序.喜びの礼拝の前に

今年の年間目標は週報の1頁目に掲げておりますように、「喜びの礼拝」であります。そして、その目標に導かれるための主題聖句としては詩編100編を挙げています。先週はこの聖句によって御言葉を聞きました。そこには、喜びの礼拝の基本的な事柄が示されていました。今日は日曜学校のカリキュラムに従ってマルコ福音書の435節以下が与えられているのですが、ここには、一見すると喜びの礼拝につながる内容はないように見えます。むしろ、41節にあるように、弟子たちは風を鎮められた主イエスを見て非常に恐れたということが書かれています。また、41節の後半では、弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」という問いに導かれたというのであります。ここには弟子たちが喜んだという記述はありません。では今日の箇所は私たちの「喜びの礼拝」につながらないのかというと、そうではありません。聖書はどの箇所も福音が語られていると言えると思います。だから喜びにつながらない箇所はありません。この箇所も弟子たちの恐れや問いで終わっていますが、その先には喜びがつながっているのではないかと思います。そこで今日は、この箇所を通して主の与えて下さる喜びに近づくことが出来たらと願っております。

1.向こう岸に渡ろう

さて、最初に、マルコ福音書の中で今日の箇所がどういう位置づけにあるのかということを確認しておきたいと思います。4章の初めからには四つの譬えが記されています。「種を蒔く人の譬え」、「ともし火と秤の譬え」、「成長する種の譬え」、「からし種の譬え」であります。これらは皆、神の国についての譬えであります。そして、今日の箇所からは奇跡の物語が続くのであります。神の国と奇跡との関係について、こういう記事があります。牢に入れられていた洗礼者ヨハネが弟子を主イエスのもとに遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか」と問わせました。この問いは「あなたは救い主として来られたお方ですか」という質問であり、「あなたが来られたことによって、神の国は始まったのですか」という問いであります。それに対して主イエスは答えられました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病の人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と。つまり、現に奇跡が行われているように、神の国は既に始まっているのだ、ということをおっしゃったのであります。主イエスは神の国について人々にお語りになりました。そこで語られた神の国は抽象的な話ではない、頭の中で考えた話ではない。現に起こりつつあることなのだということを奇跡の業をもってお示しになったのであります。その最初に記されているのが、今日の突風を静められた奇跡であります。そのことを頭に置きながら、今日の箇所を見て行きたいと思います。
 
35節を見ますと、その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた、とあります。ここには主イエスの御意志が示されています。「向こう岸」とはどこでしょう。51節を見るとそれはゲラサ人の地方であったことが分かります。そこは異邦人が多く住んでいた地方であります。主イエスは異邦の地で神の国の福音を宣べ伝えようとして「向こう岸に渡ろう」と言われたのであります。ここまではガリラヤ地方で伝道をして来られました。しかし、異邦の地にも神の国の福音を伝えようとの伝道計画をもって、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとされているのであります。
 
ところが、舟に乗って漕ぎ出すと激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどになりました。主イエスのご意志で漕ぎ出したにもかかわらず、激しい突風が襲いかかって、一行の計画を阻もうとするのであります。このことは何を示しているでしょうか。主イエスの御計画であれば必ず順風満帆に進むとは限らないということであります。教会の歩みには主が共にいて下さいます。しかし、教会の伝道の歩みにも逆風が立ちはだかることがあるということです。この伝道所も主イエスの救いのご計画の一環だと私たちは信じております。しかし、この伝道所の昨年の歩みを見ましても、必ずしも順調とは言えません。教勢の面では礼拝出席数において2名の減少がありました。教会の外にも中にも容赦なく逆風が襲うのであります。私たち一人ひとりの人生にしても同様であります。キリスト者の人生であれば、いつも平穏無事かというと、決してそうではありません。様々な波風が行方に立ちはだかります。信仰を持つということ、キリストと共に歩むということは、何か魔除けのようなものを持つことではありません。嵐が通り過ぎて行くような仕掛けを持っているということではありません。主イエスが共に歩んで下さる人生にも波風は襲うのであります。
 
ただし、教会の歩みと一般の団体の歩みには違うところがあります。信仰を持っていない人と信仰を持っている人の人生には違う点があります。それは、教会の歩みにも信仰者の歩みにも、「向こう岸に渡ろう」と言われる主イエスの御意志と御計画があるということであります。私たちはともすれば目標を見失い勝ちになります。主イエスの御意志を忘れ勝ちであります。そして、目先の波風に慌てるのであります。

2.眠るイエスと怖がる弟子

主イエスと共に舟に乗っていた弟子たちはどうだったでしょうか。弟子たちの中には長年このガリラヤ湖で漁師をして来た人が何人かいました。彼らはガリラヤ湖のことは熟知していた筈であります。ガリラヤ湖は海面より180メートルも深くて、周りは高い山に囲まれていまして、急に突風が吹き荒れることがありました。その恐ろしさを漁師であった弟子たちはよく知っていた筈であります。彼らは知っていただけに、今突然、激しい突風が起こって、舟が波をかぶって水浸しになるほどになると、恐怖に陥ったのであります。無知のための恐れというのもありますが、この場合のように知っていることによる恐れもあります。教会生活が長く、聖書のことも熟知しているから何の不安もないかというとそうではありません。人生経験が豊かで様々な知識も豊富だから、何の悩みもないかというと必ずしもそうではなくて、反って、様々な難しい事例や恐ろしい場面を知っているだけに不安がつのるということがあります。経験や知識だけでは激しい突風に立ち向かうことが出来ません。
 
