序.弟子、出血の女、そしてヤイロ――信仰の核心へ

先々週と先週に二つの奇跡物語から御言葉を聴きました。一つはマルコ福音書435節以下で、主イエスが自然現象である突風を静められたという奇跡、今一つはマルコ福音書525節以下で、十二年間も出血の止まらなかった女の出血が止まったという、病の癒しの奇跡でありました。それぞれの箇所で聴いたことは、単に主イエスは突風を静めたり重い病を癒したりする、すごい力をもっておられるなあ、というだけのことではありませんでした。大切なことは、そのような奇跡を通して、その出来事に遭遇した人たちの信仰がどうなったか、ということでありました。
 
突風を静められた奇跡では、舟が沈みそうになって恐怖に陥った弟子たちが、艫の方で悠然と眠っておられる主イエスに「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言って批難しました。そこでは主イエスが共におられるならば安心という主に対する信頼が揺らいでいます。その弟子たちの前で突風を静められた主イエスは、弟子たちに対して「まだ信じないのか」と言われて、より深く主イエスを信頼する信仰へと導かれました。出血の止まらなかった女の場合は、主イエスの服にそっと触れることで癒していただけるのではないかという一定の信仰(期待)をもって触れると、主イエスから力が出て行って、出血は止まりました。同時に主イエスから力が出て行ったことに気づかれた主イエスは、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われて、女との人格的な関係を持つことを求められました。そして、ひれ伏してありのままを話した女に向かって、主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。こうして、ただ癒しを求めるだけの信仰から全てを主イエスにお委ねする信仰へと深められました。
 
今日の箇所はそれに続く奇跡物語です。ここでは会堂長のヤイロという人の娘が手遅れで死んでしまったのに、主イエスによって甦らされたという出来事が記されているのでありますが、ここで聖書が告げたいことは、<主イエスはとてもすごいことをなさるお方だ>ということだけではありません。ヤイロの主イエスに対する信仰がどうなったか、ということがポイントであります。マルコ福音書の記者は、この出来事を通して、主イエスが私たちの信仰にどう関わろうとしておられるのか、ということを語ろうとしているのであります。今日は、この出来事を通して、主は私たちの信仰を一層深いものへと導こうとして下さっているのではないでしょうか。

1.娘は助かり、生きるでしょう――癒しの信仰

今日の35節以下に入るまえに、21節から24節までの箇所を見ておきましょう。イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た、とあります。突風に巻き込まれたのは舟に乗って向こう岸へ渡ろうとした時でしたが、その向こう岸から戻って来られたということです。待ち構えていたように、大勢の群衆が集まって来ました。その中で、会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏しました。会堂長というのは、ユダヤ人が礼拝したり律法を学んだりするシナゴーグの管理の責任者のことで、単に建物の維持管理を行うというだけでなく、礼拝を取り仕切る人で、礼拝の中で、聖書の説き明かしを誰にしてもらうかを決める権限を持つ人ですから、その地域では人望の厚い人であったと考えられます。その人が今、主イエスを見ると足もとにひれ伏しました。「ひれ伏す」という言葉は礼拝をするという意味です。先週の出血が止まらない女の物語でも、主イエスが女を見つけようとして見回しておれると、女は恐ろしくなって、震えながら進み出てひれ伏しました。この女の場合は、最初はそっと見つからないように主イエスの服に触れて癒されようとしました。出血を止めてもらいさえすればそれでよいという信仰でした。主イエスを礼拝する対象とは見ておりませんでした。その彼女がひれ伏して礼拝するところまで導かれたのでした。ところがヤイロは最初からひれ伏して、しきりに願っています。マルコ福音書によると、主イエスがカファルナウムの会堂で汚れた霊に取りつかれた人を癒されたことがありましたし(121以下下)、手の萎えた人を癒されたことがありましたから(31以下)、ヤイロはそれを目撃していたに違いありません。しかしその時は、彼は子供たちも健やかで幸福な日々を送っていたでしょうから、主イエスにひれ伏すということはなかったでしょう。けれども今は違います。彼の願いは23節にあるように、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」ということでした。家庭の幸福が脅かされています。愛する娘が死に瀕しているのであります。「手を置く」というのは、日本語でも「手当て」という言葉があるように、癒しの行為でありました。主イエスに手を置いてもらったならば、死を免れて、生き延びるのではないかという思いで、取りすがるように主イエスの前にひれ伏しているのです。会堂で一定の立場にあった人が他人の目もはばからずにひれ伏して、しきりに願っているのですから、彼の切羽詰った思いが伝わって来ます。出血の女が最初は人の目をはばかってそっと主イエスの服に触れたのと比べると、大胆であると言えるかもしれません。しかし、これを信仰と呼ぶことが出来るでしょうか。出血の女の思いと同じく、癒しを求める「信心」の域を出ていない信仰と言えるのではないでしょうか。しかし、このような信仰を私たちは軽蔑することはできません。私たちは誰でも、死というものに直面させられた時には、ヤイロのようにならざるを得ないのではないでしょうか。個人名を出して恐縮ですが、今、高坂祐介兄弟は、癌を患って、死が近いのではないかという恐れの中に過ごしておられます。幸い信仰を持っておられるので、取り乱されるようなことはありませんが、何とか主の癒しに与かりたい、死を去らせてほしいとの思いは強いと思いますし、ご家族や私たちもそのことを切に願っています。
 
