序.山から不信仰な者たちのところへ

1月の第二主日から、日曜学校カリキュラムに従ってマルコによる福音書によって御言葉を聴いて参りました。すべて主イエスがなさった奇跡の物語が取り上げられていました。突風を静められた奇跡、十二年間血が止まらなかった女を癒された奇跡、会堂長ヤイロの娘を甦らせた奇跡、五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹した奇跡、それに主イエスが湖の上を歩かれた奇跡であります。これらの奇跡物語は、いずれも、ただ主イエスのなさった不思議な御業を伝えるというだけではなくて、主イエスの弟子たちの不信仰がからんでおりました。弟子たちの不信仰物語が綴られていたと言ってもよいくらいです。
 
しかし、そのあと、8章には、ペトロが主イエスをメシア(救い主)であるとの信仰を言い表したことが書かれていて、その時から主イエスは御自分の死と復活のことを予告し始められるのであります。続いて、9章に入りますと、山の上で、主イエスのお姿が変わるという「山上の変貌」の記事が出ています。そこでは三人の弟子が主イエスの御栄光の姿を垣間見るのであります。しかし、弟子たちはそれをどう受け止めてよいか理解できませんでした。そして主イエスと三人の弟子が山から下りてきた時に起こったのが、今日の個所の出来事であります。ここも、汚れた霊に取りつかれた子供を癒された奇跡の物語であります。しかし、これも、単に不思議な御業が行われたというだけの出来事ではなくて、信仰が問題となっています。主イエスと一緒に山に行かなかったほかの弟子たちが、汚れた霊に取りつかれた子供から霊を追い出せなかったということから、主イエスは彼らの不信仰を問題とされています。
 
この弟子たちの状態というのは、今の私たちの状態、今のこの伝道所の問題、現代の教会が持っている問題を象徴的に表わしているように思います。私たちの周り、教会の周りには、汚れた霊に取りつかれた子供のような、癒されず、解決出来ない問題が取り巻いております。世の中には汚れた霊がはびこっていて、それを教会は退治することが出来ずに手を焼いている状況があります。
 
山に行かなかった弟子たちが汚れた霊に取りつかれた子供に手こずっているところへ主イエスが山から降りて来られました。それはちょうど、この礼拝において、主イエスが天から降って来られて、私たちの所へ来られるのと似ていると言ってよいのではないでしょうか。主イエスは私たちの状態を御覧になって何とおっしゃるのでしょうか。そして何をしてくださるのでしょうか。今日の礼拝は、そのような主イエスと私たちの出会いの場であります。

1.なんと信仰のない時代

今日の個所を初めから見て行きましょう。14節に、一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた、とあります。何を議論していたのでしょうか。ここには議論の内容は書かれていませんが、この後に書かれているように、弟子たちが汚れた霊に取り付かれている子供を癒すことが出来なかったことに関して、律法学者が弟子たちを 攻撃していたのではないかと思われます。十二人の弟子たちが派遣された時には、弟子たちも汚れた霊に対する力を授けられていました。ですから彼らは自信を持っていました。ところが今はその力がなくなっていました。そのことを聞きつけた律法学者たちがやって来て、攻撃しているのであります。彼らはこれまで主イエスにやり込められていました。だから、ここで反撃に出ようとしているのであります。弟子が出来ないということは、主イエスの権威を貶めることになります。大勢の群衆の前で、弟子たちの面目は丸つぶれであります。
 
それと同じことが、今の私たちの周りでも起こっているのであります。色々なことで苦しんでいる人々がいます。治らない病気で苦しんでいる人、経済的なことで生活に苦しんでいる人、人間関係で苦しんでいる人など、汚れた霊は今も多くの人々を苦しめています。私たちの身近にもそうした人々がおられます。そのような人々に対して、教会は必ずしも救いとなっていないという現実があるのではないでしょうか。世の中の人々はそれを冷たい目で見ています。律法学者のように議論を吹きかけたり、攻撃の材料にしようとは思わないかもしれませんが、教会に行っても何の解決も与えられないのではないか、そこには救いなんてありはしない、と思っているのではないでしょうか。そして、もしかしたら私たちもまた、教会では何の癒しも与えられないのではないか、礼拝に行っても、結局は何の解決も与えられない、と思ってしまっているのではないでしょうか。そして、礼拝から喜びが失われて、行っても行かなくてもよいことになってしまうのであります。
 