では、主イエスは水浸しになるほどの舟の中でどうしておられたでしょうか。38節によると、艫の方で枕をして眠っておられたのであります。一日中人々に話をなさったので、お疲れになっていたのでしょう。舟を漕ぐのは弟子たちには慣れた仕事だから、任せきっておられたのでしょう。しかし、水浸しになるほどの舟の中でも眠っておられたのは、疲れ切っておられて、弟子たちの腕を信用しておられたからだけではないでしょう。詩編49節では、「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです」と歌われています。このように、主イエスは神様に身を委ねておられたのでしょう。先ほど朗読されたイザヤ書3015節では、「静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と言われていました。神様への信頼があるところには平静でいられる力が働くのであります。危機の際に発揮される力とは、バタバタと動き回ったり、火事場の馬鹿力を発揮するということではなくて、神様を信頼するところにこそ働くのであります。
 
この主イエスに対して、弟子たちはどうだったでしょうか。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。弟子たちには主イエスが眠っておられることを理解できません。主イエスが神様を信頼しておられるということが理解できません。そして自分たちはどうなるかとはらはらしているのに、悠然と眠りこけておられる主イエスに対して腹を立てているのです。主イエスがおられるだけで安心だということが、もう頭から飛んでしまっているのであります。そして自分たちの方が危険状態をよく認識しているかのように、主イエスを批難しているのであります。眠っているのは主イエスではなくて、弟子たちの信仰であります。
 
この弟子たちの姿に、私たちの姿が重なるのではないでしょうか。私たちは教会が置かれた困難な状況の中で、<なぜ主がもっと力強く働いて下さらないのですか、教会が滅びてしまってもかまわないのですか>と、不平に思っているのではないでしょうか。自分や自分の家族に降りかかる災難や不幸の中で、<なぜこんな辛い目に遭っている私たちを主は顧みて下さらないですか、私たちがどうなってもかまわないのですか>と文句を言いたくなるのではないでしょうか。そしておまけに、こんな状態を改善されないようでは、主の栄光がすたれてしまうではないか、などとさえ思ってしまうのであります。そんな私たちには、主イエスの本当の姿、私たちに対する本当の思いが見えていません。
 
では、この時、弟子たちはどうすればよかったのでしょうか。私たちはこのような状態に遭遇した時にどうすればよいのでしょうか。弟子たちは騒がずに水浸しになった舟に横たわって、主イエスと同じように眠ればよかったのでしょうか。私たちは運を天に任せて、何もせずにじっとしている方がよいのでしょうか。それが信仰者の望ましい姿なのでしょうか。加藤常昭先生は、この箇所の説教の中でこう言っておられます。弟子たちは主イエスが寝ておられる姿を見ながら、安んじてせっせと舟を漕げばよかったのではないか。そして夢中になって水をかい出しておればよかったのではないか。主イエスは神様にだけ全部をお任せになったのではなくて、弟子たちに任せて眠っておられたのではないか。弟子たちはただ主イエスを向こう岸に運ぶ務めを続けていたらよかったのではないか、と言っておられます。確かに、私たちは主イエスに指図する立場にありません。私たちは主のご計画と導きを信じて、主から与えられた職務を忠実に果たして行くことが求められているのかもしれません。

3.「黙れ。静まれ」

さて、弟子たちの不信仰が明らかになった時、39節にあるように、イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になったのです。主イエスが風や湖を静められたということは、イエス・キリストが自然界のすべてを支配される権威をもったお方であるということを表わしています。しかも主イエスはその御支配を、言葉によって実現されました。神様は創造の御業の初めに、「光あれ」と言われて光を創造されました。そのように主イエスも御言葉によって自然を御支配なさるのであります。
 
この「黙れ。静まれ」という言葉には、更に深い意味が込められています。このマルコ福音書の121節以下に最初の癒しの御業が記されていますが、そこでは汚れた霊に取りつかれた男に向かって主イエスは「黙れ。この人から出て行け」(125)とお叱りになると、汚れた霊は大声をあげて出て行ったのであります。ここに同じ「黙れ」という言葉が使われています。主イエスは単に自然をも支配されるというだけではなくて、人を汚し、人の信仰を奪い、人の命を狙うところの汚れた霊(悪霊)をも追い出す権威をお持ちであるということが示されるのであります。ここでも、激しい突風の背後に、弟子たちの信仰を奪いかねない悪霊の力が働いていたのであります。
 
私たちが出会う困難や不幸な出来事の中にも悪霊が働いています。そして私たちを主イエスから引き離そうとするのであります。弟子たちはその力に屈して信仰を失いかけたのでありますが、主イエスが御言葉によってそれを阻止されたのであります。人生の嵐、教会の困難の中で、私たちはこの主イエスを思い起こさなければなりません。

