序.主イエスの誕生で何が起こったのか

教会の暦では来週の日曜日からアドベント(待降節)に入ります。教会暦による新しい1年が始まるのであります。アドベントの前の今日の日曜日は教会暦では1年の最後の日曜日で「王なるキリスト」の日とされています。ところが今日与えられているヨハネ福音書の第1章はキリストの誕生の意味を述べた箇所で、アドベントやクリスマスに読まれることの多い箇所であります。なぜ、「王なるキリスト」の日にこのような箇所が選ばれたのか、その意図は定かではありませんが、キリストがこの世に誕生されたということの意味は、神の国の王になるべきお方として誕生されたということを、この箇所から聴き取りたいという意図であったと考えることが出来ます。そこで、このことを念頭におきながら、与えられた箇所を見て行きたいのですが、ここに書かれていることは、主イエスがこの世にお生まれになったという一つの出来事が起こったことについてであります。それは単なる一人の人間の誕生ではありませんでした。そこにはこの世の初めからの神様の御心が働いていました。この世の中で最も重要な出来事が起こったのであります。主イエスが誕生したことで何が起こったのか。その出来事はこの世にとってどういう意味を持つのか。その出来事は私たちにどう関わるのか。私たちに何が起こるのか。――そのことを今日の箇所から聴き取ることによって、アドベントに向かう備えをしたいと思うのであります。

1.初めに神と共にあった言(ことば)

与えられた今日の箇所は114節以下で、その最初には、言は肉となって、わたしたちの間に宿られた、とあります。これは、少し難しい表現を使うと、「受肉」と呼ばれる出来事であります。この出来事には大きな前提があります。その前提が11節以下に書かれていますので、まずそこから見ておきたいと思います。
 
11節は非常に有名で重要な言葉であります。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。「言」という字は「言の葉」と書かずに一字で「ことば」と読ませています。ヨハネ福音書だけの独特の表記であります。元のギリシャ語では「ロゴス」と言いますが、これには「言葉(言の葉)」という意味もありますが、「出来事」とか「理性」というような意味もあります。それをここではなぜ一字の「言」と表記しているかというと、ここでの「ロゴス」は単なる言葉(言の葉)ではなく、キリストのことを表しているからであります。
 
ではなぜ、キリストのことを「言葉」とか「出来事」という意味を持つ「ロゴス」という語で表現しているのでしょうか。――そもそも「言葉」というのは、それを語る人の気持ちや考えを伝える役割を果たします。そして言葉を交わすことによって人と人との、人格と人格との結びつき(交わり)が出来ます。神様はそのような働きをする「言葉」を人間に与えられました。そして神様も「言葉」を語られます。人間は神様の「言葉」を聞いて、神様の御心やお考えを知ることが出来、神様と交わりをするように造られたのです。ところが人間は、与えられた「言葉」を本来の目的のように使っていません。「言葉」でもって気持ちや考えをうまく伝えられないことがあります。「言葉」によって相手を傷つけることさえあります。神様との関係においても、神様はイスラエルの民に「律法」という形の「言葉」によって神様の御心が示されたにも拘わらず、その御心に従いませんでした。預言者という人たちが表れて、神様の「言葉」を人々に伝えましたが、人間は御心に反することをしてしまいました。「言葉」が本来の役割を果たさないようになって、神様と人との関係がうまく行かなくなったのであります。そこには人間の傲慢さや身勝手が災いしています。しかし、神様の「言葉」というのは、そもそもそういうものではありません。
 
創世記の最初に天地創造の物語が書かれていますが、そこでは、神様が「光あれ」と言われると光が生じました。そのように神様が言葉を語られることによって、全てのものが造られました。人間も神様の言葉によって造られました。神様が御心をもって「言葉」を発せられるとそこに「出来事」が起こるのであります。ですから、「ロゴス」という語は「言葉」という意味と同時に「出来事」という意味も持つわけです。そのような本来の「言葉」である「ロゴス」の役割を果たすのがキリストだということです。そういう特別な意味合いを1字の「言」という表記で表わしているわけです。
 
