序.待ち望んだ人々の最後に

今日から待降節(アドベント)に入ります。今日与えられておりますルカによる福音書126節以下は、「受胎告知」と呼ばれている箇所で、主イエスの母マリアが天使ガブリエルから、男の子を身ごもったことを告げられる場面であります。普通は一人の男の子を身ごもったというだけで、わざわざ天使が現れて告げ知らせるということはありません。これは特別な受胎でありました。どういう意味で特別であったのか。一つはマリアには婚約中の男性がいましたが、まだ結婚していない処女であったのに受胎したということが特別でありましたが、それ以上に特別なことであるのは、この一人の男の子の誕生というのは、イスラエルの民が長い間待ち望んでいた神様の約束が実現することであったからであります。
 
6月以来の礼拝説教では、旧約聖書に記されているイスラエルの王国の歴史から御言葉を聞いて来ましたが、その中ではっきり示されていたことは、「ダビデの王国の王座をとこしえに堅く据える」という神様の約束でありました。しかしながら、イスラエルの歴代の王と民は様々な過ちを犯してしまいました。最大の過ちは異教の神々を拝んで、真の神様を信頼して礼拝することを怠ったということでありました。そのため、王国は分裂し、大国によって滅ぼされて捕囚の憂き目を見ることになったのであります。しかしそのような中でも、神様はイスラエルの民に対する約束を忘れてしまわれたのではなくて、何とかしてイスラエルの民を悔い改めに導こうとされて、預言者と称される人を遣わして御言葉を語り続けられました。そして、捕囚の地から連れ帰って、破壊されたエルサレムの都と神殿を再建させられるのであります。しかし、ダビデ家の王座が再び据えられることはありませんでした。そうした中で預言者たちが神様の御心として伝えたことは、ダビでの子孫に救い主が誕生するという預言であります。その代表的なものの一つが先ほど司式者によって朗読されたイザヤの預言です。
 
イザヤ書9章の56節をもう一度読んでみましょう。
 
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
 
このような神様の約束がマリアの受胎という形で実現するということを伝えるために、天使がマリアのところに現れたのであります。マタイ福音書によれば、マリアが身ごもっているということは婚約者のヨセフにも天使が現れて伝えられていました。イスラエルの民が長年にわたって待ち望んでいたことが、ヨセフとマリアに伝えられたのであります。こうして二人は、何百年にわたって救い主を待ち望んだ人々の最後に位置づけられることとなったのであります。
 
しかし、天使ガブリエルが告げたことは、戸惑いを覚えざるを得ないことであり、にわかには信じられないことでありました。それは、私たちにとっても同様であります。また、救い主の誕生(即ちクリスマス)ということが私たちの人生とどんな関係にあるのか、私たちに何をもたらすのか、世界の歴史においてどれほど重要なことなのかということも、必ずしもよく納得出来ているわけではないかもしれません。しかし実は、この出来事をマリアと共に私たちが受け入れるということが、キリスト教の信仰を受け入れるということに通じますし、私たちもまた救い主の誕生を心から喜ぶことが出来るようになるのであります。そこで今日は、このマリアへの受胎告知の出来事を通して、私たちにもマリアと共に戸惑い、マリアと共に聖霊の導きを受けて、マリアと共に約束を信じて受け入れる者とされて、この世界を動かし私たちの人生を変える恵みの出来事に関わる者とされ、救い主を心から待ち望む者たちの一員とされたいと思うのであります。

1.恵まれた方、主があなたと共に――救いの約束の前提

さて、マリアへの救い主誕生の予告は、26,27節の次のような記述で始まっています。六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。――この記述の中に二つの大事なことが含まれています。一つは、「ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」ということです。ガリラヤという地方は、パレスチナの北の方にあって、異邦人との混合も進んでいたので、南のエルサレムなどがある地方の人々からは蔑まれていました。また、そのガリラヤの中でもナザレというのは行政的・宗教的に大事な町ではなく、ヨハネ福音書を見ると、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言われるくらいの目立たない村でありました。そこに天使が遣わされ、救い主の誕生という歴史的な出来事が起こるのであります。神様は救いの出来事を起こされるのに、人間が作り出した優れたものや目立つ場所を利用されません。世の中ではあまり目立たず、重要視されない所から始められます。私たちが救いに与るのも、私たちの側の条件が優れているからではありません。私たちの家庭環境や住んでいる場所や教育のレベルや能力の有無によって選ばれるのではありません。
 
