序.クリスマスを迎える喜びがあるか

アドベント(待降節)の第二主日を迎えております。先週の待降節第一主日には、処女マリアが身ごもったことを天使ガブリエルから知らされた場面によって御言葉を聴きました。マリアは戸惑い考え込まざるを得ない知らせでありましたが、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。・・・神に出来ないことは何一つない」との言葉を聞いて、マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、神様の御手に委ねたのでありました。それは大きな奇跡であります。処女が身ごもったということも奇跡ですが、天使の言った言葉をマリアが信じたということは、もっと大きい奇跡だと言ってよいのではないでしょうか。
 
今日与えられておりますのは、46節以下の「マリアの賛歌」と呼ばれている箇所であります。この賛歌は、マリアが、彼女より6ヶ月早く身ごもったエリサベトの家を訪問した時に、喜びのうちに歌ったものだとされています。最初の47節で、こう歌っております。わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。ルターが「マリアの賛歌」について書いたものの中で、「人間の魂が主をあがめるということが起こる場合、それは神の業である」と言っております。マリアがこのような賛歌を歌ったことも、一つの奇跡であって、人間の業というよりも神の業としか言えないということであります。マリアはこのような賛歌を歌って、主イエスの誕生に備えることが出来たのであります。また、マリアは「救い主である神を喜びたたえます」と言っております。彼女は、天使の言葉を信じただけではなくて、もうその言葉が実現したかのように喜んでいるのであります。私たちは礼拝において、讃美歌を歌って神様をあがめます。けれども、私たちの魂(心)は神様をあがめているでしょうか。また私たちの霊(心)は喜びに溢れていると言えるでしょうか。私たちはこの待降節に心から主の御降誕を待ち望んでいるのだろうか、また心からの喜びをもってクリスマスを迎えようとしているのだろうか。マリアの賛歌に表わされているマリアの心と私たちに心情の間には大きな落差があるのではないか。そのことをマリアの賛歌は私たちに問いかけているように思います。――そこで今日は、マリアの賛歌を通して、少しでもマリアの喜びに近づきたいと思います。マリアに湧き上がった賛美と喜びも神様が起こされた奇跡でありました。神様は私たちにも奇跡を起こして下さるのではないでしょうか。そして、私たちも神様に心からの賛美と喜びの歌を捧げることが出来ることを願っています。

1.胎内の子が喜んでおどる――喜びの交わりの中で

まず、「マリアの賛歌」そのものに入る前に、マリアがエリサベトを訪問したときの様子を見ておきましょう。39節以下の箇所です。ここから既に喜びが始まっています。

男の子を身ごもったという知らせを天使から聞いたマリアは、既に6か月前に身ごもっているというエリサベトのところに急いで出かけました。マリアが住んでいたナザレからエリサベトが住んでいるユダの町まで100キロ以上あると思われます。なぜマリアはそんなに遠くまで出かけたのか。彼女を突き動かしているものは何でしょうか。天使の言ったことを確かめるためではないでしょう。身ごもったかどうかは、しばらく経てばはっきりすることです。あわてて確かめる必要はありません。彼女は天使の言った神様の約束を聞いて信じました。そして同じ約束を受けているエリサベトと喜びを共有したいという気持ちが湧き上がったのではないでしょうか。まだ約束が成就されたわけではありませんが、彼女の心の中には喜びが始まっているのであります。その彼女を突き動かしているのは聖霊の働きであります。
 
聖霊はマリアを突き動かしただけではありません。マリアがエリサベトに挨拶をしますと、エリサベトの胎内の子がおどったというのです。44節では、エリサベトは「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言っております。この時起こっていることは、胎内の赤ん坊が足で蹴ったという普通の現象に過ぎないのかもしれませんが、聖書が「胎内の子がおどった」という表現をするのは、この時起こっていることが普通のことではないからであります。ここで起こっているのは、約束として信じられてきた救いの御業が、現実の出来事になっているからであります。まだ、子供の姿は見えませんし、その子供たち(ヨハネと主イエス)によって神様の救いの御業が行われるのは、もう少し先のことであります。しかし、この時既に、救い主がマリアのお腹の中におられるのであります。そして、神様からの約束の言葉を聞いていた二人は喜びで満たされているのであります。このことを起こしているのは聖霊の働きであります。
 
