序.私たちに何ができるのか

先週の礼拝後、2013年度の定期総会を開きました。昨年1年間の歩みや教勢の報告を受けて、多くの恵みを神さまから受けたことを覚えることが出来ましたが、同時に様々な問題・課題が見えて来ました。主日礼拝の教勢は2年続きの減少でありました。礼拝から遠ざかっておられる会員が何人かおられます。求道者名簿には沢山の名前が連ねられているのですが、受洗者はしばらく与えられていません。「聖書と祈り」(祈祷会)への出席者が固定化していて、教会の皆の祈りの場になっていないとの指摘がなされました。日曜学校の礼拝に地域の子供たちが来なくなって久しくなります。
 
こうした現状の中で、今年は「喜びの礼拝」ということが目標として与えられました。主日礼拝が喜びに満ちたものになれば、出席者も増えるであろうし、求道中の方々も受洗への志を高められるであろうという願いが込められています。日曜学校では「こどもかい」など、お楽しみのある集会には地域の子供たちも来るのですが、日曜日の子供礼拝に来ないのは、そこに子供たちが喜びを見出せないので、他のスポーツ活動などの方に行ってしまうと考えられます。どうすれば日曜学校礼拝が子供たちにとっても喜びの場とすることが出来るのか、という課題があります。
 
「喜びの礼拝」という目標を掲げたのは良いのですけれども、どうすればそれが実現できるのか、ということになると、一体、私たちに何が出来るのだろうか、という疑問が湧き上がって来ます。聖書の中に喜びがないわけではありません。主イエスが為して下さった御業には私たちを大きな喜びへと導く内容が豊かに含まれている筈であります。どうすれば、そうした喜びを引出すことが出来るのか、またそれをどうすれば多くの人たちに伝え、共有し、実感することが出来るのか、そのために私たちには何が出来るのか、ということになりますと、私自身も含め、誰も自分の非力を感じざるを得ませんし、どうすれば良いのかはなかなか見えて来ないのであります。
 
教会にやって来る人はそれぞれに自分の人生や日々の生活の中で問題や課題を抱えていて、如何に乗り切るべきか、どう対処すべきかについて指針や助けを求めています。そのことに教会が解答を与えることが出来れば、満たされた思いになる筈ですが、そうした悩みに対して、なかなか良い解決策を提供出来ないでいます。
 
今日与えらました聖書の箇所に書かれている出来事は、五つのパンと二匹の魚を主イエスが分配されると、五千人もの人々が満腹したという奇跡であります。主イエスのすばらしい力が描き出されています。この出来事は四つの福音書の全てに記されています。それだけ重要な出来事であったということです。では、どこが重要なのでしょうか。主イエスが不思議な力を発揮されたことが重要なのでしょうか。確かに、今日の箇所の中で、主イエスのなさった奇跡の業が欠かせない重要な要素には違いありません。しかし、それだけであれば、不思議な出来事ではあるけれども、自分たちには立ち入ることのできない、自分たちとは縁のない出来事であります。福音書の記者が揃って書かざるを得なかったのは、弟子たちの目の前に起こっている問題についてどのように対処すべきかということについて、大きな指針を与えられる出来事だったからではないでしょうか。大勢の群衆が主イエスを追いかけて来ました。彼らは主イエスに対して大きな期待を持っています。弟子たちとしては彼らの期待にどう応えたらよいのでしょうか。弟子たちに何が出来るのでしょうか。弟子たちには手に負えない問題として、主イエスの奇跡に頼らざるを得ないということでしょうか。
 
冒頭で、今、私たちの教会が抱えている問題と課題について述べました。その解決は主イエスの奇跡に頼むほかなくて、私たちはただ手をこまねいているほかないのでしょうか。これは、まさに弟子たちが抱えていた問題でもありました。今日は、この箇所から私たちが抱えている問題・課題の取り組み方を教えられたいと思うのであります。

1.飼い主のいない羊

さて、30節を見ますと、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した、とあります。弟子たちは伝道に遣わされていて、そこから主イエスのもとに帰って来たのであります。6章の6節以下には十二人の弟子たちが二人ずつ組になって派遣されたことが記されているのですが、1213節を見ると、十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した、そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした、とありまして、宣教と癒しの業を行って、それなりの成果を収めて主イエスのもとに帰って来て、主イエスに報告したのであります。
 
