イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当り前だということを、知らなかったのですか。」                   (ルカによる福音書249   福音書で主イエスの少年時代のことが書かれているのは、12歳になった時の過越祭にエルサレムへ行った記事だけである。少年時代について様々の言い伝えがあった中で、この記事だけを残したのには理由がある。
 第一の理由は、ユダヤでは12歳で一人前になると考えられていたが、主イエスが一人の人間として、律法の定めに従って過越祭に参加されたからである。主イエスが来られたのは、律法に背いて罪の状態にある人間を救うためである。そうであれば、自らも人間として律法に対して責任ある生き方をしていなければ、人々を律法から解放することは出来ない。
 第二の理由はこうである。過越祭からの帰路、主イエスがエルサレムに残っておられたのに両親が一日分の道のりを行ってしまい、親類や知人の間を捜し回ったが見つからず、三日の後にやっと神殿の境内で学者たちから話を聞いたり質問しておられるのを見つけた時に、母マリアが「なぜこんなことをしてくれたのですか。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言うと、主イエスは標記のように言われて、神殿のことを「自分の父の家」とされた。両親は主イエスを自分の手の内にある普通の子として扱ったが、神の子であることを思い起こさねばならなかった。「父の家」の原文は「父の事柄」であり、神の子として最も相応しいこと、当然すべきこととして、神の言葉である律法を教師たちから学んでおられたのである。この記事は、主イエスが幼い頃から学者たちと対等に論じ合えるほど賢かったことを示すために挿入されたのではなく、主イエスが救いの業を為すお方として、神の言葉に聴き従うという当然のことをされていたことを示そうとしたのである。ところが、両親はそのことに気付かず、違う所を捜していた。私たちも、主イエスを見当違いの所に求めていないかを問われる。私たちが主イエスに出会うことが出来るのも、現代の神殿である教会において、礼拝の中で御言葉を聴くことによる以外にはないことを福音書は告げようとしているのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年12月30日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:41−52 説教題:「父の家にいる喜び」         説教リストに戻る