先週の5日に12月の委員会が行われまして、来年の年間目標と主題聖句を決めました。年間の目標は「喜びの礼拝」といたしました。このことについては新年礼拝で改めて取り上げたいと考えていますが、私たちがこうして毎週行っている礼拝が、参加する者たちにとって、心からの喜びになっているだろうかという反省から、どうすれば喜びの礼拝となるのかということを、1年間考えて行こうという目標であります。しかし、その答えは今日の箇所で既に与えられていると言ってもよいのであります。礼拝の喜びは私たちが造り出すものではありません。マリアとエリサベトの喜びを造り出されたのは神様であり、神様の御心を伝えた天使の言葉であり、それを聞いて受け入れた二人に聖霊の働きがあったからであります。ここでは救いの出来事はまだ目に見える形で現れてはいません。しかし、御言葉を信じた二人のところには、目には見えませんが、お腹の中に既に救い主がおられます。そして二人は喜びを共有しているのであります。このことは、私たちの礼拝の喜びというものを象徴的に示しています。御言葉が語られ、それを聞いて信じるものたちが集まって交わっているところ、即ち教会には、見えない形ではありますが、既に救いの御業が始まっているのであります。そしてそこには、信じた者たちの喜びが聖霊において起こるのであります。これが「喜びの礼拝」であります。

2.主をあがめ、喜ぶ

さて、「マリアの賛歌」そのものに入ります。この賛歌はエリサベトが「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言ったことに応答する形で歌われた賛美であります。御言葉を信じる者たちが集まって交わるところには、このように賛美があります。しかし、信者が集まれば自動的に賛美が起こるというものではありません。礼拝で讃美歌が歌われても、それが心からの賛美になっているとは限りません。奏楽者が美しいオルガンの音を響かせ、会衆が大きな声で歌えば賛美になるというわけではありません。聖書の言葉によって説教が為されたならば、必ず喜びや感謝や賛美が湧き上がるものではありません。冒頭にルターの言葉を紹介して、<賛美が起こるのは人間の業ではなくて、神の業であり、一つの奇跡である>ということを申しました。そのように、私たちの側の心構えや努力次第で賛美に至るというものではありません。神様の側からの働きかけがないと、賛美は起こらないのであります。しかし、神様はマリアやエリサベトに賛美の奇跡を起こされました。神様がなさることは、人の中に賛美を惹き起こすのであります。
 
マリアは47節で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言っております。これは作り物の賛美ではありません。「わたしの魂は」、「わたしの霊は」と言っております。これは、私の全存在、全生活、全人格という意味です。口先だけではなく心からということです。「あがめる」という言葉の語源は「大きくする」という意味をもっています。神様を大きくするということです。ですから、私の全生活の中で神様を大きくてかけがえのない存在とする、ということです。また「救い主である神を喜びたたえます」といっております。神様を喜ぶということは、ただ楽しい、愉快なことがあるということではなくて、神様が「救い主」であるからです。「救い主」とは見捨てられた者を見出して下さるお方、滅びから救い上げて下さるお方という意味です。そこにこそ、本当の喜びがあるのです。

3.目を留めてくださった喜び

48節と49節には、なぜマリアが主をあがめ、喜びたたえるのか、その賛美と喜びの理由が述べられています。まず48節では、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」と言っております。
 
「身分の低い」という語は、文字通り社会的に低い層に属しているという意味です。実際、マリアは低い層に属していたのかもしれません。しかし、社会的に身分の低いことが救われる条件だというように読むのは間違いでしょう。マリアは自分のことを取るに足りない者だと思っていたということです。経済的にだけではなくて、能力的にも、性格的にも、欠けの多い人間で、世の中から尊敬されたり、評価されることがないと自覚していたということでしょう。これはマリアの謙遜さを表わすと理解するのも適切ではないでしょう。マリアは自分でも取るに足りない人間だと思うし、実際、社会的にも評価されることのない人間だったということを表明しているのではないでしょうか。
 