そこで31節を見ますと、主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所に行って、しばらく休むがよい」と言われました。これは、よく働いたから体や心の疲れを休めるという意味もあるでしょうが、ただ疲れを回復するというだけではなくて、神のもとに帰るという意味が含まれていたのではないでしょうか。つまり、人里離れた静かな所で、神様に向き合い、祈ることを勧められたのではないでしょうか。弟子たちは一定の成果を収めて得意になっていたかもしれません。しかしそこには自己満足が伴います。神様の前に立ち戻って、自分たちのして来たことを振り返る必要を主イエスは感じられたのでしょう。
 
ところが、23節を見ると、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた、というのです。このことは何を表わしているのでしょうか。弟子たちが主イエスの教えを広め、癒しの業も行ったので、主イエスの集団に対して期待がますます高まったということの表れと見ることが出来ます。しかし、同時に、彼らがまだ満たされないものを持っていたことの表われと見ることも出来ます。それは、一定期間の伝道だけではすべての人の期待に応えることは出来なかったということもあるでしょうが、まだまだ霊的な満足を得るところにまでは至っていなかったということの表れと見ることが出来るのではないでしょうか。当時のイスラエルでは、ユダヤ教の教師たちが人々の指導をしていました。彼らは律法に基づいて、あるべき生き方を教えました。しかし、多くの人々は律法に従えない現実がありました。教師たちの教えを聞けば聞くほど、自分たちの罪の重さを思わざるを得ませんでした。そこには霊的な救いはありません。神の国に入る望みがかなえられる道筋が見えて来ません。だれが自分たちを救ってくれるのか。そういう救いへの渇望が人々の心にみなぎっていたのではないでしょうか。ですから、人々は主イエスとその集団に期待して、押し寄せて来たのであります。
 
主イエスと弟子たちの一行は舟に乗って人里離れた静かな場所に移動しようとしたのですが、人々は主イエスたちがいつもどこで祈っているかを知っていたのでしょう。彼らは陸を通って先回りして駆けつけていました。主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見ると、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められました。「飼い主のいない羊のような有様」と書かれています。この言葉は旧約聖書の中で大事な役割を果たしています。その一つを引用します。モーセが後継者を任命する際に神様に祈った言葉ですが、「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください」(民数271617)と祈っています。この時、イスラエルの民を導く羊飼いがいない状態でありました。主イエスはそのような有様を「深く憐れまれた」のであります。この「深く憐れむ」という言葉については、何度も説明しましたように、「内臓をえぐる」という意味の言葉です。主イエスは御自分の内臓をえぐるような思いで人々を御覧になったのであります。そこには、この人たちのためには命さえ惜しまないという思いが込められているように思います。

2.あなたがたが与えなさい

主イエスは、そのような思いをもっていろいろと教え始められました。時間の経つのも忘れて、「神の国は近づいた」という福音を熱心に語られたのでありましょう。
 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言いました。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」――人々は時の経つのを忘れて主イエスの話に聞き入っていました。その中で、弟子たちだけは覚めていました。人々が霊的な救いを求めて主イエスの話しに聞き入っていましたが、弟子たちは肉の糧のことが気になっていました。弟子たちは話を切り上げて解散させるように提案しております。人里離れた所でありましたから、近くに食べ物を売っている店もありませんので、簡単に食事をすることはできません。非常に大勢の人たちですから、まとめて調達することも出来ないので、解散して自分たちで町へ行って買うのが合理的であります。弟子たちの提案はもっともであります。弟子たちは自分たちのするべきことは神の国の福音を伝えることであって、食事の世話をするのは、自分たちの責任の範囲外だと考えて、責任を負わされることは避けたかったのでしょう。伝道旅行から帰ったばかりで、疲れていたということもあったでしょう。

 ところが、主イエスはこれに対して、37節にあるように、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになったのであります。主イエスも先ほどは弟子たちに「しばらく休むがよい」と提案されたのに、今は弟子たちが食物の世話をするように命じられるのは、どういうことでしょうか。それも、不可能と思えるようなことであります。
 