ところが、15節を見ますと、群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶しました。群衆が驚いたのは、しばらく姿を見なかった主イエスが突然、姿を表わされたからでしょうか。「駆け寄って来て挨拶した」とありますから、彼らの主イエスに対する期待を伺うことが出来ます。弟子たちに対しては失望感が漂っていましたが、主イエスのお姿を見て、少し期待が甦ったのでしょうか。
 
イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えました。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
 
父親は息子の病状をかなり詳しく説明しております。マタイ福音書の併行個所では、「てんかんでひどく苦しんでいます」と言っております。こうした病は汚れた霊が取り付いていると考えられていました。弟子たちは伝道に派遣された当初は汚れた霊を追い出す権威を持っていましたが、今はその力を失っていました。もともと弟子たち自身に力があったわけではありません。主イエスによって力を授けられて派遣されたから、汚れた霊を追い出すことが出来たのでありました。しかし、その力は主イエスから離れると続かなくなってしまいます。キリスト者が人を慰めたり力づけたりすることのできる力を持つことが出来るとすれば、それは主イエスが共にいて一緒に働いてくださるからであって、自分の力によるのではありません。教会が人を救うことが出来るのも、主イエスが教会におられて共に働いてくださるからであります。礼拝が喜びの礼拝となるのも、そこに主イエスがおられて働いてくださるからであります。主イエスとの交流を欠いた教会やキリスト者は何もすることができません。喜びもありません。
 
てんかんの子供の父親の訴えに対して、主イエスは19節でこう言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」――「なんと信仰のない時代なのか」と言っておられます。これは問題を時代の所為にしておられるということではありません。「時代」という語は「人々」とか「世」とも訳せる言葉であります。人間の不信仰が問題なのであります。とりわけ問題なのは、続いて「いつまであなたがたと共にいられようか」と嘆いておられますように、弟子たちの不信仰が問題なのであります。弟子たちの心が主イエスから離れてしまっているのであります。主イエスは間もなく天に帰られます。見える姿で弟子と共におれるのは限られた間であります。それなのに、しばらく山に登っただけで、信仰が途切れ、力を失ってしまったことを、主イエスは嘆いておられるのであります。「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」というお言葉には、主イエスが忍耐をもって弟子たちの成長を見守って来られたことを聞き取ることができます。そして主イエスは、私たちに対しても、同じように、「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃっているのではないでしょうか。これは、単なる嘆きの言葉ではありません。十字架の苦しみを担いつつ耐えておられるのであります。私たちはこの主イエスの呻きにも似た言葉を聞き取る必要があります。私たちにはこの切迫感が欠けています。まだ時間的余裕があるように思ったり、そのうちに何とかしていただけるのではないかというような甘い期待がどこかにあります。先週、私は二人の方の死と向き合わされました。一人は昨年当伝道所の礼拝の奉仕に来て下さった山田滋先生の奥様が、高いところから落ちて頭を打って亡くなられました。もう一人は私の小学校以来の友人が癌で2年の闘病の後、死んでしまいました。死はいつ私たちを襲うのか、私たちには分かりません。その時が来てしまってから悔い改めても遅いのであります。主イエスが来られる再臨の日も、いつ起こるか私たちには分かりません。その時が来てしまっては手遅れであります。私たちは主イエスから少しでも離れるならば、自分では何も出来ないものであることを自覚すべきであります。この主イエスのお言葉を私たちにも向けられたものとして厳しく受け止めたいものであります。
 
ところで、主イエスは19節の最後で、「その子をわたしのところに連れて来なさい」とおっしゃいました。弟子たちだけではどうすることも出来なかったその子を連れて来るように弟子たちに命じられます。主イエスが直接関わろうとされるのであります。弟子たちはその子を癒す力を持たなくなってしまっています。けれども、その子をイエス様のところに連れて来る役目は果すことができます。主イエスは弟子たちをお見捨てになるのではなくて、そのような形で関わらせようとなさるのであります。私たちもまた、不信仰の故に、人を癒したり救ったりすることは出来なくなっていたとしても、病んでいる方、困っている人を主イエスの許にお連れする役割は残されているということであります。