「主のはしため」という言葉は、先週の受胎告知のところでも38節で出て来ましたが、主の奴隷という語です。神様の前では、自分を主張出来る権利が何もないということです。どのように扱われても文句を言えない立場であるということです。自分の愚かさや罪深さをも自覚している言葉であると言えるかもしれません。
 
そのように、何の取り柄もなく、誰からも評価を受けないのが当然であり、神様の前にも胸を張って立つことも出来ない自分に、神様が目を留めて下さった、顧みて下さったということが、神様をあがめ、喜ぶ理由である、ということです。
 
神様は私たちに対しても、このように目を留めて下さるお方であるということであります。神様は出来の良い人間、取り柄のある人間、世間で立派だと評価されている人間に目を留められるのではないし、罪を犯すことのない正しい人間だけを用いられるのではない、ということであります。そのことを知るとき、私たちもマリアとともに、神様をあがめ、喜びたたえることへと導かれるのではないでしょうか。
 
マリアは続けて、「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と述べています。マリアの受けた恵みは、実際、2000年の間、忘れられることはありませんでしたし、これからも語り伝えられるでしょう。同時に、神様が私たちのような者にも目を留めて下さるという恵みの出来事は、いつの世においても語り継ぐ値打ちのあることなのであります。

4.偉大なことをなさった喜び

次に、49節でマリアは、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」と言っております。
 
ここでは、神様がなさった御業そのものについて語っています。御業と言っても、この時点でマリアが主イエスの十字架や復活の御業を知っているわけではありません。天使によって知らされたことは、3233節で述べられていたように、神の子が貧しい人間であるマリアに身ごもって、人間としてお生まれになり、その方が先祖ダビデの王座についてヤコブの家を治めるということ、即ち、神が人間となって、この世を御支配なさり、神の国を建設なさる、ということでありました。そのために、神の子が自分に身ごもったということが、マリアの言う「偉大なこと」の中身であります。これは言い換えれば、28節のところで天使が最初に言った、「主があなたと共におられる」ということであります。神様は正しいお方であり、私たち罪ある人間から遠い存在であります。しかし、そのお方が、人間の中に身ごもり、罪ある人間と共に、人間として地上に生きられるのであります。それは、人間の問題・人間の悩みを遠く高い所から解決するのではなくて、自ら担い、共に悩むためであります。人間のことを、御自分のこととして引き受けて下さるのであります。ここに十字架にまで行き着く愛があります。これが「偉大なこと」なのであります。
 次に、50節では、「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」と言っております。「その憐れみ」とは、48節で言っていた「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」ということと、49節で言っていた「わたしに偉大なことをなさいました」ということを指しています。これらは共に、神様の「憐れみ」から来ることであります。神様がマリアや私たちに目を留めたり、偉大なことをなさる義務を持っておられるわけではありません。また、マリアや私たちが神様の憐れみを受けるだけの値打ちがあるわけではありません。神様はただ、その愛の故に、ただ、その恵みの故に、憐れんで下さるのであります。
 
「代々に限りなく」と言われています。これは「後々まで」という意味です。クリスマスの出来事は、マリアという一個人に起こった出来事ではありませんし、二千年前という一時代に起こった過去の出来事というのでもなくて、「代々に限りなく」続けられ、力を持ち続ける出来事である、ということです。二千年前に主イエスを通して示された神様の「憐れみ」は、今も私たちに与え続けられているし、これからも持ち続けるのであります。今の世界がどんなに暗く、悲惨に見えるとしても、望みを見出すことが困難に思えたとしても、神様が人間を愛し、世を憐れみ、私たち一人一人に関わって下さるということは、変わらないのであります。主イエスは決して過去の偉人ではありません。聖霊において、今も生きて働き給うお方であります。重荷や弱さを負っている私たちの現実の生活の中に降りて来て下さって、その重荷や弱さを共に担って下さるお方であります。

