序.喜びの礼拝に向けて

米子伝道所の今年の目標は週報の1頁目に掲げておりますように、「喜びの礼拝」であります。
 
なぜ、このような目標を掲げたのかと言えば、端的に言うと私たちの礼拝において喜びが欠けているのではないかと思われるからであります。礼拝は喜びの場、喜びの時である筈であります。そうであれば、礼拝に行くことが楽しみであり、何をおいても礼拝に行きたくなる筈であります。そして他の人をも礼拝に招きたくなる筈であります。ところが、必ずしもそうはなっていないのではないか、と思われるのであります。私自身も礼拝に喜びをもって臨んでいないのではないかという反省があります。礼拝はキリスト者に課せられた義務なんかではありません。強いられて行うものではありません。辛いのを我慢して参加するものではありません。喜び勇んで参加するものであります。しかしながら、礼拝に出席することが重荷になっていたり、ただ習慣的に行くことになってしまったりしていないでしょうか。
 
しかし、礼拝はただの楽しみや憩いの場ではありません。心を喜ばせたり、和ませたり、うきうきする気持ちになればよいというものではありません。礼拝は神様と真剣に向き合う場であります。悔い改めや生き方の変更を求められる場でもあります。それは、ある意味では苦しいこと、辛いことであります。しかし、辛くても神様の御心に従うところに本当の喜びがあります。そのような真剣に神様と向き合う場になっていないということかもしれません。
 
では、どうすれば、私たちの礼拝を喜びの場とすることが出来るのでしょうか。どうすれば神様との真剣な出会いの場となるのか。――これは誰よりも牧師が取り組まなければならない課題であります。牧師が喜びをもって御言葉を語るなら、その喜びは聞く人に伝わる筈であります。また、聞く人に分かりやすく、聞く人の問題意識にフィットした内容を語るのでなければ、福音の喜びも伝わり難いでしょう。そこにも牧師の大きな課題があります。しかし、説教というのは、語る説教者が一方的に行うもので、聞き手は完全に受身かというと、そうではありません。説教は、語り手と聞き手の両方で造り上げるものです。聞き手の方にも、それなりの準備と心構えが必要であります。また、礼拝は説教だけではありません。礼拝の最初から終わりまでの全てのプログラムの中で神様に向き合いつつ、神様の御心を知り、応答をし、賛美へと導かれるのであります。ですから、説教の内容の改善・改革は最も重要ですが、それだけでなく、礼拝のすべての要素について、喜びの礼拝に向けての改善・改革が課題となるのであります。米子伝道所では松下先生の時代に、礼拝の構成要素について皆で学習して改定が行われたようですが、その時に定まった礼拝順序をこれまで踏襲して来ました。しかし、日本キリスト教会の「信仰と制度に関する委員会」が新しい礼拝順序を提示していますし、全く新しい礼拝形式を試みている教会もあります。先日の第62回日本キリスト教会大会の前日に「全国教職者会」があり、関西学院大学の中道基夫先生をお招きして「礼拝の改革・教会の改革」をテーマにしたお話を聞きました。色々な改革の試みがなされている事例の紹介もありました。日本の教会は明治時代に宣教師たちに教えられた礼拝形式を踏襲している教会が多いが、他国では時代と共に変化しているというお話も聞きました。時代の風潮や若い人の好みに迎合する必要はありませんが、現代に生きている人間が神様と真剣に向き合うためには、それに相応しいあり方に変えて行く必要があるのは当然かもしれません。そういうわけで今年は、喜びの礼拝に向けて礼拝をどのように改革すればよいのか、ということを、共に学び考え、少しでも良い方向に改革できればと考えています。
 
そこで今日は今年の主題聖句であります詩編100編の御言葉から、そもそも礼拝とは何か、またどのようにして「喜びの礼拝」となるのかということについて、基本的なことを教えられたいと思います。

1.全地よ

さて、初めに、全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ、と呼びかけられています。ここで「全地よ」と言われていることに注目したいと思います。「全地」とは、神様に創造されたすべてのものを指します。特別に選ばれた者に呼びかけられているのではありません。イスラエルの民だけでなく、異教の神々を礼拝している人たちも呼びかけられているのです。真の神様に対する信仰を持っていない人々にも呼びかけられているのです。
 