しかし、救い主の誕生には一つだけ条件がありました。それが二つ目に大事な点ですが、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」という条件でした。なぜダビデ家なのか。これはダビデという立派な王様の家柄が問題にされるということでしょうか。そうではありません。なぜダビデ家かというと、冒頭でも触れましたように、「ダビデの王座をとこしえに据える」という神様の約束があったからであります。それは人間の権力が作り出した王座ではありません。ダビデ自身も神の恵みによって王とされたのでしたが、その王座は人間の過ちによって、一旦は神様の手によって滅ぼされたのであります。しかし、神様の約束は滅ぼされることなく貫かれるのであります。ダビデ家の権威は失墜したのですが、そこに新たに神様が権威を置かれるのであります。ヨセフという人物も優れた人間であったから選ばれたのではありません。ダビデの家系の中にはダビデの出身地であるベツレヘムにはもっと優れた人がいたかもしれませんが、そういう人ではなくて、遠く離れた片田舎のナザレに住んでいた名もない大工のヨセフが選ばれたのであります。マリアも特別な教育を受けた才女でも、立派な家庭の淑女でもなく、名もない田舎娘に過ぎませんでした。そのようなヨセフとマリアが新しい人生へと引き出されるのは、神様から遣わされた天使がマリアに告げることから始まるのであります。
 
そのことは次の28節を見ると一層明らかです。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」――「恵まれた方」と言っています。ここには彼女が恵みを受ける理由は何も述べられていません。「主があなたと共におられる」ということが唯一の理由であります。神様が一方的に選んで、彼女と共におられるという恵みを与えられたということであります。
 
私たちに信仰を与えられ、救いに入れて下さることも、私たちが新しい命に生まれ変わることも、私たちが神様の大切な御用をするようになることも、神様の恵みによる一方的な選びによることであって、私たちの家柄がよいとか、性格がよいとか、有能であるといった規準や条件によるのではありませんし、私たちが大変な精進努力をした結果獲得できるというのではないということであります。
 
世の中には人生の歩みについての指針やアドバイスを与えてくれる様々な書物やメディアなどの情報があふれています。それらが全く役に立たないとは言いませんが、大抵は、自分の心の持ち方を変えるとか、努力を積み重ねるとか、私たちの側での何らかの変革を求めるものです。しかし、本当の救いは私たちの方からではなく、上から、神様の方から、恵みとして与えられるということなのです。

2.戸惑い、恐れ、どうして――救いの約束に対する人間の反応

では、天使から一方的な言葉を聞いたマリアはどのような反応をしたでしょうか。29節を見ると、マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ、とあります。「恵まれた方、主があなたと共におられる」と言われても、どう恵まれるのか、神様が共にいて下さるといっても、そのことが自分の人生にどう関わるのか分かりませんから、戸惑い、考え込まざるを得ません。マリアは決して初めから信仰深い人間ではありません。普通の人間と同じように戸惑いを隠すことが出来ないのであります。しかし、マリアのところに天使が遣わされて、戸惑わざるを得ない言葉をかけられていることこそ、新しい出来事、救いの出来事が始まっているのであります。
 
私たちのところへは天使が現れるわけではありません。このような礼拝において聖書を通して神様の言葉を語りかけられるのですが、いきなり、「恵まれた方、主があなたと共におられる」と言われても、戸惑わざるを得ないのではないでしょうか。神様が一緒にいて下さると言われても、何か大きな制約を受けるような気がして、すぐさま有難いことだとは思えません。信仰を持てば救われますとか、神様が守って下さると言われても、考え込まざるを得ません。しかし、礼拝において御言葉を聞いてマリアと共に戸惑い、考え込まざるを得ないことこそ、神様から私たちへの働きが始まっているのであります。
 