そして、11節で、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった、と言われているように、天地創造の初めから「言」であるキリストが神様と共におられたし、キリストは神様と一つであったのであります。(今、礼拝後に月2回行っています「共同の学び」で「わたしたちの信仰」を学びはじめておりますが、そこでまず出てきたのが、「イエス・キリストは真の神であり真の人です」という告白でありました。この1節では、そのうち、キリストが「真の神」であることが筆者のヨハネによって告白されているのであります。)
 
次に4節を見ておきましょう。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。キリストには命があったと言っているのです。この「命」というのは、単に肉体的・生物的な命だけでなく、心と体の両方を生かす命のことです。「言葉」が本来の働きをする時に働く命のことです。それは神様との関係が本来の関係にあって生かされる命です。そのような命は、本来、キリストの内にあって、それが光として人間を照らす時に、人間は生き生きと生きることが出来ると言うのです。
 
以上が、14節で語られる出来事の前提であります。

2.言は肉となって宿った

そこで、14節の、言は肉となって、わたしたちの間に宿られた、という箇所に入ります。ここで「言」とは、本来の「言葉(ロゴス)」であるキリストのことです。では、「肉」とは何かということですが、「肉」というのはギリシャ語で「サルクス」と言います。これには肉体という意味もありますが、聖書では、<弱さをもった人間、限界をもった人間、死ななければならない人間>という意味が含まれています。ですから、「言は肉となって」とは、キリストが、弱さや限界をもち、死ななければならない人間になられた、ということです。だから、人間の苦しみや悲しみ、痛みや悩みが分かるということです。それが「受肉」と言われることです。クリスマスの起こったことは、この「受肉」という出来事であります。
 
ここで間違ってはいけないのは、キリストは1節で書かれていた「神と共にあった」状態を捨てて、限界をもった人間に成られたということではないということです。本来の「言(ロゴス)」として、神様と共にある、神様そのものでありつつ、限界をもった「人」にもなられたのであります。ここに、「キリストは真の人である」という信仰の告白が含まれています。「わたしたちの信仰」でも学びましたように、神であるキリストが仮の姿をとって人間になられたとか、一時的に人間になられたとか、半分は神様で半分は人間になられたということではなくて、真の神でありつつ、真の人になられたということです。
 
次に、「わたしたちの間に宿られた」と書かれています。この「宿る」という原語は、「テントを張る」あるいは「テントに泊まる」という意味があります。この言葉でユダヤ人がすぐ思い起こすのは、出エジプトの荒れ野の旅で天幕生活をしていた時のことであります。荒れ野では神様も天幕で作った礼拝所に臨在されて、神様はイスラエルの民の苦難の旅を共にされたのであります。そのように、キリストが人間の苦難の人生の旅を共にされるということです。「テントを張る」というと、仮住まいのようなイメージがあるかもしれませんが、神様が一時的に腰をおろされるということではなくて、不安定で苦難に満ちたこの世の旅路に寄り添って下さった、ということです。人は神の「言」即ち、神様の思い、御心から離れていたのですが、その神の「言」であるキリストが人と共に歩んで下さったということであります。それが、「受肉」ということです。
 
