人も地域社会も、友人も仲間の交わりも、仕事も職場も、教会の兄弟姉妹や礼拝場所も、すべて神様からの預かりものであります。更に言うなら、私たちの命や健康も、私たちの財産も、私たちの能力や性格も、私たちが生きている時代や地球環境も、すべて神様からの預かりものであります。そのことを忘れて、すべて自分のもの、自分が支配できるものと思ってしまい、自分がその中心にいて、自由に権威を揮えるかのように錯覚してしまうのであります。原子力発電所についての思い上がりはその典型ですが、もっと身近なことでは、自分の体のこと、私たちの家庭のこと、自分の生き方のことで、自分が中心になって権威を揮っていないか、ということを思わされるのであります。
 
私たちは今、神様のお姿をこの目で見ることは出来ません。ちょうどぶどう園の主人が長い旅に出て、姿を見ることが出来なかったのと同様であります。しかし、ぶどう園の主人が自分のぶどう園のことを忘れているわけではないように、神様も私たちの世界のことを忘れておられるのではなくて、世界がどのように成長しているのか、そして御心にかなったものを生み出しているのかを気にかけておられます。また、私たち一人ひとりの体のこと、家庭のこと、生き方のことを、神様は気にかけておられるのであります。

2.僕を袋だたきに――主人の権威を否定

譬えの先へ進みましょう。10節を見ると、「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」と語られています。ぶどう園の収穫物は、本来主人のものであります。農夫はそこで働いた労働に対する報酬を得ることは出来ますから、収穫の一部を報酬として受け取るということがあったとしても、収穫物は一旦、主人に納めるべきであります。ですから、主人は自分の僕を農夫たちのところへ送りました。この主人から送られた「僕」というのは、旧約の各時代に遣わされた預言者たちのことを譬えていると理解されます。預言者たちはイスラエルの民に神様の御心を伝えて、様々な警告をいたしましたが、イスラエルの民や指導者たちは、預言者の言うことに耳を貸さず、かえって預言者を迫害して、神様の御心に従わないことがしばしばでありました。農夫たちが僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した、というのは、そのことを表わしていると理解できます。なぜ農夫たちは主人の僕を追い返すようなことをしたのでしょうか。それは主人を見くびっているのです。自分たちが勝手なことをしていても、主人は手を出さないだろうと高をくくっているのです。
 
このことはまた、私たちの姿を表わしているのではないでしょうか。神様は私たちが神様から与えられた豊かなものを用いて、自由に生きることを許しておられるのですが、神様の御心から離れないために、御言葉を伝える者を遣わされるのであります。イエス・キリストによって教会が建てられて以来、様々な機会と手段を通して御心が伝えられて来ました。聖書が記され、伝道者が立てられ、礼拝が行われて、御言葉が伝えられ、私たちのところまで届くようにして下さいました。しかるに私たちは、御言葉に耳を傾けること少なく、追い返すのと同様の扱いをしているのではないか、ということです。私たちの生活の中心に礼拝が位置づけられているでしょうか。御言葉が私たちの歩みの指針になっているでしょうか。御言葉の権威に従うのではなくて、自分の思いや自分の楽しみや自分の利益や自分の名誉が私たちの行動を支配する原理として権威を持ってしまってはいないでしょうか。私たちもまた、神様を見くびり、神様の御言葉を蔑ろにして、自分勝手に振舞っていても何も起こらないと高をくくっているのであります。
 
11節、12節には、主人は凝りもせずに二人目、三人目の僕を送ったことが述べられています。主人は僕がどのような扱いを受けたかを知らないわけではありません。それでも送り続けるのであります。そこには神様の忍耐が表わされています。神様は私たちが神様を見くびり、御言葉を蔑ろにしているのをご存知でありながら、尚も忍耐をもって、私たちの悔い改めを待っておられるのではないでしょうか。

3.息子を送った主人――権威の回復を願う

けれどもただ待っておられるだけではありません。13節に進みますと、ぶどう園の主人は、「『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』」と考えるのであります。主人は<息子が危険な目に遭うかもしれない>とは考えないで、<わが子ならば敬ってくれるだろう>と期待して送り出すのであります。この主人が願っていることは、もはや収穫物を納めさせることではなくて、農夫たちが敬ってくれるかどうかなのであります。この「愛する息子」とは、イエス・キリスト御自身のことを言っておられるのは明らかであります。主イエスはこう言っておられるのです。<あなたたちは私を敬おうとはしていない。私が神の権威をもって来たことを認めようとはせずに、相変わらず見くびるだろう。けれども神様はそれを承知で、何とか神に対する敬いの心を持ってほしい、神の権威に気づいてほしいと願っておられる。そのために私を送り出されたのだよ>と言っておられるのであります。神様が独り子をこの世に遣わされたのは、御自身の権威を回復されることを願われたからであります。それが神様の創造の秩序だからであります。
 
しかし、14節から15節にかけて語られているように、「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」というのであります。
 
農夫たちは、息子さえ亡き者にすれば、自分たちの思い通りになる、と考えて、主人の思いをあざ笑うかのように、息子を殺してしまい、ぶどう園の外に放り出してしまいます。イスラエルの指導者たちも、神様の思いを理解しようとせず、主イエスを受け入れようとせず、むしろ自分たちの権威を脅かすものとして排除しようと、ついに十字架に架けて殺してしまうのであります。祭司長や律法学者は神様の存在を否定しようとは思っていません。しかし、主イエスを排除して自分たちの権威を保とうとすることは、結局、神様を否定し、神様の権威を否定することであります。
 
