イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
                            (マルコによる福音書530 

 十二年間も出血の止まらない女がいた。彼女は多くの医者にかかって財産を使い果たすほどであったが、ますます悪くなるばかりであった。その上、当時の律法では、出血のある女は不浄とされ、他の人と一緒に暮らすことも、礼拝に出席することも出来なかった。
 
そんな彼女が主イエスのことを聞いて、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と、藁をもつかむ思いで、群衆の中に紛れ込んで、後ろからそっと主イエスの服に触れた。すると、すぐ出血が止まって癒された。ここまででは、この話はまだ半分しか進んでいない。
 主イエスは、標記のように、自分の内から力が出て行ったことに気づくと、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。弟子たちは、こんなに群衆が押し迫っているのに、分かるはずがないと思ったが、イエスは辺りを見回しておられた。なぜ、主イエスは触れた人を探されたのか。女がそのまま立ち去っていたら、出血が止まって普通の生活に戻れたことを喜び、感謝の気持ちは残ったかもしれないが、主イエスとそれ以上の関係を持つことは出来なかっただろう。主は、そこで終わるのではなく、この女の心に触れ、人格的な関係を持ち、信仰に導こうとされたのではないか。女は主イエスの前に何も隠すことができないことを知り、恐れつつ進み出て、ひれ伏し、すべてをありのまま話した。そこには、主に全てを委ねて礼拝する姿が見られる。彼女の最初の思いは、ただ病が癒されるだけの功利的な信仰であったが、それを、全てを委ねる信仰にまで導かれたのは、主イエスがこの女を救いたいとの強い思いを持って探されたからである。だが主はそれを「あなたの信仰があなたを救った」と言われるのである。
 私たちは悩みをもって、主のもとに赴く。そして何がしかの慰めを得たら、主のもとを離れてしまわないだろうか。だが、主イエスは、私たちの小さな、身勝手な信仰をも捕らえて、より深い人格的な関係を結んで、天国に至る救いへと導こうと、私たちを追い求められるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2013年1月20日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ5:25−34 説教題:「イエスに触れる」         説教リストに戻る