2.信じる者には何でもできる

20節以下に進みます。主イエスの言葉に従って人々息子を主イエスのところに連れて来ますと、霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせて、その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。――このような様子を見ると、てんかんの症状です。主イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになりますと、父親は、「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」と言います。父親の長年の辛い思いが偲ばれます。色々な手を尽くしたことでしょうが、一向に回復しません。どんな医者も治せませんでした。主イエスの弟子たちにもどうすることも出来ませんでした。もう殆んど諦めています。
 
そんな中でこの父親は主イエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言います。「おできになるなら」という言い方は、相手を信頼しきっていない言葉ですが、これまでありとあらゆる手立てに期待して裏切られて来たことを考えますと、無理もないことであります。「わたしどもを憐れんでお助けください」と言っております。「この子を憐れんでください」ではありません。父親自身も主の憐れみと助けを必要としているのです。
 
すると主イエスは言われます。23節です。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」――「できれば」という仮定が入るのは信仰とは言えません。私たちも遠慮がちに「出来ればこの病気を癒してください」、「出来ればこの困難から抜け出させてください」と祈ります。私たちが神様に指図するわけには参りませんから、正しい祈りであります。ここで「信じる者には」と言われているのは誰でしょうか。誰でも信じさえすれば何でも出来るということではありません。これは主イエスのことだと理解されます。そうであれば、「できれば」ということはおかしいことであります。主イエスも他の人のように、出来ることに限界があると考えるならば、それは不信仰であります。
 
しかし、ここでは単に<主イエスならば何でもできる>ということを言っておられるのでしょうか。そうではなくて、<主イエスを信じる者には何でもできる>ということが含まれているのではないでしょうか。そういう主イエスに対する信頼の中へ私たちを引きずり込もうとしておられるのではないでしょうか。<主イエスなら何でもできる>と信じはしても、<自分には何も出来ない>と諦めるのではなくて、<主イエスを信じているのだから、自分にも何でもできる>という確信へと招いておられるのではないか、ということであります。
 
私たちキリスト者は主イエスに対して一定の信頼を持っています。求道中の方々も、信頼できるものを求めて教会に来られます。しかし、この父親と同じように、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください」という信頼に留まっていて、期待はするけど、委ね切ることが出来ないでいるところがあるのではないでしょうか。そのような私たちに対して、「『できれば』と言うか」とおっしゃいます。これは私たちを批難されるお言葉ではなくて、私たちを憐れんでおられるのであります。そして、「信じる者には何でもできる」と言われます。信仰する者には大きな可能性が開かれることを断言なさっているのです。そして、私たちを確かな信仰へと招き入れようとしてくださるのです。私たちは困難の中で諦めてしまいそうになります。世の中には実現出来ることと、そうでないことがあって、このことは自分には出来ないことだと諦めてしまうのであります。<必ず癒される>とか<必ず解決される>とは言い切れないのが私たちであります。そんな私たちに主イエスは、「信じる者には何でもできる」とおっしゃるのであります。私たちの中に信仰を目覚めさせ、甦らせるお言葉であります。

3.信仰のないわたしをお助けください

この主イエスの信仰への招きの言葉を受けて、この父親はすぐに叫んで言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 
主イエスのお言葉に、この父親は自らの不信仰に気づきます。私たちも主イエスに出会う時には、自らの不信仰を顕わにされます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」というこの父親の言葉は矛盾した言い方にも聞こえます。けれども、「信じます。だからお助けください」とは言えない不信仰な自分に気づかされています。こんな不信仰では、神様の恵みを受けることができないと感じているのです。しかし、そんな不信仰な自分をも助けてくださって、信じる者に変えてください、全てをお委ねします、と言っているのであります。主イエスは私たちの不信仰をも乗り越えさせてくださるお方であります。信じることの確かさは、私たちの中にはありません。確かさは、ただ主イエス・キリストの中にあるのです。その主に委ねるとき、「信じます。お助けください」という言葉が出てくるのであります。

4.手をとって起こされ

このあと、主イエスは、汚れた霊をお叱りになります。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」――この子はものが言えなくなっていました。しかし、ここでは主イエスは、その子にではなく汚れた霊に向かって「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」と呼びかけて、出て行くように命じられます。これは主イエスにしか言えない言葉であります。汚れた霊も主イエスの命令には従わざるを得ません。霊は叫び声をあげ、最後の抵抗として子供をひどく引きつけさせて出て行きました。そのためその子は死んだようになりました。それを見た多くの者が、「死んでしまった」と言います。この言葉には、主イエスに対する批難が込められています。<死なせてしまったのでは何にもならないではないか>という批難であります。しかし、汚れた霊から解放されただけで、人はすぐに生き生きとした生活を始められるわけではありません。病気が治ったとしても、本当の命が戻るわけではありません。人は主イエスから新しい命を与えられるのでなければ、生きることは出来ないのであります。
 