ですから、この受肉の出来事は、主イエスが誕生された降誕の時のことだけを言っているのではなくて、主イエスの地上の歩み全体が「受肉」であり、苦難の連続であったということです。10節を見ますと、言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかったとあります。神の言、神の御心そのものである主イエス・キリストでありましたが、人々はそれを歓迎するどころか、受け入れようとしませんでした。病気の癒しや、五千人のパンの奇跡を見聞きした人々は、一時的には主イエスを歓迎しているように見えましたが、結局、十字架に架けて殺してしまったのであります。そのように、神の言であるキリストは、決して天上の高みから人間を遠隔操縦されるのではなくて、人間の罪の只中に降りて来て、罪の結果を自ら身に負って私たちを罪から救って下さったのでありました。それが、神の言、即ち神様の御心であり、受肉の目的であったのであります。そして、この「受肉」の出来事は、決して成り行きでそうなったということではなくて、「初めに言があった」と言われているように、天地創造の初めからの神様の御心であり、御計画であったということで、その御心が2000年前に成就したということであります。更に、その御心、その神の「言」は2000年前にキリストが地上におられた期間だけではなくて、その後も現代の「天幕」である教会において御言葉が語り続けられるという形で、今も変わらず、私たちと共にあるということであります。

3.恵みと真理に満ちていた

 14節の続きを見て行きます。そこにわたしたちはその栄光を見た、とあります。「栄光」というと何か華やかなものを思い浮かべますが、このヨハネ福音書は主イエスが十字架を間近にして、「人の子が栄光を受ける時が来た」(1223)と言われたことを伝えています。「言が肉となって」、人間の弱さ・罪を身に負い、十字架の苦しみを受けられることによって神様の救いの御心を明らかにすることこそが、「栄光を現すこと」なのだと言うのであります。
 
更に、14節後半を見ると、それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた、とあります。「それ」というのは、「栄光」のことです。十字架の苦しみによって現された栄光は、第一に、主イエスが「父の独り子」であることを現している、ということです。つまり、主イエスが父なる神様と一つであるということ、父なる神様の御心の全てが主イエスによって現されているということです。
 
そして、その独り子としての栄光は「恵みと真理とに満ちていた」と言います。「恵み」と「真理」という語は、どちらも神様の御性質を表わす語で、旧約聖書にも新約聖書にも、あちこちで出て来ますが、この後、1617節でも出てきます。そこを読んでみましょう。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。「この方」というのは、15節に出てくる洗礼者ヨハネが指し示したイエス・キリストのことです。「恵み」とは、このイエス・キリストの中に満ちあふれている豊かさの中から与えられるものです。イエス・キリストの豊かな恵みとは何でしょうか。私たちは聖書に記された主イエスのご生涯の中から様々な恵みがあったことを知らされます。目の見えない人が見えるようにされ、脚の不自由な人が歩けるようにされ、重い皮膚病を患っている人が清くされ、耳の聞こえない人は聞こえるようにされ、死んだ人が生き返らされ、差別を受けていた人たちが慰めを受けました。それらの中にイエス・キリストの豊かな恵みがあったことは間違いありません。しかし、17節をよく見ると、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とあって、モーセが与えた律法と対比されています。つまり、イエス・キリスト以前に、モーセを通して与えられた律法を守ることによってもたらされる恵みに代わる新しい恵みのことを強調しているのであります。その新しい恵みとは、十字架の贖いによる罪の赦しの恵みであります。姦淫の女が石打ちの刑に処せられようとしていた時に、主イエスは、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、先ずこの女に石を投げなさい」と言われて、石を投げようとしていた人たちが次々に去って行きました。そして、主イエスはその女に対して、「わたしもあなたを罪人としない」と言われて、罪の赦しを告げられました。様々の病を患ったり、体の不自由であった人たちを癒された時にも、ただ病を取り除かれただけではなくて、「あなたの罪は赦された」と宣言なさったのであります。イエス・キリストの恵みと真理とは、正にこの「罪の赦し」ということであって、その赦しは神の「言」であるお方が肉となって下さり、十字架の極みまでへりくだって下さったことによって与えられたことであります。
 
