序.主イエスはどこに?

今日与えられた聖書の箇所には、主イエスが12歳になられた時に、エルサレムへ上られた際の出来事が書かれています。
 
ところで、聖書には四つの福音書があって、それらには主イエスの御生涯のことが書いてあるのですが、子供の頃のことはあまり書いてありません。私たちがクリスマスに聞きますイエス様の誕生の様子はマタイ福音書とルカ福音書に書かれていますが、子供の頃のことが書かれているのは、今日の箇所だけであります。一般の偉人の伝記などでありますならば、その人の子供の頃のことを出来るだけ詳しく調べて書くでありましょう。それは、その人がどんな育ち方をして立派な人間になって行ったかを誰でも知りたいからであります。ところが、聖書には、主イエスが小さい頃からこんなに賢かったとか、こんなによい性格をもっておられたとか、こんな教育を受けて育てられたとか、小さい頃から神童と言われるような不思議な力を持っておられた、というような話は出てこないのであります。それは、聖書は普通の伝記とは違うからであります。聖書というのは、神様が主イエスを通して私たちのためにどんなことをして下さったかを知らせるのを目的に書かれた書物であります。言い換えると、キリストの福音を伝えるために書かれた書物であります。ですから、主イエスの福音と関係のないことは書かれていないのであります。もっとも、「外典」と呼ばれる聖書以外の書物の中には、主イエスの子供の時のことを書いたものも少なくなくて、たとえば、子供のイエス様が、土で鳥を作って息を吹きかけたら、それが飛んで行った、というような話があります。イエス様は子供の頃から奇跡を起こされた、というたぐいの話です。ところが聖書にはそういう話は取り入れられていないのです。なぜなら、福音を伝えるのに必要がないし、反って読む人々に誤解を与えかねないからであります。直前の40節に「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とあります。それだけでよいのです。
 
その中で、今日の箇所だけが子供の頃のことを取り上げているのは、ここに書かれた出来事の中に、主イエスの福音を知るために大切なことが含まれているためであります。今日の箇所の中に、イエス様が神殿の境内で学者たちと話しておられた場面が出て来ます。このことについては後ほどお話しますが、それが書かれているのは、イエス様がまだ12歳の子供であるのに学者たちと議論するほど賢かった、ということを言うのが主な目的ではありません。今日の箇所で一番大事なのは、49節にあるイエス様の言葉であります。こう言っておられます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と。つまり、主イエスは本来おられるべきところにおられたのに、ご両親は別のところを捜していたということです。このことから、私たちにも問いかけられています。「あなたがたは主イエスがどこにいらっしゃると思って捜しているか」という問いであります。言い換えれば、「主イエスに何を期待しているか」という問いであります。私たちは主イエスに対して誤った期待をしていないか、見当はずれのことを求めていないか、という問いかけであります。この点がぶれると、キリスト者としてのあり方がぶれてしまいます。礼拝生活がぶれてしまうのであります。46,47節に、イエス様が学者たちと話をしておられるのを聞いていた人たちがイエスの賢い受け答えに驚いていたということが書いてあります。もし、この部分にだけ感心していたとするなら、それは主イエスに見当はずれのことを期待していることになります。主イエスは賢いお方には違いありませんが、私たちは主イエスが賢いから尊敬したり、主イエスから何かを得ようとするのではありません。では、主イエスはどこにおられるのでしょうか。主イエスは私たちに何を与えようとしておられるのでしょうか。今日はそのことをこの箇所から聴き取りたいと思うのであります。そして聖書が伝えようとしている福音に与かりたいと願っています。

1.祭の慣習に従って

さて、今日の箇所の最初の41,42節を御覧下さい。さて、両親は過越祭に毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った、とあります。ユダヤ人は律法に従って日々の生活を営んでおりました。申命記(1616)によりますと、成人した男子は年に三度、すなわち過越祭と七週祭と仮庵祭に主の御前に出ねばならないと定められています。しかし、遠隔地に住んでいる人は年に三回もエルサレムまで行くことは出来ませんので、過越祭だけ行くようになっていたようで、主イエスの両親も毎年過越祭にはエルサレムに上っておられたようです。この年は主イエスが十二歳になられたということで、特別な年でありました。というのは、ユダヤでは十二歳で一人前になると考えられていたからです。ユダヤで一人前になるということは、聖書に教えられた律法の掟に責任を持つようになる、ということを意味しました。神様の御心に従って、責任をもって生きるということであります。そのようなユダヤの掟に従って、主イエスがエルサレムの神殿に行かれたということは、主イエスが一人の人間として、神様の律法に従う歩みをされた、ということを表わしているのであります。
 