この呼びかけから聴き取らねばならない第一のことは、神様は全ての人が喜びの礼拝に参加することを望んでおられる、ということであります。キリスト者だけが呼びかけられているのではありません。今、信仰の世界とは別の世界で生きている人も、今年、初詣で神社に行っている人も、また、あの人はキリスト教の信仰を持つことはないだろうと思われる人も、そして、あの人はもう教会に来て欲しくないと思ってしまうような人にも、呼びかけられているということであります。私たちが勝手に、喜びの礼拝に加えられるべき人とそうでない人を区別してはならない、ということであります。この伝道所が開設されてから20年の間に、延べ何人の人が礼拝にやって来たでしょうか。少なくても百数十人はいるのではないかと思います。そのうち、もう二度と礼拝に来ないのではないかと、頭の中から切り捨てている人が多くあります。しかし、神様はそういう人も、もう一度、礼拝に帰って来て、喜びの叫びをあげることを望んでおられるのであります。また、先祖伝来の宗教の中に生きている人たちが私たちの周りには多くいて、それを捨ててキリスト教に回心することは無理だと思われるのですが、神様はそうした人々にも呼びかけておられるということであります。それも、空しく呼びかけておられるだけということではありません。「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るために」、(ヨハネ316)今も救いの御手を差し伸べ続けておられるのであります。だとすれば、私たちが勝手に、共に喜びの礼拝をする相手を絞ってはいけないということです。そして、私たちもまた、この詩編の詩人に声を合わせて、「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」との呼びかけを、私たちの周りの全ての人に伝えなければならないし、そのために祈らなければならない、ということであります。
 
この呼びかけから聴き取らねばならないもう一つの大切なことがあります。それは、私たち自身もこの呼びかけの対象である、ということであります。この呼びかけは、まだ信仰を持っていない人や、礼拝から遠ざかってしまっている人にだけ向けて呼びかけられているのではありません。「全地よ」と呼びかけられています。礼拝に来ていない人だけでなく、忠実に礼拝を守っている人にも呼びかけられているのです。<あなたは、喜びの礼拝を捧げていますか>、<久しく喜びの礼拝とは言い難い礼拝をしているのではありませんか>と問われているのであります。そして、<神様はそのようなあなたが、喜びの叫びをあげることを望んでおられるのですよ>と呼びかけているのであります。神様はただ単に期待しておられるということではありません。深い愛をもって、また強い御手をもって、私たちを喜びの礼拝へと招き入れようとしておられるのであります。
 
ですから、今このような礼拝に来ていない人や礼拝から遠ざかっている人と、曲りなりにも礼拝に来ている私たちとは同じ課題を抱えていて、神様は同じように、喜びの叫びをあげることへと招こうとしておられるということであります。それも手ぶらで招いておられるのではありません。神様は豊かな喜びの材料を用意して、私たちに「喜びの叫びをあげよ」と言って下さっているのであります。そして、私たち自身が喜びの叫びをあげることが出来るならば、当然のように、今礼拝に来ていない人たちにも喜びを分かつことが出来るし、一緒に喜びの叫びをあげることができるようになる、ということであります。

2.礼拝とは――主に仕え、御前に進み出る

次に、2節の言葉に耳を傾けましょう。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ、と言われています。この中の「喜び祝い」と「喜び歌って」は、さきほどの1節の「喜びの叫びをあげよ」の言い換えと読むこともできますが、ここには更に、「主に仕え」「御前に進み出よ」と呼びかけられています。礼拝というのは、喜びの叫びをあげ、祝い、歌うことであるととともに、主に仕えることであり、御前に進み出ることだ、と言っていると読み取ることが出来ます。
 
「主に仕える」とはどういうことでしょうか。主に仕えるとは、奴隷が主人に仕えるように、王として君臨される神に仕えるということです。そして、他の主人、他の神々に仕えたり服従したりすることから離れるということです。他の主人とは、真の神様以外の神様ということですが、それは宗教上の神や仏のことだけではありません。私たちの生活の中で様々なものが神になったり王になったりして私たちを支配しようとします。私たちは真の神様以外のものから喜びを得たり安心を与えられたりしようといたします。それらの方が目に見える喜びを与えてくれるように思ってしまいます。「主に仕える」とはそうしたものに自分の存在や命や時間をかけることから離れて、主のもとに自分の存在をかけ、命を託し、時間を献げるということであります。パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っております。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ121)。
 
ここではまた、「御前に進み出よ」とも言われています。これは具体的に王の前、主の御前に進み出ることであります。旧約で言えば神殿に詣でること、今で言えば教会へ足を運び、礼拝に出席することであります。礼拝に出るということは、他の神々にではなく、真の神の前にぬかずくということであり、具体的に主人を選び取るという行為のことであります。礼拝をするということは、いくつかの頼み甲斐のあるものの一つに礼を尽くしておくということではありません。礼拝とは、本当に頼み甲斐のある唯一のお方に自分を委ねるという行為であります。
 