私たちが信仰をもって与えられる恵みにも色々あります。将来について不安なことがある中で、神様に信頼することで与えられる平安という恵みがあります。病気を患って、神様に癒しを願うことが出来るのも恵みであります。勉強や仕事がうまく行きますようにと祈ることが出来るのも恵みであります。更に言えば、神様の御心に適う働きをして、生きがいのある生涯を過ごすことも恵みであります。しかし、信仰をもって与えられる最大の恵みは、罪が赦されて救われるということであります。人間の最大の問題点は罪であります。それがすべての不安やトラブルや失敗の直接間接の原因であります。それを解決できるのは、御子イエス・キリストの十字架の贖いによるほかありません。これこそ、キリストの満ちあふれる豊かさの中からいただくことのできる最大の恵みであります。この恵みを受けるということが、新しい命、永遠の命に生きることにつながるのであります。

4.この方が神を示された

最後に、18節の言葉を聴きましょう。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。神を見た者は歴史上誰もいません。あのモーセでさえ、神を見ることは出来ませんでした。これは肉眼で見ることだけを言っているのではなくて、いわゆる心眼とか霊眼をもってしても見ることは出来ないということです。どんな偉人も、どんな哲学者も宗教家も、教祖と呼ばれるような人も、神様を見たり、悟ったりすることは出来ないのであります。人間の側から神様にアプローチして発見したり出会ったりすることは出来ないのであります。
 
ただ、「父のふところにいる独り子である神」であるイエス・キリストだけが、神様をお示しになることが出来ると言うのであります。「ふところにいる」というのは、母の胎内にいる赤子のように、不可分の関係にあるということです。イエス・キリストだけが神様と共にあり、神様の御心を完全に弁えておられ、私たちにお示しになることが出来るのです。それは、「言が肉となって」私たちと同じ弱さを担って、十字架に架かられるという神様の御心に従われる道を歩まれることによって示されたのであります。私たちとしては、このお方に従って行くほか、神様の御心に沿う方法はありませんし、救われる道、永遠の命に至る道は与えられていないのであります。
 
真理に至る道は、山の頂上に行く道がいくつもあるように、何通りもあると考える人は多いのです。キリスト教だけが唯一の道だと考えるのは独善であって、他の道を否定するのは誤りであるというのです。しかし、そのように言う人は、まだイエス・キリストに出会っていないということです。人間の至らなさ、自分の中にある罪に気付いておらず、イエス・キリストの罪の赦しの恵みに出会っていないということです。主イエスの十字架のことは知っていても、その恵みに喜びを見出していないということです。

結.言と共に歩む

では、どうすれば、その唯一の救いの道を歩むことが出来るのか。それは肉となって下さった「言」であるイエス・キリストにお会いするしかありません。では、イエス・キリストとどのようにしたらお会いできるのか。キリストは教会を建てて、そこに神の言葉を語るという、パウロが「宣教の愚かさ」と呼んだ道を開かれたのであります。私たちに与えられているこの教会の礼拝の場所で、御言葉を聞き、神の「言」であるイエス・キリストにお会いすることによって、神様の御心を知ることが出来るし、救いに入れられることが出来るし、永遠の命に与ることが出来るし、地上の残された生涯を神の言と共に、王の王であるイエス・キリストと共に歩むことが出来るのであります。――それが、今日、アドベントを前にした「王なるキリスト」の主日に与えられた御言葉であります。
 
祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
 
御子イエス・キリストを地上にお遣わし下さり、十字架の死に至るまで「肉となる」御生涯を歩ませて下さって、私たちの救いを成就して下さった恵みを覚えて、御名を賛美いたします。
 
私たちは弱さのゆえに、この大きな恵みをさえ軽んじて、救いの御言葉に耳を傾け、従うことを疎かにしがちな者であります。
 
どうか、この罪をお赦し下さい。どうか、御子を私たち一人ひとりのうちに宿らせて下さい。どうか、日々、キリストの満ちあふれる豊かさの中から救いの恵みを受け取り続ける者とならせて下さい。
 
どうか、今年の待降節と降誕節を、あなたの備えて下さった大きな恵みを再認識する日々とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年11月25日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書1:14−18
 説教題:「言
(ことば)は肉となって」         説教リストに戻る