主イエスが何のために一人の人間としてこの世に来られたのかと言えば、それは、救い主として来られたのであります。人間を救うというのは、人間が神様の律法を守ることが出来ず、神様の御心に反してばかりいること、すなわち罪の状態にあることから救い出すということです。つまり人間が神様に対する責任を正しく行使していないことから救うためであります。そうであれば、救い主は人間に与えられた律法の下に生まれ、その律法に背いている人間の問題を、自分も、その下にありながら解決しなければならないはずであります。主イエスがもし、律法に縛られずに、自由に振舞われたのであれば、私たちとは別の世界に住む、私たちとは関係のないお方になってしまって、私たちを律法から解放し、罪から救って下さるお方ではないことになってしまいます。主イエスは神の子でありつつ、人間として、律法に従って地上の生活をされました。だからこそ、私たちを律法から解放できるのであります。主イエスが十二歳になった過越祭に神殿に行かれたということは、主イエスの御生涯が、一人の人間として、律法に従って歩まれた御生涯であるということを表わしているのであります。このことは救いの福音が成立する大事な前提であります。
 
神殿へ行くというのは、もちろん神様を礼拝するためであります。それは、自分たちの罪を悔い改め、犠牲の献げ物をすることによって罪が赦されることを覚えて、自分たちの生活の全部が神様の恵みとお支えの下にあることを知るためであります。主イエスは罪を犯されることはありませんでしたが、罪人の一人として、律法に従って神殿に行き、礼拝を捧げられたのであります。それは、律法からの自由を、私たちに与えて下さるためであります。ルカ福音書が主イエスの十二歳の時に神殿に行かれたことを書いたのは、このことをはっきりさせるためであります。
 
主イエスの御両親は信仰の篤い人でしたから、何のために神殿に行くのかということは、よく分かっておられたはずであります。しかし、主イエスがどのようなお方なのか、主イエスにとって神殿に行くということにどういう意味があるのかということについては、お分かりになっていなかったのでしょう。今日の聖書の箇所に書かれている一つの事件――イエス様がはぐれてしまうという出来事で、主イエスの考えておられたことと、御両親の思いとの間の違いがはっきりしました。聖書は、その事件を通して、主イエスがどのようなお方であるかを、私たちに示そうとしています。主イエスは神の子であります。その神の子が十二歳になって、他の子たちと同じように神殿に上られたのは、律法の下にある一人の人間として、責任ある生き方を始められたということなのであります。

2.捜し回った両親

さて、その事件は祭りの期間が終わって帰路についたときに起こりました。エルサレムからナザレの村までは100km以上ありますから、歩いて3日くらいかかります。同じナザレから行った大勢の人たちは一団となって旅をしたのだと思われます。男の人たちの組と女の人たちの組は別々に歩いたようですから、マリアはイエス様がお父さんのヨセフさんと一緒に歩いていると思い、お父さんの方は、まだ子供のイエス様だからお母さんと一緒に違いないと思っていたのでしょう。そのために、側にイエス様がいないことで心配もせずに一日分の道のりを行ってしまい、夕方になって、泊まる場所に着いた時に、はじめてイエス様がいないことに気付いたのであります。
 
御両親はあちこち捜し回りました。44節には、親類や知人の間を捜しまわったが、見つからなかった、と書いてあります。誰か親しい人と一緒にいるにちがいない、と思うのは当然です。誰かイエス様の姿を見かけなかったかを必死で聞き回ったことでしょう。それでも見つからないので、途中ではぐれたか、エルサレムで大勢の人混みの中で迷子になってしまったかもしれないと思って、捜しながらエルサレムに引き返しました。引き返すのに1日かかって、次の日も町の中を捜し回りましたが見つかりません。そしてやっと、三日の後に、イエス様が神殿の境内におられるのを見つけました。両親にとって、全く思いがけないところにおられたのであります。
 
