言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。・・・(中略)・・・ いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
                 (ヨハネによる福音書
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 主イエスの降誕は、単なる一人の偉人や開祖の誕生ではない。そこには、この世の初めからの神の御心が働いていた。ヨハネ福音書はその冒頭で、初めに(ことば)があった。(ことば)は神と共にあったと記す。「(ことば)(ロゴス)」とは、「言葉」「出来事」「理性」といった意味を持つ語だが、ここでは神の御心を表わす「言葉」であり、世界に新しい命をもたらす「出来事」となったキリストのことを指す。
 「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」――「肉」とは、単に肉体を意味するだけでなく、聖書では<弱さと限界をもち、死ななければならない存在>を意味する。キリストは(まこと)の神でありつつ、弱さを負った(まこと)の人となられたのだ。「宿られた」という語には「テントに泊まる」という意味がある。それは、仮住まいするということではなく、不安定で苦難に満ちたこの世の旅路に寄り添って下さったということであり、人間の罪の結果を担って下さった十字架に至るまでのご生涯を表わす。
 わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」――この「栄光」とは、単なる華やかさではない。人間の弱さを身に負い、十字架の苦しみを受けられて、神の救いの御心を明らかにされたことこそ「栄光を現す」ことである。その栄光は「恵みと真理とに満ちていた」と言う。「恵み」とは、病の癒し、幸せな人生、心の平安といったことだけを指すのではない。十字架の贖いによる罪の赦しこそ最大の恵みである。
 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」――人は誰も、肉眼においてはもちろん、優れた知恵や心眼や霊眼をもってしても、神を見ることは出来ない。(まこと)の神でありつつ、(まこと)の人として「受肉」し、十字架に架かられたお方にお会いすることによってのみ、神の愛の御心((ことば))に触れることが出来るのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年11月25日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:14−18 説教題:「言(ことば)は肉となって」         説教リストに戻る