しかしここで間違ってはなりません。神様は私たちが礼拝しないと王であり主であることが出来ないお方ではありません。私たちがお仕えし、お支えしないとその権威を保てないお方ではありません。私たちが御前に進み出て、他の神々を排除しないと世界を御支配できないお方ではありません。他の神々を拝んだり、捨てきれないでいる人に対しては手をこまねいていることしか出来ないお方ではありません。「全地よ」と呼びかけられていました。全てのものが神様の御支配のもとにあります。そのことを知っている人も知らない人も、そのことを受け入れている人も、まだ受け入れられないでいる人も、全ての人が神様の御支配のもとにあるのだから、主に仕えなさい、御前に進み出なさい、と呼びかけられているのであります。礼拝とは、そのような呼びかけを受け入れ、御前に具体的に進み出ることであります。
 
しかしながら、私たちはそのような呼びかけを受けただけで、それにすぐ従うような素直さを持っているのでしょうか。たとえ形だけは礼拝の場に進み出ていたとしても、心から神様を礼拝出来ているのでしょうか。私たち自身の状態や私たちの周りの人の現実を見るならば、心からの喜びに満ちた礼拝の実現というのは、それほど簡単なものではありません。私たちが少し心を入れ替えればよいとか、思い切って決断をすれば可能であるというものではありません。心を閉ざしている人に対して頻繁に呼びかけたり、足しげく誘う努力をすれば、礼拝に来ていただけるということでもありません。何が足りないのでしょうか。何が更に必要なのでしょうか。私たちの決断や、呼びかけや誘い掛けが必要でないということではありません。しかし、それだけでは喜びの礼拝は実現しないのです。更に3節以下の呼びかけに耳を傾ける必要があります。

3.知れ、救いの御業を

3節では、知れ、主こそ神であると、と言われています。「主こそ神である」と知らなければならない、ということであります。「主こそ神である」という言い方は、旧約聖書で大切にされている言い方の一つで、例えば申命記でモーセがイスラエルの民に与えた警告の中で、「あなたは、主こそ神であり、ほかの神はいないということを示され、知るに至った」(申命記435)と言われていますし、預言者イザヤも「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない」(イザヤ4521)と言っていて、神の独一性を示す言い方であります。では、どうすれば「主こそ神である」という神の独一性を知ることが出来るのか。続けて、私たちが知るべき三つのことが挙げられています。
 
第一は、主は私たちを造られた、ということであります。神が私たちを造られたということを当たり前のことと受け取ってはならないでしょう。創世記の初めにありますように、「神はご自分にかたどって人を創造され」ました(創世記127)。ということは神と向き合う存在、神と語り合い、心が通じ合う存在として造られた、ということであります。そのことは、創造の初めだけのことではありません。人間はしばしばそのことを忘れて神様から顔を背けてしまったり、神様の許から逃げ出したりしてしまうのでありますが、神様の方は人間を求め続け、向き合い続けて下さったのであります。そのことが、その次の第二、第三のことに述べられています。
 
第二は、わたしたちは主のもの、その民、と言われています。神はイスラエルの民を選んで彼らと契約を結んで、彼らを守り導かれました。そこには長い歴史があります。イスラエルの民は神の選びと導きの下にありながら、神を信頼せずに不平を言い続け、何度も神の戒めに背きましたが、神様は初めの約束を破られることはありませんでした。その歴史の重みは旧約聖書によって知ることが出来ます。真の神は人間が考え出したものではありません。頼りない人間の拠り所として造りだしたものではありません。歴史の中に生きて働いて来られ、今も働いておられるお方であります。
 
第三に、主に養われる羊の群れ、と言われています。これは第二のことの別の表現で、旧約聖書の中では、詩編23編の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編231)のように、しばしば述べられていることでありますが、新約聖書では主イエス自身が、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ1011)と言われ、更に、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(1014)と言っておられるのは御承知の通りであります。ここには迷い出る羊のために御子の命をも惜しまれない神の愛が示されています。そしてそのような羊飼いのことを羊が知っているように、神の民も知っていると言われているのであります。神と造られた私たちとの関係はそういう間柄なのであります。
 
そして、このような創造の初めからの神様との深い関係を知るならば、主なる神に向かって喜びの叫びをあげ、喜び祝い、喜び歌わざるを得ないではないか、ということであります。喜びの叫びは、神の要求だからやむを得ずあげるものではありません。礼拝は神に対する人間の義務だからするのではありません。私たちの背きにもかかわらず神が探し求めて下さるその愛に気づくことによって、自然に湧き上がってくるものであります。神が私たちを礼拝に赴かざるを得ないようにされるのであります。そして、神が私たちの唇を開いて下さるので、喜びの叫びが出て来るのであります。