48節にイエス様を見つけたときの母親マリアの言葉が書かれています。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」このお母さんの気持ちはよく分かりますね。勝手な行動をとった子供を叱りつける言い方です。「御覧なさい」と言っています。<心配して捜し回った親の気持ちを考えてみなさい>ということであります。主イエスがなぜそこにいたのかを問う前に、自分たちのことを言っております。こういう言い方は私たちもよくすることです。子供を思う心を持ちながらも、自分たちの苦労のことを分かってほしいと思うのであります。

3.神殿で話を聞くイエス

ところでイエス様は神殿で何をしておられたのでしょう。46節には、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた、とあります。ここで「話」というのは、もちろん聖書の話です。聖書に書かれていることについて一生懸命に聞いて、質問もしておられたというのです。しかしこれは、先程も申しましたように、イエス様がまだ子供なのに、学者たちと議論を交わすほどに賢かったということを示そうとしているのではありません。「学者たちの真ん中に座り」と書かれていますが、この「座り」という言葉には特別な意味があって、これは掟を学ぶ者の姿勢を表わす言葉なのです。この福音書の10章にマルタとマリア姉妹の話が出て来ますが、そこでは妹のマリアの方は主イエスの足もとに「座って」、主の話に聞き入っていたと書かれています。ここでもイエス様は学者と議論をしておられたのではなくて、神様の言葉を聞き取ろうとしておられたということであります。子供なのに学者たちと対等に話をしていたということではなくて、十二歳になって、神様の律法に対して責任を持つ立場に立たれて、律法の言葉にしっかりと耳を傾けようとしておられる姿を描いているのであります。
 
47節を見ると、聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた、とありますから、もちろんイエス様の賢さは際立っていたのかもしれませんが、それはむしろイエス様が御言葉を聞き取ることに真剣であられたことを表わしていると受け止めるべきでしょう。イエス様は、ただお祭りに連れられて来たのではなくて、御言葉を聞き、律法に従う生活を始められることに集中しておられたのであります。そのことに人々は驚いたのであります。

4.父の家にいるのは当たり前

人々の驚きは今申したことによることなのですが、48節では両親もイエスを見て驚いたことが書かれています。両親もイエス様の受け答えを聞いていたのなら人々と同じ驚きを覚えたということかもしれませんが、むしろそこにイエス様を発見したことの驚きであると考えられます。普通の十二歳の子であれば、神殿で学者たちから話を聞いたりしなかったかもしれません。だから、イエス様も神殿にいるとは考えなかったので、見つけるのが遅かったのでしょう。まさかと思いつつ来てみたら、そこにイエス様の姿があったので驚いたのでしょう。それで先ほど触れた48節のマリアの言葉があるわけです。
 
それに対して主イエスはこう言われました。もう一度49節の言葉を聴きましょう。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」―この言葉は福音書に記されている主イエスの最初の言葉です。
 
この言葉でまず気付くことは、神様のことを「自分の父」と呼んでおられることです。イエス様の父と言えば、普通に考えればヨセフであります。それなのに、ここで「自分の父」と言っておられるのは、明らかに天の父なる神様であります。これはマリアが「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と言った直後の言葉であるだけに一層際立って聞こえたに違いありません。これには居合わせた人々も驚いたかもしれませんが、ヨセフが一番驚いたのではないでしょうか。ヨセフはイエス様の誕生以前に天使から「インマヌエル」と呼ばれる救い主が生まれるという知らせを受けてはいました。しかし今、本人が神の子としての自覚があることに驚きを禁じないではおれなかったことでしょう。50節には、しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった、と書かれています。両親は主イエスの誕生の時の様々の出来事を忘れていたわけではないでしょうが、12歳になるまで育ててきて、イエス様は自分たちの手の内にある普通の子だと思い込んでしまっていたのでしょう。しかし、主イエスはそのような人ではないことをもう一度思い起こさなければなりませんでした。確かに主イエスは一人の人間として律法にも従順に従おうとされるお方でありますが、神の子として地上に来られたお方であることを知らなければなりません。これは、ご両親ばかりでなく、私たちも思い起こすべき事柄であります。私たちは信仰告白の中で、「イエス・キリストは、真の神であり真の人です」と告白しておりますが、正にそのことがここで示されているのであります。
 