そこで、弟子たちはすぐに反発いたします。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。1デナリというのは労働者の一日分の賃金と言われますから、それを1万円とすると200万円になります。そこには男だけで五千人いたというのですから、男一人当たり400円位になります。弟子たちは人数から200デナリオンという数字を見積もったのでしょう。そんな多額のものを自分たちは持ち合わせていなかったということかもしれませんし、たとえお金があったとしても、とてもそれだけの買い物をすることは、こんな辺鄙な場所では出来ない、と主イエスのおっしゃることが現実的でないことを指摘したつもりなのでしょう。
 
しかし、主イエスの思いは違います。主イエスは飼い主のいない羊のような人々を深く憐れんでおられます。彼らは主イエスによって自分たちの切実な問題を解決してもらいたい、満たされたいと思って、時の経つのも忘れて、話に聞き入っていたのであります。主イエスはそんな人々を何とか救いたい、彼らの心の飢えを満たしたいと思っておられます。それなのに、お前たちはそんな人々をここで帰してしまうのか、お前たちはそれで良いと思っているのか、もし食事が必要なら、それを何とかして自分たちで用意しようと思うのが本当ではないのか、と問いかけておられるのであります。
 
伝道とは、救いとはこういうものだと説明し、神の国に入るにはこうしなければならないと教えることではありません。伝道とは救いを与えることであります。そこに救いが起こることであります。その救いが主イエスによってもたらされようとしているのに、食事を用意できないからと言って打ち切って良いのだろうか、もし食事が必要なら、お前たちが何とかしようと考えるのが本当ではないか、ということであります。
 
私たちの身の回りにも、救いを必要とする人々が大勢取り巻いています。重荷を背負いながら、それを何とか軽くしてほしいと願っている人たちが、教会でなら何らかの癒しや解決の道が開かれるのではないか、重荷を軽くしてもらえるのではないかと思って、やって来られるのであります。それなのに、自分達にはそんな力はない、教会はこの世的な助けを与えるところではない、などと言って、そういう人々を追い返して良いのか、そんなことで「喜びの礼拝」が出来ると思っているのかと問いかけられているのではありませんか。主イエスは言われます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」、「あなたがた自身が親身になって、求めている人たちに必要なものを差し出しなさい」と言っておられるのではないでしょうか。

3.パンを裂いて、配らせ・・・満腹した

腰が引けてしまっている弟子たちに向かって主イエスは、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と命じられます。弟子たちは自分たちの身の回りを確かめて来て、言いました。「五つあります。それに魚が二匹です。」差し出した弟子たちは口には出しませんが、「たったこれだけで何が出来るのですか」と言いたかったのではないでしょうか。これだけで人々の飢えを満たすことは出来ないし、まして人々が求めている救いを与えることなど出来ない、と考えるのも当然です。
 
しかし、主イエスは39節にあるように、弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになります。飼い主がいない羊のように無秩序に群がっていた人々が、整然と整えられます。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろします。すると主イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配されました。
 
この主イエスの行為は、いつも弟子たちと食事をとられるときの仕草でありました。そして、この時と同じように、最後の晩餐の時に、パンと杯を弟子たちに分かちながら、御自分の体と血とを人々のために与えると言われました。そして、復活の時にも、同じように弟子たちに、用意された魚を与えられたのであります。後にそのような体験を積み重ねることになった弟子たちが、この五千人を養われた出来事を思い出しながら、主が備えて下さる神の国における食事のために、主がご自身の身を削って用意されるとともに、自分たちの小さな持ち物が用いられることを、改めて実感することになるのであります。
 
それはまだ先のことになりますが、この時もこうして、すべての人が食べて満腹しました。弟子たちの心配が無用であったことが明らかになります。おまけに、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになったというのです。ここで「十二」という数字はイスラエルの十二部族を象徴していて、すべての選ばれた人々に恵みが行き渡ったことを示していると言われますし、十二人の弟子たちが持ち運ぶ糧がまだ十二分に残っていることを意味するとも言われます。いずれにしろ、主イエスによって与えられる十字架の恵み、罪の赦しの恵みは、私たちの心の飢えを満たすのに十分なだけのものが備えられているということであります。そして、主イエスの弟子たる者は、それをすべての人のところに配りきるように命じられているのであります。
 