私たちがしていることも、これと同じことであります。私たちも神様の存在を否定しているわけではありません。どこかに神様がおられて私たちを守っていてほしいのであります。しかし、自分の自由が損なわれ、自分の権威が揺らぎそうになると、神様のなさろうとすること、神様の御心が分からなくなるのであります。神様は私たちと正しい関係にあることを望まれます。神様が神様として私たちの上に権威をもって御支配しておられる時に、正しい関係を保つことが出来るのであります。そのような関係を回復されるために、神様は御子イエス・キリストを遣わされたのであります。しかし、私たちは自分の権威を守るために、キリストを否定してしまうのであります。
 
ところで、主イエスはこの譬えを語られた最後の15節の後半で、「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか」と問いかけながら、16節で「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と結んでおられます。――これは、イスラエルの民が神様に選ばれた民として託されていた役割を取り上げられて、その役割が異邦人に与えられるようになるということを意味しています。主イエスの十字架の救いの出来事を境にして、主イエスを信じる者たち、即ち教会の群れが新しい神の民として神様の御計画を担って行くことになる、ということを示しています。イスラエルの民とその指導者に対しての厳しい裁きを示唆した言葉であります。
 
しかし、この主イエスの言い方はやや曖昧な印象を受けるのではないでしょうか。「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えることになる!」と断定なさってもよいと思われるのに、まるでいくつかの可能性の一つであるかのように「ほかの人たちに与えるにちがいない」という言い方をなさっています。これを聞いた人たちは、「そんなことがあってはなりません」と言いました。主イエスはそれを否定されません。そして、主イエスは彼らを見つめながら、詩編の言葉を引用して「隅の親石」の話をされるのであります。

4.捨てた石が隅の親石に――愛による権威の回復

これは新約聖書においてしばしば引用されるものですが、主イエスはなぜここで、この「隅の親石」のことを引用されたのでしょうか。ここまでの譬えとどう関係するのでしょうか。
 
『家を建てる者の捨てた石』とは、農夫たちに殺された主人の愛する息子のことでしょう。その息子が『隅の親石となった』、つまり、建物で最も重要な基礎になった、というのです。これが今日の譬えの本当の結末だ、ということではないでしょうか。確かに、主人の愛する息子は、農夫たちの手によって捨てられた石のように殺されることになります。しかし、神様は、そこから救いの御業を始められたのであります。捨てられた息子イエス・キリストを「隅の親石」として、御自身の権威の回復をなさる、ということです。ぶどう園に戻ってきた主人である神様は、息子を殺した農夫たちを殺すことによって権威の回復をするのではなくて、息子を十字架に架けるという愛によって、御自身の権威を回復されるのであります。神様の権威とは、威張り散らすとか、敵を滅ぼすことによって打ち立てる権威ではなくて、十字架の愛の権威なのであります。
 
私たちは神様から預かった様々の賜物を、自分勝手なことに用いて自分の権威、自分の誉れを高めようとしております。そして、神様の恵みを忘れ、神様の権威を蔑ろにし、神様が遣わしてくださった主イエス・キリストさえ受け入れようといたしません。まるでぶどう園の農夫であります。そのような農夫は、本来ならば、戻ってきた主人によって殺されて、ぶどう園の外に捨てられてしかるべき者であります。ところが、神様は十字架のイエス・キリストという親石を基礎に据えて、私たちを用いて神の家を造ろうとなさるのです。そして神様のぶどう園で私たちを農夫の一人として働かせて下さるというのであります。これが、神様の愛の権威であります。

結.喜び祝い、喜び踊ろう

最後に、詩編118編の14節から25節を、もう一度お読みします。
 
主はわたしの砦、わたしの歌。
 
主はわたしの救いとなってくださった。
 
御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。
  主の右の手は御力を示す。
 
主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す。
 
死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。
 
主はわたしを厳しく懲らしめられたが、
 
死に渡すことはなさらなかった。
 
正義の城門を開け、わたしは入って主に感謝しよう。
 
これは主の城門、主に従う人々はここを入る。
 
わたしはあなたに感謝をささげる、
 
あなたは答え、救いを与えてくださった。
 
家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。
 
これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。
 
今日こそ主の御業の日。
 
今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
 
どうか主よ、わたしたちに救いを。
 
どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 

 私たちは今年の目標を「喜びの礼拝」としております。どのようにして、誰が「喜びの礼拝」を実現させてくださるのでしょうか。
 
それは、他でもなく、私たちが退けたけれども、隅の親石となってくださった主イエス・キリストによってであります。私たちはただ、喜びをもって、神の国の門に入るだけでよいのであります。
 
感謝して、祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちのような者をも、あなたのぶどう園で働く者として召してくださり、多くのものを備えてくださっていることを覚えて、感謝いたします。
 
私たちは、与えられた恵みを自分の楽しみや誉れのためにのみ用いて、あなたの御栄光のために用いない者であることを懺悔いたします。
 
どうか、イエス・キリストが隅の親石となってくださる神の家の一角に私たちをもお加えください。
 
どうか、ぶどう園の豊かな収穫のために、御心に従って働く農夫の一人とならせてください。そしてどうか、天上の喜びの礼拝に加えられる者とされますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年2月24日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカ20:9−19
 説教題:「
隅の親石」         説教リストに戻る