序.信仰とは、救いとは

先週の月曜日の114日に近畿中会の日曜学校教師研修会があって、私も参加いたしました。主題は「自分で、そして共に作る説教」で、日曜学校の教師が説教を準備するための研修を行ったのですが、その方法はこの伝道所で行っている「黙想ワークショップ」と同じようなやり方です。この研修会のテキストに選ばれたのが、今日の聖書の箇所でありました。講師は青木豊先生で、私は分団の指導を行いました。大変有益な研修会であったと思いますが、今日はその研修会を通して私が与えられたものをもとに御言葉に迫りたいと思います。
 
この研修会の初めに青木先生が強調されたことは、説教というのは聖書の説明ではなくて、御言葉によって説教者自身が主イエスに出会い、その主イエスを聞き手に紹介することだ、ということでした。そして、そのためのコツとして、切り札となる言葉を見つけるのがよいという話をされました。それで皆で話し合いながら、切り札探しをしたわけです。切り札は必ずしも全員が一致する必要がなくて、個々の説教者が自分なりのものを見つけ出せばよいのです。私が今回の研修会で見つけ出した切り札は後ほどお話いたしますが、皆様もこの箇所の中でどこが切り札かということを考えながらお聞きいただくと、今日の礼拝で皆様も主イエスにお会いできるのではないかと思います。
 
ところで、今日の箇所の中で、誰でも大事だと思う言葉は最後に主イエスが言われた「あなたの信仰があなたを救った」34)という言葉ではないでしょうか。ところが、すぐ疑問も出てきます。ここで「あなたの信仰」と言われている信仰とはどんな信仰なのだろうか、この女の信仰はそれほど立派なのだろうか、十二年間も止まらない出血をただ癒されたいだけだったのではないか、という疑問です。この疑問とも関連しますが、「あなたを救った」と言われる「救い」とは何なのか。ただ出血が止まることなのか、それとももっと深い意味があるとすれば、どういうことなのか、という疑問も出て来ます。
 
このような疑問に答える切り札を探す必要があると思います。これを探し出すことが出来れば、単にこの言葉が理解できるというだけではなくて、主イエスご自身にお会い出来るのではないかと思います。

1.ひどく苦しめられ

さて、まずこの女の状態がどうであったか、ということから見て参りたいと思います。
 
この女は十二年間も出血が止まらなくて、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられた、と書かれています。どういう苦しみかというと、聖書には全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった、と書かれています。医学が発達していない時代ですから、その原因が解明されず治療法が確立していなかったのかもしれませんし、中には悪い医者がいて、治らないのが分かっていながらお金だけを巻き上げていたのかもしれません。そのためにこの女の人の人生は台無しになってしまったのです。
 
しかし、苦しみはそれだけではありません。表面に表われていない大きな苦しみがありました。それは、当時の律法では出血のある女は不浄な病であるとされていまして、彼女が触れるもの、彼女の触れたものに触れる者も汚れるとみなされたのです。そうなると他の人と一緒に生活することが出来ないわけであります。家族からも離れて生活しなければならなかったでしょうし、買い物などに行くことも出来なかったでしょうし、礼拝にも行くことが出来なかったわけです。十二年間もこういう社会的差別を受けながら、経済的にも苦しい生活を強いられて来たのであります。とても気の毒な状態です。
 この女の状態は、医学が発達していなくて、汚れということに特殊な感覚があった時代であったから起こったことではありますが、同様なことは現代でもないわけではありません。現代の医学をもってしても原因や治療法が分からない難病と呼ばれるものは沢山ありますし、らい病の患者などは、数十年前までは大きな社会的差別を受けていました。また、いわゆる精神疾患についても、社会的認識は随分改善されては参りましたが、未だに差別的な意識で接することが皆無ではありません。そうした障害を持っていることで、経済的・精神的に苦しい人生を歩まなければならないということは、現代であっても解消されていない問題であって、私たちの身の回りにもあることであります。ですから、この女の状態というのは、私たちには関係のない昔話では決してありません。そして、こういう苦しい状態から解放されたいという願いは今も多くの人が持っていることであります。

2.服に触れる

さて、この女がいた町に主イエスが来られると大勢の群衆がそばに集まって来ました。主イエスが病気を癒されるという噂が広がっていたのでしょう。この女も、その噂を聞いて、このチャンスを逃すまいと群衆の中に紛れ込みます。しかし、律法によれば人に触れてはいけないことになっていますから、公然と主イエスの前に出て、「出血を癒してください」などとお願いするわけには参りません。発覚すれば人々から糾弾されて、裁きを受けなければなりません。しかし、何とか癒されたいと、藁をもつかむ思いで、人に知られないように「服にでも触れればいやしていただける」28)と考えて、後ろから主イエスの服に触れたのであります。この行為から、彼女の必死の思いが伝わって来ますし、主イエスに対する強い期待を読み取ることができます。
 