考え込んでいるマリアに対して、天使は30節でこう言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」――マリアは戸惑い、考え込んでいます。しかし実は、もっと理解出来ないこと、マリアにとってある意味で具合の悪いこと、恐れなければならないことが告げられようとしているのです。だから天使は先回りするかのように、「恐れることはない」と言います。そしてこれから告げることが神様からの「恵み」であると言うのです。マリアが恐れる以上に大きなこと、恵みに満ちたことを告げようとしているのです。
 
それというのは、まずは31節にあるように、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」ということでありました。男の子が産まれるということ自体は、ヨセフとの結婚を予定しているマリアにとって喜ばしいことであります。しかし、まだ結婚をしていないのに産まれるということは、具合の悪いことであります。婚約者のヨセフに対して説明のつかないことで、疑われても仕方のないことであります。当時のユダヤの律法によれば、婚約中であっても婚約者以外の異性と関係をもつことは姦淫の罪を犯したとして、石で打ち殺されねばなりませんでした。マリアには身に覚えのないことでありましたから、絶対に受け入れることができないことです。ですから、これを聞いたマリアは34節にあるように、天使に向かって「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言わざるを得ませんでした。
 
そう言わざるを得ないのはマリアだけではありません。私たちにとっても、この天使の言葉は素直に受け取るのが難しいことであります。私たちは科学的にあり得ないことだと考えてしまいます。そして、もしマリアが本当に身ごもったのだとすれば、ヨセフとの間に既に関係が出来ていたのか、あるいはイエスの誕生を普通の人間の誕生と区別して美化するために作り上げたお伽話ではないか、と考えてしまうのであります。この事態は、理性ではとても受け入れられないことであり、人に説明することも出来ないことであります。ですから、私たちもマリアと共に戸惑わざるを得ません。そして、マリアと共に、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と問わざるを得ません。
 
神様がなさることは、このように私たちの理解を越えたことであります。簡単には受け入れることが出来ないことであります。それだけではありません。32節以下の天使のお告げの内容は、マリア個人に関わることではありません。また、科学的に説明出来るかどうかというようなレベルのことではありません。

3.ダビデの王座による支配――救いの約束の内容

天使が告げる32,33節の言葉を聴きましょう。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 
マリアから生まれる子供が「偉大な人になる」というだけであるなら、驚かざるを得ないこととは言え、喜ばしいことであります。しかし、その子が「いと高き方の子」即ち神の子と言われるというのです。「偉大な人」だから神の子と呼ばれて、もてはやされるということではありません。この人こそ、神の子だと認識されるということです。言い換えると、神の子が人間となってこの世に来られたということです。これはイスラエルの人たちの信仰では、あり得ないことでありました。また、「彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言われていますが、これは冒頭にも触れましたように、かつて神様が約束されたことであり、預言者たちによって語られて来て、イスラエルの歴史の中で長らく待ち望まれていたことではあります。しかし、ダビデ王朝が滅びて以来、既に長い年月が経っており、殆んど現実に起こることとは考えられないような状態でありました。
 
しかし、ここで告げられていることは、イスラエルに与えられていた約束がマリアから生まれる子によって成就する、ということであり、その子が待望の救い主メシヤになるということであります。そして、「ヤコブの家の支配は終わることがない」と告げられています。「ヤコブの家」とはイスラエルの国ということですが、もはや単にイスラエル民族の国という意味ではありません。神の子である主イエスが支配する国、神の国であります。そして、その支配は終わることがない、と言われているのであります。
 
この天使の宣言とも言える言葉を聞いて、私たちはマリアと共に、大きな問いの前に立たされるのではないでしょうか。その問いとは、この時以来、この地上に本当に新しい神の国が開始されたのであろうか、私たちの日々の生活をイエス・キリストが御支配なさることが本当に始まっているのであろうか、私たちに襲いかかってくる苦しみや悩みや不安の中からの解放はあるのだろうか、罪深く過ちの多い私たち自身とこの世界が神様の赦しの下で生まれ変わることが出来るのだろうか、という問いであります。――私たちは、現実の自分や世界の状態を思い浮かべる時に、マリアと共に、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と問わざるを得ないのではないでしょうか。ここに天使の前にいるマリアは、今、主の御降誕を待っている全ての人たちの先頭に立って、この問いを投げかけているのであります。