27節によると、主イエスが手を取って起こされると、立ち上がりました。主イエスが新しく生きる命をお与えになって初めて、新しい人生が始まるのであります。
 
私たちもまた、気がつかないうちに、汚れた霊に取り付かれているということはないでしょうか。<自分は大丈夫だ>と思っています。しかし、見えない汚れた霊の力が私たちを虜にして、聞くべきことも聞こえないようにしてしまうのであります。この汚れた霊を追い出すことが出来るのは、主イエスによるしかありません。主イエスが私たちに向き合ってくださり、「出て行け」と命じて下さらなくては、出て行きません。しかし、汚れた霊が出て行っただけでは問題は解決しないのであります。そこに主イエスによって新しい命が注ぎ込まれなければなりません。復活の命が注ぎ込まれてこそ、新しい人生が始まるのであります。

結.祈りによらなければ

最後に28節以下を御覧ください。今日の個所の最初は、弟子たちの不信仰が問題とされていました。途中では、汚れた霊に取りつかれた息子の父親の不信仰が取り上げられていましたが、最後には再び弟子たちのことが取り上げられています。
 
弟子たちはひそかに主イエスに質問いたします。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と。これは今の私たちもお尋ねしたい質問であります。なぜ、私たちの身の回りの問題がなかなか解決しないのでしょうか。なぜ、教会に多くの求道者がやって来るのに、信仰に導くことが出来ないまま、いつのまにか来なくなってしまうのでしょうか。なぜ、主の日の礼拝に私たち自身が喜び勇んで出かけることにならないのでしょうか。なぜ、教会から、また、私たち自身の中から、汚れた霊を追い出すことが出来ないのでしょうか。――これが今日、与えられた問いであり、テーマでありました。
 
この問いに対して主イエスはこう答えられました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ」と。これは、今上げたような、私たちの周りにある問題の解決のために祈りが不足しているという指摘であります。祈って問題の解決に当たっていないという厳しい指摘と受け取ることが出来ます。それでは、もっと祈りの機会を設けさえすれば、問題は解決して行くということなのでしょうか。聖書と祈りの会に沢山の人が出席し、家庭においても朝も夕も祈る機会を作るように心がければ、問題は解決するということでしょうか。確かに、そういうことも必要でしょう。しかし、今日の文脈からすれば、ただ祈りの機会を増やせばよいという話ではありませんでした。ここで主イエスが「祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われた祈りとは、どのような祈りでしょうか。それは、汚れた霊に取りつかれた息子の父親が、主イエスに向かって叫んだ願いの祈りであります。何と祈ったでしょうか。24節にあった、「信じます。信仰のないわたしを助けてください」という祈りであります。<不信仰な私たちをお助けください。主イエスをこそ私は信じます>という祈りであります。私たちが、<出来れば、私どもを憐れんでください>という祈りに留まっているならば、何度祈っても、祈りが聞き届けられることはありません。<不信仰な私たちを信じさせてください>、<どうか私たちを信じない者ではなくて、信じる者とならせてください>という祈りを必死で祈るのでなければ、決して私たちの中から汚れた霊を追い出すことはできませんし、まして、新しい命を生き始めることはありません。しかし、この祈りさえ真剣になされるなら、必ず、信仰が与えられ、問題は解決され、喜びに満たされるのであります。
 
では、そのような祈りをしようではありませんか。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も天上から私たちの礼拝に降りて来てくださって、不信仰な私たちのために御言葉を賜りましたことを感謝いたします。
 
今日は私たちの不信仰が明らかにされました。私たちを取り巻く様々な問題が解決しないのは、この世の状況が悪いためでもなく、私たちの力が乏しいためではなく、汚れた霊の力が大きいからでもなく、まして、あなたの福音に力がないのでもなく、私たちに本物の信仰が抜けていることに原因があることに気づかせてくださいました。
 
どうか、信仰のないわたしをお助けください。どうか、あなたと、主イエス・キリストの恵みと力を信じて、全てを委ねる信仰をお与えください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年2月17日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ9:14−29
 説教題:「
祈りによらなければ」         説教リストに戻る