4.主の慈しみと真実

喜びの礼拝への呼びかけは更に続きます。4節です。感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ感謝をささげ、御名をたたえよ、と呼びかけられています。ここで「主の門」というのは、エルサレム神殿の門のことで、そこを入ると「主の庭」と呼ばれる前庭があります。イスラエルの人々はここで至聖所と呼ばれるところに臨在される神に礼拝を捧げます。その礼拝場所である前庭へと進んで入るように呼びかけられています。その礼拝場所とは今は教会であります。そこに招き入れられているのであります。
 
神殿の前庭に入るには、資格が要るわけではありません。礼拝が出来るための自己改革が求められているわけではありません。今年の目標は私たちの礼拝が「喜びの礼拝」になるということですが、そのためには私たちが研鑽を積んで礼拝に相応しい者に変わらなければならない、ということではありませんし、礼拝の形式や内容を改革すれば喜びの礼拝になる、ということでもありません。もちろん、研鑽もしたいと思いますし、礼拝の改革も検討したいと思いますが、そういうことが出来れば「喜びの礼拝」が可能になるというように考えるならば、それは間違いでしょう。礼拝の改革は神様御自身がなさって下さることであります。私たちはただ神様によって改革された者として、神様の招きに応じて、前庭に進み出るだけでよいのであります。
 
なぜそう言えるのか。原文では5節の頭に、「なぜなら」という言葉がついています。私たちが前庭に進み出て喜びの礼拝が出来る理由が5節に述べられているのです。それは、主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶからだ、ということであります。
 
「主は恵み深く」と言われている「恵み深い」という言葉は、「良い」とか「美しい」ということを意味する言葉であります。神様が良いお方であり、素晴らしいお方なのであります。私たちが良い人間になると神様の前に進み出る資格が出来るのではありません。また、「慈しみはとこしえに」と言われています。この「慈しみ」という言葉は契約に基づく真実な愛を表す言葉であります。神様はイスラエルの民の歴史の中でその真実な愛を示して来られました。その慈しみは今も、これからも変わることなく、永遠に続くと言われているのであります。「神の真実は代々に及ぶ」ということも同様のことでありますが、この「真実」という言葉は「信仰」とも訳されます。人間の信仰は揺らぎます。だから神様を礼拝する心も揺らぎがちであります。しかし、神様の私たち一人ひとりに対する真実は揺らぎません。この神様の真実によって私たちの真実・私たちの信仰が支えられ、喜びの礼拝を続けることが可能となるのであります。私たちに求められていることは、この神様の真実から来る呼びかけに応えて、主の門、主の庭に進み出るだけであります。

結.喜びの叫びをあげよ

今年、私たちは、ここで行われる礼拝が「喜びの礼拝」となることを目標として掲げています。これまでの礼拝に喜びが不足している、あるいは喜びが欠けていると思われるからであり、喜びに溢れる礼拝が出来るようになれば、礼拝から遠ざかっている人も礼拝に立ち返るようになるし、洗礼を躊躇している求道者の方々も決心へと導かれるに違いないと思うからであります。しかし、今日の御言葉から聴き取ったことは、「喜びの礼拝」は私たちが創り出すものではないということであります。私たちが努力し、研鑽し、心がけを改めれば出来るということではなくて、既に神様がイスラエルの歴史を通して、そして2000年の教会の歩みを通して表してこられた変わることのない慈しみ、特に、イエス・キリストによって示された救いの御業によって知られるその真実、――その神の真実が「喜びの礼拝」を創り出して下さるのであります。神様の真実は変わりません。私たちは神様の呼びかけに応じて、主の門に進み出るだけでよいのです。すると私たちは御言葉と聖霊の導きによって神様の真実に出会うことが出来ます。そして自然に、感謝が溢れ、心に喜びが満たされます。今日、一年の最初の礼拝に出席した私たちは、その喜びに招かれているのであります。
 
感謝して祈りましょう。

祈  り

恵みと慈しみに満ちた父なる神様!
 
新しい年を迎え、期待と不安を抱きながら御前に参りましたが、今、御言葉によって、私たちを喜びの叫びへと導き給うのが、あなたの変わらざる恵みと真実であることを覚えることが出来まして、感謝いたします。
 
私たちの中には喜びの根拠は乏しく、むしろあなたを悲しませることの多いことを思います。どうか、自分の場所に留まることなく、あなたが備えて下さっている喜びの庭へと、足を進めるものとならせて下さい。どうか、羊飼いである主イエス・キリストの羊であるところのこの群れの一人ひとりに、聖霊を豊に注いで、お導き下さい。そして、一人残らず、喜びの叫びをあげる者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 新年礼拝説教<全原稿> 2013年1月6日  山本 清牧師 

 聖  書:詩編100:1−5
 説教題:「
喜びの礼拝」         説教リストに戻る