では、主イエスはこのような「信心」のレベルの信仰をどう扱われるのでしょうか。主イエスはそのような信仰では駄目だと言って退けることはなさいません。そのような信仰であっても、ご自分に向けられたものとして受け止めて下さいます。そしてその信仰をより高いもの、より確かなものへと導かれるのであります。そのことを、今日与えられた35節以下で見て参りたいと思います。

2.先生を煩わすには及ばない――命に至らない信仰

主イエスはヤイロの要請を受けて、すぐに一緒に出かけられるのですが、途中で十二年間出血が止まらない女の一件が入り込むのであります。主イエスは急いでいるからと言って、その女のことを好い加減には扱われませんでした。先週聴いたように、彼女を単に癒すだけでなく、人格的な交わりへと導かれて、霊的な癒しをも与えられました。そして、彼女との会話が続いている時に、会堂長の家から人々が来て、「お嬢さんは亡くなりました」と告げるのです。出血の女のことで時間をとっている間に、死がヤイロの娘をとらえてしまいました。この知らせを聞いて、ヤイロはどんなにがっかりしたことでしょう。出血の女のことで時間をとってしまったことを恨んだかもしれません。しかし、死んでしまった以上、どうしようもありません。家から知らせにやって来た人も、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言っております。死んでしまう前であれば、主イエスなら何とかして下さるに違いないと期待していましたが、死んでしまったのではどうしようもありません。死という現実を受け止めるしかなくなりました。「先生」という言葉には尊敬の念が込められていますが、たとえ先生が来て下さっても、もはやどうしようもない、という諦めが込められています。そこでは死が勝利しています。私たちも親しい人の死に直面した時に、どうしようもない現実を受け入れざるを得ません。昨年、私たちは、狩野陽子姉の死において、よく似た経験をいたしました。彼女は洗礼を希望されていて、病床で洗礼式をする予定になっていた日の直前に亡くなってしまわれました。私たちは彼女が信仰をもって召されたということを信じておりますが、もう少し早く洗礼式を行えなかったのかという思いを拭えません。死という現実は容赦なくやって来ます。それが来てしまったのでは、私たちはどうすることも出来ません。私たちは死の支配に屈せざるを得ないのであります。
 
この現実を前にして、主イエスはどう対応なさるのでしょうか。少し間を飛ばして38節を見ていただきますと、一行は会堂長の家に着きます。主イエスはヤイロの家に行くことをお止めになりませんでした。そして家に着くと、主イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入られます。人々が泣き騒ぐのは、当時の葬儀における儀礼の一種でありまして、既にヤイロの娘の死を前提にして事は進んでいるわけであります。私たちも、近しい人が亡くなった時には、悲しい中にも、一方では粛々と事を進めざるを得ません。時間を元に戻すわけには参りません。故人の死を前提に進めざるを得ません。ヤイロの家でも、葬儀の準備は着々と進められていたようです。ところが、家の中に入った主イエスは人々に、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃいます。すると人々はイエスをあざ笑ったと書かれています。事実を事実として認めない主イエスの態度をあざ笑っているのであります。いくら大きな奇跡を行われた主イエスであっても、死の現実を前にしてはどうすることも出来ないと考えて、冷ややか受け止めているのであります。
 