次に、49節の主イエスの言葉で述べておかなければならないもう一つのことがあります。ここで主イエスは神殿のことを「自分の父の家」と呼ばれたわけですが、原文には「家」に当たる語はなくて、普通なら「父の事柄」あるいは「父に属すること」と言った方がよい言い方でして、それでは文章になりませんから、外国の訳では、「父の業」とか「父の仕事」と訳しています。つまり、主イエスは<父なる神に属する者として相応しい事柄をしている>というような意味でおっしゃったのであります。神殿とは、神に属する者に相応しいことが行われる場所でありますから、ここを「父の家」と訳したのは間違いではありませんし、適切な訳であるとも言えるのですが、主イエスは正に、神の子として、最も相応しいこと、当然なすべきこととして、神の言葉である律法を学んでおられたということであります。
 
「自分の父の家にいるのは当たり前」と言っておられます。口語訳聖書では「自分の父の家にいるはずのことを」と訳されていました。いずれにしろ、必然性を表わす言葉であります。主イエスにとって、神殿において神様の言葉を聴くということは最も自然なことであり、救いの御業を為すお方として当然のことなのであります。主イエスがエルサレムに上られたのも、このように神様の言葉を聴いて、神様の御心を知り、礼拝するためでありました。主イエスはそのことを一生懸命にされていたのであります。
 
ところが、御両親はそのことを忘れて、違う所を捜していました。イエス様は普通の子のように、お祭の楽しい所におられたり、友達と一緒に遊んだりしておられなかったのであります。主イエスには、神様の御言葉に従ってされなければならない大切なことがありました。そのことを当り前のようにしておられたのであります。そして、主イエスの御生涯は、十字架に至るまで神様の御心に従われることになるのであります。聖書はそのことをここで語りたいのであります。

結.私たちの居場所

主イエスの御両親は、そのことを忘れて主イエスを別の所に捜してしまいました。だから、なかなか見付けることが出来ませんでした。
 
では、私たちはどうでしょうか。私たちもこの主イエスを見失って、違う所を捜しているということはないでしょうか。
 
私たちは主イエスを書物の中に求めても見出すことは出来ません。社会や隣人のために良い働きをしている人の中に主イエスの姿を求めても、そこには主イエスのお姿を反映している部分があるとしても、そこで主イエス御自身にお会いできるわけではありません。教会のために熱心に奉仕している人の中にさえ主イエスを見出すことは出来ません。主イエス・キリストとは礼拝の中で、御言葉においてこそ出会うことが出来るのであります。神様の御言葉に従って罪の贖いとなられた主イエスの救いの御業を知ることによってこそ、キリストなる主イエスにお会いできるのであります。
 
御両親がようやく見つけ出した主イエスの居場所は神殿でありました。私たちが主イエスに出会うのも、現代の神殿である教会であります。教会の礼拝においてであります。ですから、聖書を読んでいるから礼拝に行かなくても大丈夫とか、お祈りをしているから教会で祈らなくてもよいということにはなりません。主イエス御自身がされたように、教会で御言葉の説き明かしを聴くことによってこそ、神様と向き合うことになるのであります。神殿が主イエスの居場所であったように、私たちがキリストに出会い、神様と結ばれる場所、私たちの居場所は他でもなく教会であります。
 
主イエスの御両親は、主イエスに出会って、イエス様のお言葉によって初めて、自分たちが見当はずれの所を捜していたことに気付かされました。私たちもまた、主イエスがおられるべき所で、主イエスのお言葉を聴くことによって、自分が見当はずれの所を捜していた過ちに気付かされ、罪からの解放と真の安心へと導かれるのであります。主イエスは今日も私たちに向かって、「わたしが父の家にいるのは当り前だということを、知らなかったのですか」とおっしゃって、私たちを神様に出会わそうとしていて下さるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 
今年最後の礼拝にお招き下さり、あなたの御言葉の前におられた主イエス・キリストのお姿を通して、私たちの居場所がこの場所にあることを示して下さいましたことを感謝いたします。
 
どうか、来るべき新しい年も、この場所において御言葉に耳を傾け、あなたに出会う生活を続けることが出来るようにして下さい。健康に不安を覚えております者がいます。様々なこの世に事情や人間的事情から礼拝を離れている者がいます。私たち自身も、自分の本当の居場所を見失なって、礼拝に喜びを感じなくなることがあります。どうか、あなたが聖霊において一人ひとりに相応しく導いて下さり、あなたを捜す先を間違えることがありませんように、このあなたが備えて下さった場所において、あなたと出会う喜びの礼拝を続けることが出来ますようにお願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年12月30日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:41−52
 説教題:「
父の家にいる喜び」         説教リストに戻る