4.いと高き方の力――救いの約束の推進力

このような問いに対して、天使は何と答えるのでしょうか。天使はここで約束の確かさを裏付けるような説明は一切致しません。天使は35節でこう答えるだけです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」これが唯一つの答えであります。聖霊、即ち、いと高き神の力がマリアに働くとき、天使を通して語られた神様の御言葉は実現するのであります。神の子が人の子として誕生するのは、決して生理現象の結果として起こるのではありませんし、人間の善意の結集や努力の結晶として起こるのでもありません。神様が人間を愛されるその愛の力が独り子をこの世に生まれさせ、救いの御業を始めさせられるのであります。それがいと高き方の力が包むと言われていることであり、聖霊の働きということであります。これは科学的に説明できることではありません。人間の常識や理性で納得することではありません。信じるしかないことであります。私たちにも聖霊が働くとき、信じることが出来る者に変えられます。
 
続いて36節では、天使がこう言っております。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」――エリサベトとは洗礼者ヨハネの母であります。もう子供が出来ることを諦めていた高齢のエリサベトにも、神様は男の子を身ごもらせたことを言っているのです。これは処女のマリアが主イエスを身ごもるという、マリアにとって信じ難い出来事を受け入れやすくするための神様の配慮でありました。しかし、そのことがあったからと言って、マリアが救い主を身ごもることの謎を説明出来るわけではありません。ただ、人間が不可能と思うようなことも、神様がなさろうとするなら出来るということの見本でしかありません。そして37節で、「神にできないことは何一つない」という決定的な言葉が語られます。神様は無から有を生み出すことも出来るお方であります。「光あれ」と言われて光を創造されたお方であります。神様の御意志があれば、それは実現されるということです。それは魔術的な力を持っておられるということではなくて、神様の人間に対する愛の御心が働くということです。

結.待ち望む人々の先頭に

最後に、38節でマリアはこう言っております。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」――「はしため」とは女奴隷のことです。奴隷は主人の言うことに柔順に従います。たとえ自分には納得出来ないことであっても、たとえ自分に不利益になることであっても、主人の言うことに従うのが奴隷であります。マリアの場合も疑問が解消されたわけではありません。また婚約者のヨセフが信用してくれるという保証もないし、世間が認めてくれる保証もありません。これからこのことでどれだけ苦労しなければならないかも分かりません。しかし、マリアは天使の言葉を信じて受け入れたのです。納得したのではなくて、全てを神様に委ねたのであります。ここにも聖霊の働きがあったというほかありません。
 
こうしてマリアは自分が身ごもってダビデの王座を継ぐ救い主が生まれることを待ち望む者とされました。そしてやがて天使の言葉どおり男の子が誕生いたします。しかしその子が救い主となるのかどうかということについては、主イエスが十字架の上の死に至っても証明されるようなことではありませんでした。あくまでも待ち望むしかないことでありました。信ずるほかないことでありました。そして、主イエスの復活によってはじめて、あの天使の言葉が本当であり、主イエスこそが永遠に神の国を支配される救い主であることがはっきりするのであります。
 
私たちもマリアをはじめ弟子たちの証言によって主イエスのことを知るのでありますが、なお戸惑わざるを得ず、考え込まざるを得ない者であります。しかし、その私たちの先頭にはマリアがいます。そして私たちもマリアと同じように、聖霊の力を受けて「お言葉どおり、この身に成りますように」と言う者にならせていただきたいと思います。そして、主イエスが御支配される神の国に入れていただけることを信じたいと思います。祈りましょう。

祈  り

父なる神様!主イエス・キリストをマリアに身ごもらせて下さった出来事を聞くことを通して、救い主の誕生を待ち望む群れに私たちを加えて下さったことを感謝いたします。
 
この余りにも不思議な出来事のゆえに、私たちは戸惑わざるを得ない者でありますが、どうか、マリアと共に、聖霊の御業を信じる者とならせ、神の国の一員に加えていただけますよう、お願いいたします。
 
どうか、クリスマスに向けてよき備えをなすものとならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年12月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:26−38
 説教題:「
いと高き方の力」         説教リストに戻る