この女のしたことを愚かだとか、迷信だとか言って笑うことが出来るでしょうか。私たちも治り難い病気に罹った時には、<こんな治療法があって、効果があった人がいる>というような噂を聞くと、それにすがりたくなるでしょう。まして、相手は主イエスであります。奇跡的な癒しの業も行っておられるとなると、何とかして頼りたいと思うのも当然かもしれません。
 
女が服にそっと触れると、驚いたことにすぐ出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じたのであります。30節を見ますと、同時に、主イエスの方でも自分の内から力が出て行ったことに気づかれます。この女の強い思いが、主イエスから大きな力を引き出すことが出来た、と言えるのかもしれません。長年の出血さえ止まれば、この女の人生の大きな問題は解決されます。新しい人生が始まります。この女はここで喜んで姿を消すことも出来ました。服に触れて癒されたことが発覚すれば、汚れのことで大騒ぎになるかもしれません。せっかく癒されたことも無駄になるかもしれません。だから、何事もなかったかのようにその場を離れることも考えたかもしれません。

3.触れたのはだれか

ところが、この出来事はそういう結末にはならないのであります。ここまでであれば、今日の話はまだ半分しか進んでいません。と言うよりここからがこの話の大切な部分になります。
 
主イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づかれると、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われました。大勢の群衆が主イエスを取り囲んでいました。誰が服に触れたのかは分かりません。女だけでなく他の人も主イエスの服に触れるほど押し迫っていたのではないでしょうか。そこで、弟子たちは言いました。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」と。しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられました。
 
なぜ主イエスは触れた人を探されたのでしょうか。ここが今日のポイントです。主イエスの方でも「自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ましたので、誰かが信仰をもって触れたに違いないと感じられたのでしょうか。ではなぜ、その人を特定したいと思われたのでしょうか。黙って触れたので叱ってやろうと考えられたのでしょうか。このあとの主イエスの態度を見ると、そうではなさそうです。ではなぜ、服に触った人をお探しになったのでしょうか。ここで、女が服に触れて癒されて、そのまま立ち去ったならば、女の中に主イエスに対する尊敬や感謝の気持ちは残ったかもしれませんが、人格的な出会いが起こるわけではありませんし、末永く交わりを持つということに発展しません。当時、魔術や迷信の類によって、病を癒すということは可なり行われていたようで、そういうのと同じになってしまいます。迷信とは言わなくても、当時のレベルの低い医療技術の中で主イエスが医者の代わりをなさったに過ぎないことになってしまいます。主イエスはこの女とそういう関係ではなくて、人格的な関係を持つことを願われたのではないでしょうか。病気の癒しということだけではない深い信頼の関係に結ばれることを望まれたのではないでしょうか。この女は服に触れましたが、主イエスはこの女の心に触れようとされた、(人格に触れようとされた)と言ってよいでしょう。そしてこの女にもっと大きなものを与えようとされたのではないでしょうか。
 
私たちはどうでしょうか。私たちもこの女と同じように、重い病気に罹ったり、苦しいこと、困難なことに遭遇すると、主に癒しを求め、助けを求めます。主はそれに応えてくださることがあるし、そうでないこともあります。私たちの関心は私たちの願いに主が応えて下さるかどうかにあります。それさえ解決すれば良いと思ってしまいます。しかし、主はそれだけではなくて、もっと深い、永続的な人格関係を求めておられるということであります。主は多くの群衆の中で、私を目指して振り返って、「わたしの服に触れたのはだれか」と呼びかけられて、私たち自身の人格、私たちの信仰、私たちの全てを求められるお方であります。食い逃げするように、自分の利益だけを受けて立ち去ることをお許しになりません。それは恩知らずの身勝手だから許されないのではなくて、主は私たちを愛しておられて、もっと大きな祝福、本当の救いへと導こうとされているからであります。

4.すべてをありのままに

辺りを見回しておられた主イエスに対して、女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話し(33)ました。
 
「自分の身に起こったこと」とは何でしょうか。出血が止まったことでしょうか。それもあるでしょうが、そのことを通して主イエスと深い関係が出来てしまったことを知ったのでしょう。「恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し」ました。この恐れとは何でしょうか。汚れた女が律法に違反して人に触れたことが発覚して裁きを受けることを恐れたのでしょうか。そうではないでしょう。それなら進み出ずに、そっと帰ってしまったでしょう。そうではなくて、主イエスの大きな力と人格に触れて恐ろしくなったのであります。それは恐怖ではありません。神様の前にある畏れであります。だから、進み出てひれ伏しました。礼拝したのであります。そして、このお方の前に何も隠すことが出来ないことを知って、すべてをありのまま話しました。律法に違反したことについても、主イエスの裁きに委ねたのでしょう。心はもはや裁きから解放されているのであります。そこにはただ病を癒されただけではない救いがあります。救われた者は、何も隠し立てをする必要がなくなります。見栄を張ったり、良い格好をする必要はありません。すべてをありのままに話し、ありのままに振舞うことが出来るようになります。
 
