全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。          (詩編10012

 今年の目標は「喜びの礼拝」で、標記が主題聖句である。
 ここで「全地よ」と呼びかけられている。「喜びの礼拝」へはキリスト教の信仰を持っている人だけでなく、全ての人が招かれている。だから、私たちが勝手に「喜びの礼拝」に与かる人を絞ってはならない。また、私たち自身が「喜びの礼拝」を捧げているかどうかが問われることになる。
 「喜びの礼拝」とは、喜びの叫びをあげ、祝い、歌うことであるとともに、「主に仕え」、「御前に進み出る」ことである。「主に仕える」とは、主なる神以外のものに喜びや安心を求めるのではなく、主に自分の存在と命と時間を献げることである。「御前に進み出る」とは、具体的に礼拝場所に足を運ぶことである。だが、私たちはこのような呼びかけに素直に応じようとしないし、礼拝に出席していても、「喜びの礼拝」が簡単には実現しないという現実がある。何が足りないのか。
 詩編は続けて、「知れ、主こそ神であると」と呼びかけ、以下の三つのことを知るように勧める。第一は、「主は私たちを造られた」こと。神は御自分にかたどって人を創造された。即ち、神と向き合う存在として造られ、神は今も私たちと向き合っておられることを知ること。第二は、「わたしたちは主のもの、その民」と言われているように、イスラエルの民と教会の歴史の中で、神が具体的に働いておられることを知ること。第三は、「主に養われる羊の群れ」と言われているように、私たち羊のために主は御子をも惜しまれないお方(良い羊飼い)であることを知ることである。
 更に、「感謝の歌をうたって主の門に進み・・・主の庭に入れ」と呼びかけられている。「主の門」「主の庭」とは礼拝場所のこと。そこに入るのに資格や自己改革が求められているわけではない。なぜなら、「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」からである。主は歴史の中で、その真実な愛を具体的に示して来られた。その慈しみはこれからも永遠に続く。この神の真実によって、私たちの真実(信仰)が支えられるので、「喜びの礼拝」が可能となる。「喜びの礼拝」は私たちが創り出すものではなく、御言葉と聖霊において主と出会うことによってもたらされるものなのである。 

米子伝道所 新年礼拝説教<要 旨> 2013年1月6日  山本 清牧師 

 聖  書:詩編100:1−5 説教題:「喜びの礼拝」         説教リストに戻る