4.恐怖から畏れへ

風と湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われた後、今度は弟子たちに向かって、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。これは弟子たちの不信仰に対する厳しいお叱りの言葉であります。「怖がる」こと、即ち恐怖は信仰と正反対であります。信仰を失っているところに恐怖が生じます。信仰とは、主イエスが眠っておられることに安んじることであります。たとえ恐怖があっても、共にいて下さる主にそれを委ねることであります。この言葉は、弟子たちの不信仰を糾弾された言葉でありますが、同時に彼らの信仰を呼び覚まそうとされるお言葉であります。<私がお前たちと一緒にいるではないか。私が十字架に至るまで悪霊と戦って、恐怖の元を断とうとしているのだ。そのことが分からないのか>、と言っておられるのであります。
 
しかしながら、この時の弟子たちにはそのことがまだよく分からなかったようであります。41節を見ると、弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言い合った、とあります。風や湖は治まりました。恐怖の原因は取り除かれました。もう安心してよい筈であります。ところがここには、弟子たちは非常に恐れたと書かれています。この「恐れて」という言葉は「怖がる」と訳されているものとは違う言葉が使われています。こちらも「怖がる」という意味もありますが、もっと激しい恐れが表わされています。日本語で言えば、「畏怖」という言葉が当たっているかもしれません。恐怖から畏怖へと進んだのであります。
 
弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」と言っております。<イエスは誰なのか>という問いへと導かれたということであります。今まで出会ったこともないお方に出会ったという恐れであります。「風や湖さえも従うではないか」と言っております。自然をも治められるお方に出会ったという驚きが表現されていますが、この驚きはそれだけではないでしょう。主イエスの中にもっと大きいものを感じたのではないでしょうか。自分たちを愛しておられるその愛の一端が見えて来たのかもしれません。あるいは自分たちの命を守り、死からも甦らせてくださるお方であることの片鱗を垣間見ることが出来たのかもしれません。しかし、この段階では、「いったい、この方はどなたなのだろう」という問いに止まらざるを得ませんでした。<イエスは誰なのか>という問いに答えはまだ与えられていません。いよいよ謎が深まったと言った方がよいかもしれません。畏れは深まったのであります。

結.畏れと共に喜びへ

マルコ福音書では、この出来事はまだ初めの方であります。しかし、このあと主イエスは様々な出来事と御言葉によって徐々に御自身を明かして行かれます。しかしそこには十字架の影が覆い始めます。弟子たちはいよいよ謎に包まれたような思いになって、遂には主イエスを見捨てるところまで行ってしまうのであります。主イエスは人々にも捨てられ十字架に架けられて殺されます。弟子たちは主イエスの中に何か崇高なものを感じていたかもしれませんが、主イエスが誰なのかと言う問いに答えを与えられないまま、主イエスの死と向き合わされるのであります。
 
その主イエスが三日目に死の眠りから甦られて、弟子たちの前にお姿を現された時、弟子たちはもはや、「いったい、この方はどなたであろう」と問うことはなくなります。そこには一段と深い畏れ(畏怖)の念が起こったでしょう。しかしそれとともに、次第に大きな喜びに包まれることになりました。自分たちの不信仰の罪を負って下さり、それを根本から滅ぼして下さった主イエスの愛に気付くことが出来たからであります。
 
それから弟子たちは何を始めたでしょうか。彼らは復活の主に出会った喜びに押し出されるようにして、十字架と復活の恵みを伝え、伝道を始めたのであります。そして主イエスは誰であるかということ、主こそ救い主であることを人々に語り始めたのであります。
 
私たちはこの弟子たちの証言を聖書から聴くことを通して、復活の主に出会うことが出来ます。それでも私たちは、主イエスを見失うことがあります。弟子たちが同じ舟に乗っておられる主イエスを見失ったように、私たちも、主イエスがどなたであるのかが分からなくなることがあります。私たちを襲う突風の激しさ、悪霊の力が私たちを主イエスから引き離そうといたします。そのような私たちに向かって、主イエスは今日も「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と問いかけておられます。そして、不信仰から信仰へ、恐れから喜びへと導き出そうとしておられるのであります。このようにして、主は今日も私たちを喜びの礼拝へと召して下さっているのではないでしょうか。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
主イエスを私たちのところにお遣わし下さり、救いの御業を為して下さいましたことを感謝いたします。
 
私たちは地上の歩みの中で様々な試練に遭遇すると、心を乱さざるを得ない者でありますが、主は今も聖霊において私たちと共にいて、悪霊の手から守っていて下さることを覚えて、重ねて感謝いたします。
 
どうか、この教会の今年の歩みが私たちの不信仰によって滞ることなく、御心に従って進められますように。どうか、私たち一人ひとりの人生の歩みが、あなたによって守られていることを覚え、安んじてみ手に委ねる信仰を持ち続けることが出来ますように、お導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2013年1月13日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ4:35−41
 説教題:「
恐れから畏れへ」         説教リストに戻る