この間、主イエスと一緒に家に帰ってきたヤイロはどうだったでしょうか。わざわざ主イエスに来ていただくのは申し訳ないと思ったのではないでしょうか。娘の死に目に会えなかったことを悔やんでいたかもしれません。こんなことだったら主イエスを迎えに行かなかった方が良かった、という思いがあったかもしれません。主イエスに対する信頼も無駄であったという思いさえよぎったかもしれません。
 
このようなヤイロの思いや人々の態度は、至極当然であります。しかし、そこには命にまでも力が及ぶ主イエスに対する信仰は見られません。精々、病を癒すところまでの信心に留まっています。しかし、それが普通の私たちの信仰の実体であります。突風の中でそこに主イエスがおられるのに、安心できなかった弟子たちと同じように、私たちも死という現実に直面すると、主イエスの存在を忘れてしまうのであります。そして、死のことを悲しみつつも、死の現実を受け入れて、止むを得ないこととして諦めてしまうのであります。

3.「恐れることはない。ただ信じなさい」――命の信仰への招き

36節に戻りますが、家からの知らせを受けてがっかりしている会堂長ヤイロに対して、主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。この言葉にはどういう意味が込められているでしょうか。<あなたは会堂で私が病いを癒した実例を見たではないか。また、先ほどは十二年間も出血が止まらなかった女が癒された事実にも出会ったではないか。そしてあの女は私に深い信頼を寄せるようになった。あなたは、あの女以上の信仰をもって、私が死んだ娘を生かすことができることを信じなさい。この現実を恐れることはない>と言っておられるのではないでしょうか。それは、<この現実に対して心の持ち方を変えれば、恐れることを避けることができる>というような意味ではありません。私たちキリスト者が、死の現実を前にしても恐れないのは、心の持ち方を変えることでしょうか。体は死んでも魂はどこかで生きている、ということで慰めを得て、恐れないようにしなさい、ということでしょうか。死んだ人もやがて天国の楽園に行けるのだから、恐れる必要はありません、ということなのでしょうか。そうではありません。私たちが死を恐れる必要がないのは、主イエスご自身が十字架の上で私たちのために死の恐怖と苦しみを味わい尽くして下さり、しかも、その死に勝利して下さったからであります。
 
そして主イエスは、「ただ信じなさい」と言われます。主イエスが死に勝利するお方、命を生み出すお方であることを信じなさい、と言われているのであります。死という現実を前にしても、主イエスとの人格的な交わり、命の関係が滅びていないことを信じなさい、そこに命がある、と言って命の信仰へと招いておられるのであります。こう言ってヤイロの信仰をもう一歩前進させようとしておられるのです。でも、恐らくヤイロは、主イエスの言われる意味が分からなかったでしょう。しかし、主イエスは、このように言われて、その命が勝利する場面へとヤイロと共に進んで行かれるのであります。

4.「タリタ、クム(娘よ、起きなさい)」――命を与える言葉

先ほど見ましたように、ヤイロの家では人々は死の現実に呑み込まれて死が支配しているかのように見えます。しかし、主イエスは「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。これはどういう意味でしょうか。これは死という現実を直視せずに、誤魔化す(オブラートに包む)言い方ではありません。死とは眠りのようなものだと考えるなら、それは間違いです。死が眠りであるなら、なぜ主イエスが十字架にお架かりにならなければならないのでしょうか。パウロは「罪が支払う報酬は死です」(ロマ623)と言っています。死は罪の報いとして、神さまから捨てられることであります。その死が眠りとなるのは、その死の場所に主が代わって立っていて下さるからであります。人間にはどうすることも出来ないない死に、主が立ち向かって下さり、滅ぼして下さるからこそ、死は眠りとなるのであります。そして命は主の御手のうちにあります。誰もその命を奪うことは出来ません。だから、死んだように見えても眠っているに過ぎないのです。それが主イエス・キリストによって与えられる本当の現実なのであります。だから主イエスは、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われたのであります。
 
人々はまだ主イエスをあざ笑っていましたが、主イエスは皆を外に出し、子供の両親と証人として一緒に連れて来た三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれました。この時点でも、恐らくヤイロは主イエスがおっしゃる意味が分かっていなかったでしょうし、これから何が起こるのかも分かっていなかったでしょう。
 
