イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコによる福音書440,41 
 主イエスは人々に色々な譬えを用いて神の国のことを話された後、夕方になって、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われた。向こう岸は異邦の民の地であったが、そこでも神の国の福音を伝えようとされたのである。
 ところが、舟を漕ぎ出すと、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになるほどであった。主イエスの意志によって始められたことであっても、順風満帆に進むとは限らず、思わぬ逆風が立ちはだかることがあるのだ。キリスト者の人生も決していつも平穏とは限らない。
 弟子たちの中には漁師をしていた者もいて、彼らはガリラヤ湖に起こる突風の恐ろしさはよく知っていた筈で、それだけに反って恐怖に陥った。経験や知識だけでは逆風に立ち向かうことは出来ないのである。
 しかし、主イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。疲れきっておられたのであろう。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。悠然と眠りこけている主イエスに腹を立てたのだ。この弟子たちに私たちの姿が重なる。私たちも、困難な状況の中で、なぜ主がもっと力強く働いて下さらないのかと不平に思うことがある。そんな私たちは、主イエスの本当の姿を見失っている。
 主は起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になった。主は自然をも支配されるお方であるばかりか、人を汚し、信仰を奪い、命をも狙う汚れた霊をも追い出す権威をもっておられるのだ(125)。そして主イエスは標記のように、弟子たちの不信仰を糾弾される。信仰とは、主が共にいて眠っておられることに安んじることである。
 しかし、標記の主の言葉は、弟子たちの信仰を呼び覚まそうとなさる言葉でもある。弟子たちは、自然をも支配される主イエスの前に恐れさえ感じたのだが、これは突風に対する怖れとは異なり、畏怖の念であろう。しかし、この段階では弟子たちはまだ「いったい、この方はどなたなのだろう」という問いに留まらざるを得なかった。そして、その問いを抱いたまま、主イエスの十字架の死と向き合うことになる。だが、主が死の眠りから覚めて、弟子たちの前に姿を現されたとき以来、この問いを発することはなくなったのである。主は私たちにも「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と問いかけて、不信仰から信仰へ、恐れから喜びへと導き出そうとしておられるのである

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2013年1月13日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ4:35−41 説教題:「恐怖から畏れへ」         説教リストに戻る