礼拝とは、群衆に紛れ込んで主イエスの後ろから主イエスに触れることではありません。畏れながらも、主イエスの前に進み出て、ありのままの自分を差し出すことであります。そして、主イエスの御人格に触れることです。否、主イエスの方から私たちを探し出して、御言葉をかけて下さり、私たちと人格的な関係を築いて下さるのであります。そして私たちを束縛している重荷から解放して下さいます。

5.信仰があなたを救った

主イエスの前に進み出て、すべてをありのままに話した女に対して、主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われます。
 
「娘よ」と呼びかけておられます。十二年間も出血が止まらなかったのですから、もう良い歳になっていたと思われます。出血によって青春が失われてしまいました。しかし、出血が治まって、もう一度青春をやり直しなさい、と呼びかけておられるように感じられる優しい呼びかけのお言葉です。
 
「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。「あなたの信仰」とはどんな信仰だったでしょうか。確かに、この女が主イエスの服に触れたことの中に彼女の並々ならぬ思いがありました。主イエスなら癒して下さるに違いないという藁をもつかむような思いがありました。しかし、それは迷信的な信仰とも言えるものであります。ただ病の癒しだけを求める功利的な信仰であると言えるかもしれません。しかし、主イエスはそのような欠けの多い、多少迷信的な信仰であっても、否定はされません。むしろ、それを取り上げて「あなたの信仰があなたを救った」と言って下さるのであります。もちろん、この女の信仰に出血を止める力があったわけではありませんし、彼女を罪の重荷から救い出すだけの力があったのでもありません。むしろ、主イエスがこの女の藁をもつかむような思いを受け止めて、主イエスの方からこの女に近づかれることによって、彼女の中により大きな信仰(信頼)を創り上げられたのであります。しかし、その信仰を「私が創った信仰」とは言わずに、「あなたの信仰」と言って下さるのであります。
 
ですから、私たちも、自分は小さな、欠けの多い、身勝手な信仰しかないから、主イエスに取り上げてもらえないと思う必要はありません。主イエスはその小さな信仰を種にして、私たちと人格的な交わりを持って下さって、大きな信仰へと育てて下さるのです。そのために、私たちを探し求めておられるのであります。

結.安心して、元気に

主イエスは最後に、安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(34)と言われました。
 
「安心して行きなさい」は英語で言うとgo in peaceです。「平安のうちに行きなさい」ということです。主イエスとの人格的な交わりを与えられるという平安のうちに、生まれ変わった人生が始まるということです。そして、「元気に暮らしなさい」と言われました。口語訳では「達者でいなさい」と訳されていました。なんだか普通の励ましの言葉のようですが、主イエスがおっしゃる時には重みがあります。病気からの解放が告げられているのです。
 
もっとも、この女も永遠に生き続けるわけではありません。この時は出血を癒されたのですが、やがて死の病を負って、最期の時を迎えなければなりません。しかし、主イエスとの人格的な交わりはもはや断たれることはありません。主と共にある歩みは天国にまで続きます。だから、「安心して行きなさい」と言われるのであります。
 
私たちもまた、主イエスに向き合い、御言葉を通して人格的な交わりを続けるならば、生涯、安心して歩みを続けることが出来るし、その歩みを天国においても続けることが出来るのであります。
 
最後に、冒頭にお話した「切り札」のことをお話しましょう。私が今日の箇所から与えられた切り札の言葉は、30節で主イエスが言っておられる「わたしの服に触れたのはだれか」という言葉であります。この言葉によって、主イエスの方からこの女との人格的な接触を求めておられるのであります。この女が主イエスの服に触れたのに対して、主イエスの方からこの女の心に(人格に)触れようとされているのであります。この言葉に、主イエスの愛が込められています。この女を救いへと導く切り札となる言葉であります。主イエスは私たちにも、「わたしの服に触れたのはだれか」と呼びかけておられるのではないでしょうか。今日は、そのような主イエスの御心に、私たちも触れさせていただくことが出来ました。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリスト父なる神様!
 
「イエスの服に触れた女」の出来事を通して、私たちの小さな信仰にも働きかけて下さって、信仰を呼び覚まし、主イエスとの人格的な交わりへと召し出して下さいましたことを感謝いたします。私たちはあなたの御前に出る資格のない者であり、恐れを覚えざるを得ない罪人でございますが、どうか、主イエス・キリストのゆえに赦されて、生涯、御言葉を聴き続けることが出来るようにお導き下さい。
 
あなたの癒しをひたすら願っている者に、また悩みの中にある者に、どうか、あなたとの深い人格的な交わりを経験させて下さり、あなたに全てを委ね切る信仰が与えられますように計らって下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年1月20日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ5:25−34
 説教題:「
イエスに触れる」         説教リストに戻る