5.高く上げられ、良い物で満たされる喜び

51節から53節には、神様のなさる「偉大なこと」は、単に個人に関わることだけでなく、この世の秩序にも及ぶということが語られています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と言っております。ここには権力の逆転、立場の交代が述べられています。しかしこれは、いわゆる革命や社会改革とは違います。「主はその腕で力を振るい」とある神様の腕の力とは、武力や暴力のことではありませんし、革命思想や政治力のことでもありません。それは主イエス・キリストの十字架によって振るわれる力、愛の力のことであります。この力が振るわれると、思い上がる者は打ち散らされ、権力の座から引き降ろされるのであります。これは一面では厳しいことであります。私たちも思い上がって、誇り高ぶっているなら、引き降ろされるのです、裁きを受けるのであります。自分の力で幸せを確保出来ると思っている者、別に神様に頼らなくても、生きて行けると思っている者、自分は正しいことをしていると思い上がっている者は、引き降ろされるのであります。では、その反対の「身分の低いもの」「飢えた人」とは、どのような人でしょうか。それは、自分の罪に気づき、神様以外に頼るべきものを持たない人、神様の恵みの御言葉に飢えている人のことです。神様はそのような人を、神の国の一員として、救いの御業に参加させて下さり、神様の御支配にあずからせて下さるのであります。それが、52節で「高く上げ」と言われていることであり、53節で「良い物で満たし」と言われていることであります。
 
最後にマリアは、54.55節で、「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」と言って結んでおります。ここでマリアは彼女が属するイスラエルの民の一員に立ち帰っています。イスラエルの先祖たちに語られた救い主の到来の約束を待ち望む人々の群れの一人に帰って、神様の憐れみの約束を確信しています。マリアが信じた約束は、イエス・キリストによって成就されて、今や、イエス・キリストを信じる全ての人に、新しいイスラエルの民として、救いの約束を与えられています。神様は救いの約束を、イエス・キリストによって、より鮮明に、決定的に私たちに示して下さったのでありました。

結.私たちも喜ぶ奇跡

今日の説教の冒頭で、マリアの賛歌は私たちに、<あなたもマリアのように主をあがめ、喜んでいるだろうか>と問いかけているということを申しました。正直言って、私たちは礼拝ごとにマリアのような喜びで満たされているわけではないでしょう。それは、こうして福音を語っている私自身も同様であります。しかし、マリアが喜びで満たされ、賛美の歌を歌うことが出来たのは、マリアが信仰深かったからでも、謙遜な人間だったからでもありません。何の取り柄もなく、むしろ弱さを持つ人間だったからこそ、神様が目を留めて下さって、聖霊が働いた結果に起こされた奇跡であります。そうであれば、神様は私たちにも目を留めて下さらないことはありません。既に、私たちをこうして礼拝に導いていて下さいます。御言葉を語って、喜びへと招いておられます。聖霊も惜しみなく注いで下さっている筈であります。そうであれば、奇跡が起こらない筈はありません。私たちもまた、マリアに合わせて、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌うことが出来るのではないでしょうか。
 
祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!
 マリアの賛歌を通して、私たちのような者をも、マリアと共に待降節の喜びへと召して下さいましたことを感謝いたします。
 
私たちはあなたの恵みを求めつつも、与えられている恵みに気付かず、喜びよりも不満を抱きがちな者でございます。
 
どうか、聖霊が今も豊かに働いていることを信じさせて下さい。どうか、あなたが私たち自身に、またこの教会に目を留めて下さって、大きな御業をなし続けておられることに気付く者とならせて下さい。どうか、私たちの小さな賛美の声をも、あなたが喜びの声として聞き上げて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年12月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:46−56
 説教題:「
マリアの賛歌」         説教リストに戻る