弟子たちは自分たちでは何も出来ないと思ったことが間違いであることが分かりました。そこに主イエスがおられることが、頭から飛んでいました。ガリラヤ湖で突風に遭ったとき、そこに主イエスが一緒におられるのに恐れ惑ったように、この時も主イエスがおられることを忘れて、不可能だと決め込んだのでした。主イエスは弟子たちの用意するわずかのものをも用いて、多くの人々に満足を与えられるのであります。

結.主の憐れみと力を信じて

私たちのこの小さな伝道所が持っているものは、五つのパンと二匹の魚にも等しいわずかなものであります。また、私たち一人ひとりの持っているものも乏しく、多くの人々の魂の飢えを満たし、喜びの礼拝を実現するだけの力を持ち合わせていません。それどころか、反って人々を躓かせてしまうような者たちであります。とても、多くの求道中の人々の魂の飢えを満たすだけのものを持ち合わせているとは思えません。地域の人々や地域の子供たちを救いに導くことなど出来そうにありません。弟子たちが言ったのと同じように、「人々を解散させてください。各自で救いを求めさせてください」と考えるのが、現実的な判断なのかもしれません。「喜びの礼拝」という今年の目標は、掛け声としては素晴らしいけれども、それを実現するには余りにも内実が伴っていないのではないか、むしろ喜べない現状で身動きがとれなくなっているのではないか、独立教会を目指すという目標も遠くに霞んでしまっているのではないか、と思ってしまうのであります。
しかし、そのような私たちに主イエスが今日、語っておられることは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」ということであります。「あなたがたが人々に救いの恵みを与えなさい」、「あなたがたが人々を喜びで満たしなさい」、「あなたがたが喜びの礼拝をもたらせなさい」と言っておられるのであります。
 
私たちは、どう答えるでしょうか。「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」、「私たちが聖書をもっとよく勉強し、祈りを篤くして、みんなを霊的に満足させるのですか」と戸惑いながら、内心は「そんなことはとても出来ません」と思いながら問い返すのでしょう。すると主イエスは、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」、「あなたがたの持っているものだけでよいのだよ、それを私のところに持って来なさい」と言われるのではないでしょうか。私たちは、「自分の持っているものがどれ程役に立つのだろうか」、「こんなものでは何の足しにもならない」と思いつつ、五つのパンと二匹の魚を主イエスの前に差し出します。ありったけのものを差し出します。すると、それを受け取った主イエスは、弟子たちに、皆を組に分けて青草の上に座らせるようにお命じになったように、私たちにも、教会に何かを求めてやって来る人々、教会に何らかの形で関係を持っている人々が、主イエスから恵みを受け取ることが出来るように整えることを命じられるのです。私たちには、人々に与える物はほんのわずかな物しか持ち合わせていませんが、人々が恵みを受け取ることが出来るように整えることが役目として与えられます。用意が出来ると、主イエスは私たちが差し出したわずかのものを取って、天の神様に賛美の祈りを唱えて、皆に分かたれるのであります。そうすると、不思議なことに、すべての人が食べて満腹するのであります。すべての人が喜びで満たされるのであります。そのことが必ず起こるのだ、ということを主イエスはこの出来事を通して、私たちに約束しておられるのではないでしょうか。私たちはただ、主の憐れみとお力を信じて、与えられている賜物を差し出し、命じられたように、集まって来ている人々を整えればよいのであります。そうすればそこに、満たされた喜びの礼拝が起こされるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちをこのように召し出して、主に仕える弟子としてくださっていることを感謝いたします。私たちは、身の回りの悩みを持っている人々や教会に救いを求めてやって来る人々に心を尽くして仕えるどころか、言い訳をしながら通り過ぎてしまい、自分の立場や誉れだけを守ろうとするような者でございます。そんな私たちですが、あなたから与えられている賜物を喜んで差出す者とならせてください。そして、それが憐れみ深い主によって用いられることによって、多くの人々に救いがもたらされ、喜びと平安に満ちた礼拝に結びつくことを信じる者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年2月3日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ6:30−44
 説教題:「
あなたがたが与えなさい」         説教リストに戻る