子供が横たえられている部屋に入られた主イエスは、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われました。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。これは、もともとは特別な言葉ではありません。寝坊している子供を起こすような、日常的な呼びかけです。ところが、そのような言葉を用いて語りかけられると、少女はすぐに起き上がって、歩き出したのです。
 
それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた、と書かれています。この「人々」の中にヤイロも含まれているでしょう。彼もまさかこのような結末になるとは思っていなかったでしょう。しかし、彼はただ驚いただけではなかったと思われます。主イエスが「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたことを思い出して、主イエスのお言葉の確かさをはっきりと認識することが出来たでしょう。そして自分の不信仰であったことを恥じるとともに、主イエスに対する信仰を確かにしたのではないでしょうか。ヤイロは、病を癒すだけでなく人の命をも支配される主イエスに出会うことが出来たのであります。この出来事は、単にヤイロの娘の命が甦らされたという奇跡を伝える物語ではなくて、ヤイロの霊的な命が甦らされた出来事、言い換えるなら、ヤイロの救いの物語であると言ってよいのではないでしょうか。
 
43節に、イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じられたとあります。なぜでしょう。それは、このような奇跡というのは、苦しんでいる者に対する一回限りの恵みの出来事であって、一般化されるなら、ご利益宗教のように間違って受け取られてしまうからであります。この時このような御業が行われたのは、単にヤイロの娘を死から救った奇跡を行われたということではなくて、ヤイロの信仰を、ただ癒しを信じる信仰から、主イエスが命を生み出し支配なさるお方であることを信じる信仰へと導くためだったのであります。

結.新しい命に生かされて

主イエスは少女に、「起きなさい」と言われました。この言葉は、「眠りから覚めなさい」とも訳される日常的な言葉であります。そんな普通の言葉ではありますが、実は、主イエスが復活されたことを告げる箇所(166)でもこの言葉が使われています。そして、42節には、少女はすぐに起き上がって、歩き出した、とあります。この「起き上がって」というのは単語が違いますが、これも「復活する」という意味にも使われる言葉であります。ヤイロの娘は復活して、新しい命に生き始めたのであります。しかし、新しい命に生き始めたのは娘だけではなかったでしょう。ヤイロもまた娘の復活の事実を見て、新しい命の道、救われた者の道を歩み始めたに違いありません。主イエスは「このことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ」られましたが、恐らく主イエスが復活なさってから、ヤイロが教会の中でこの日の出来事を語り続けたので、このように聖書に残されることになったのでしょう。私たちもまた、そのヤイロの証言によって、復活の命に生きることへと招かれています。私たちの肉の命は、遅かれ早かれ死の時を迎えることになります。しかし、私たちの命を生かす主イエスと出会うことが許され、この主を信じる信仰を与えられた私たちは、ヤイロと共に既に新しい復活の命に生き始めているのであります。
 
最後に主イエスは、食べ物を少女に与えるようにと言われました。これは彼女が甦ったのは、何か精神的・抽象的な出来事ではなくて、肉体が甦ったことを示すしるしであります。しかし、このことは私たちにも大事なことを教えているのではないでしょうか。私たちは主イエスによって復活の命を約束された者であります。復活の命に生きるということは、単なる精神的なことではありません。仙人のような生活が始まるわけでもありません。これまでと同じように現実の地上の生活を続けるのであります。その中で、主イエスから命の糧をいただきながら、新しい生き方を始めるのであります。
 
今日は午後に定期総会を開いて、教会の新しい年の歩みを始めようとしています。ただ、年が改まったというだけではなく、復活の命を与えられた者たちとして、生まれ変わって新しい礼拝生活を始めたいものであります。
 
祈りましょう。

祈  り

命の主、救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日もヤイロの娘の出来事を通して、主イエス・キリストの命の力に触れることが出来ましたことを感謝いたします。
 
どうか、私たちの日常の歩みの中で、主の命に生きることが出来ますように、御言葉の糧を欠かさず受け取る者とならせて下さい。私たちの信仰は、弱く、くずおれやすいものですが、どうか、これをお支え下さって、地上の歩みを御心に適って全うさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年1月27日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ5:35−43
 説教題:「
起きなさい」         説教リストに戻る