会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話を聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と会堂長に言われた。
                        (マルコによる福音書535,36 
 会堂長ヤイロは、娘が死にそうになったので、主イエスのところに来てひれ伏して癒しを乞うた。主イエスはすぐヤイロと一緒に出かけられたが、途中で十二年間出血が止まらない女にかかわっている間に、会堂長の家から人が来て、標記のように告げた。会堂長も、死という厳しい現実を知らされて、もはや主イエスを煩わしても無駄だと考えたであろう。ところが主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われた。これは、死の現実を前にしても、心の持ち方を変えれば恐ろしくなくなるということか。あるいは、体は死んでも魂はどこかで生きているから心配しないでよいということか。それとも、死んだ人もやがて天国の楽園に行けるのだから恐れなくてもよいということか。いずれでもない。私たちが死を恐れる必要がないのは、主イエス御自身が十字架の上で私たちのために、死の恐れと苦しみを味わい尽くしてくださり、しかも、死に勝利してくださるお方だからである。ヤイロはまだそうしたことを知らず、主の言われる意味を理解できなかっただろう。
 一行が会堂長の家に着くと、人々は大声で泣きわめいていた。そこでは、死という現実が支配していた。だが、主イエスは「なぜ、なき騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われる。これは、死の現実を直視せずに、誤魔化す言い方であろうか。死は罪の報いとして神に捨てられることであり、誰も避けることができない。しかし、その死の場所に主イエスが代わって立ってくださり、死を滅ぼされることによって、死は眠りとされるのである。
 主イエスの言葉を聞いて人々はあざ笑った。しかし、主イエスは娘のいる所に入って行かれ、手を取って「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」と言われると、少女はすぐに起き上がって歩き出した。それを見た人々は驚きのあまり我を忘れた。ヤイロも驚いたに違いないが、主が「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたことを思い出して、主の言葉の確かさを認識したであろう。ヤイロは、人の病を癒すだけでなく、命をも支配される主イエスに出会うことが出来たのである。この出来事はヤイロにとって、単に娘の命が甦らされたという奇跡ではなくて、彼の霊的な命が甦らされた救いの出来事なのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2013年1月27日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ5:35−43 説教題:「起きなさい」         説教リストに戻る