序.私たちにとっての獅子の洞窟とは

今日は旧約聖書のダニエル書6章が与えられております。先ほどの朗読をお聞きいただいただけで、時代背景や前後の事情をご存じない方でも、物語の粗筋はお分かりいただけたのではないかと思います。時代はバビロン捕囚の末期に設定されていて、場所は捕囚先のバビロン王国であります。主人公のダニエルはユダヤ人でありますが、傑出した能力を持っていたために、王に次ぐ立場に立って王国全体の政務に携わっていたのであります。ところが、そのことを快く思わない大臣や総督が王をそそのかして、ダニエルを陥れるための法令を作るのであります。その法令というのは、王を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、「獅子の洞窟」に投げ込まれるというもので、変更不可能な法律として発布するのであります。ダニエルはそのような法令が作られたことを知りつつも、いつものように真の神様に対して日に三度の祈りと賛美をささげます。役人たちはそれを見届けて、王に告発します。王はダニエルを評価していましたから、何とか助けたいと思うのですが、変更不可能な法律に署名をしてしまっているので、取り消すことが出来ず、やむを得ずダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれます。王はその夜、まんじりともせず、翌朝、獅子の洞窟に行ってみると、ダニエルは何の危害も受けていませんでした。王はダニエルを洞窟から引き出させ、代わりに、ダニエルを陥れようとした者たちを獅子の洞窟に入れると、獅子は彼らを噛み砕いた、というのです。このことがあって、王はダニエルが信じている神を恐れかしこむよう、王国全域におふれを送り、ダニエルは引き続き活躍したという物語であります。この物語がすべて実話であるのか、多少誇張されたものであるのかは不明でありますし、現代の私たちからすると、御伽噺のような感も拭いきれないのでありますが、ユダヤ人はその後の厳しい迫害の歴史の中で、この物語を信仰の危機に直面している同胞への大切なメッセージとして、聖書の中に伝えて来たのであります。
 
では、今日の私たちはこの物語から何を聴き取るべきでしょうか。『旧約新約聖書講解』では、<今日のわたしたちにとっての「獅子の洞窟」はなんであろうか>と問いかけております。これは重要な問いかけであります。私たちの精神的あるいは肉体的な命を奪いかねない恐ろしい「獅子の洞窟」が、私たちの周りにもあるのではないか。―今日はまず、この問いかけについてご一緒に考えてみたいと思います。その上で、次に、そうした「獅子の洞窟」の中で私たちはどのようにして霊的な命を保つことが出来るのか、ダニエルのような毅然とした態度をとれるのだろうか、果たして神の助けを期待できるのだろうか、ということを考えてみたいと思います。

1.逆風の中の「獅子の洞窟」

ダニエルはバビロンに捕囚中の身ではありましたが、その優れた能力が認められるところとなって、ダレイオス王のもとでは、百二十人の総督の上に立つ三人の大臣の一人となっていましたが、ダニエルは他の大臣や総督のすべてより傑出していたので、ダレイオス王は彼に王国全体を治めさせようとしたのであります。これは王に次ぐ権力の座であります。しかし、被支配国からやって来た者が、自分たちの上に立って権力の座につくことを、総督や大臣が快く思わないのは当然であります。そこで彼らはダニエルを陥れる口実を探します。彼らはダニエルが真の神様を礼拝していることに目をつけて、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれでも獅子の洞窟に投げ込まれるという法令を作るという策略を考えます。ダレイオス王はそんな策略に気付かず、自分が敬われることは良いことだと安易に考えて、言われるままに変更不可能な禁令として署名をしてしまいました。
 
ダニエルは王がそのような法令に署名したことを知りましたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がって、故国のエルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずいて、日に三度の祈りと賛美を神様にささげたのであります。しかし、これは策略者たちの思う壷でした。彼らは役人たちを遣わして、ダニエルの行動を見張らせていました。役人たちは王に報告します。王は諮られたことに気付いて、たいそう悩むのですが、自らが署名した法令を破るわけには行きません。こうしてダニエルは「獅子の洞窟」に投げ込まれることになったのであります。
 
このようなダニエルの状態を今日の私たちにとってのどのような状態に置き換えることが出来るでしょうか。教育委員会で発行している教案の『日曜学校』誌では、<自分の落ち度ではなく降りかかってくる災難や苦しみを、「獅子の洞窟」と考えることができる>としています。確かに、私たちは自分に何の落ち度もないのに、災害に見舞われたり、事故に巻き込まれたり、病魔に犯されたり、障害を負わされることがあります。また、ちょうどこのダニエルの場合のように、自分が勉強や仕事で努力した結果、よい成果を挙げたときに、それを妬んで陥れようとする人が現れることがあります。また、信仰上のことで言うならば、教会や信者が礼拝を妨害されるとか迫害を受ける場合が考えられます。今日の日本で、この「獅子の洞窟」で表わされるような目に見える形での妨害や迫害は滅多にありませんが、世の中全体が神道や仏教の習慣で動いている中で、キリスト者としての態度を貫くには、周囲への気遣いや、場合によっては戦いが必要になります。また、最近の日本では特定の宗教を信じるよりも、無宗教である方が進歩的であるという考え方が広がっています。特に、一神教には他の宗教を排斥しようとする考えがあって戦争を起こしたりするが、日本のように複数の宗教を認める態度の方が平和な社会を作れるということを主張する人が現れたりします。
 
このような自分の方には特段の落ち度がないのに負わなければならない災難や苦しみを、どのように受け止めればよいのか、特に信仰を貫こうとするときに起こる軋轢をどのように乗り越えたらよいのか。――これが、今日の箇所から出てくる第一の問いであります。

2.順風の中の「獅子の洞窟」

ここまで述べたのは、私たちを襲う逆風の中で、それを信仰的にどう受け止めるかという問題でありますが、信仰の危機というのは、このような逆風の中でだけ起こるものではありません。
 
ダニエルの物語をもう一度思い起こしてみますと、ダニエルは捕囚という逆風の中にあったのですが、自分の能力が王に買われて、いわば順風の追い風が吹いていたのであります。こうした状況を神様の恵みと受け取って、その中で温く温くとしていてよいだろうか、という問いであります。リュティという説教者はこの箇所の説教の中で、「ダニエルがまだ獅子の洞窟に入れられておらず、かえって元気はつらつと王宮に仕えているのを見るとき、われわれは、すでに獅子の洞窟に入れられたも同然というほどに、このダニエルの身の上を気遣わずにはいられません」と述べていて、「教会が、そのおかれた環境におのれを順応させ、それぞれの時代の時流に迎合して、『お上品に』なってしまうという悲哀」があるということを指摘しています。
 
教会の歴史を振り返ったときに、キリスト教は初期にはローマ帝国によって迫害されていた宗教でありましたが、4世紀初頭にコンスタンティヌス帝によって公認され、更に、4世紀末には国家の宗教にされて、その後ヨーロッパ全土でキリスト教が受け入れられるようになりました。国家の保護があって、教会が発展したのであります。しかしそれ以来、教会の堕落が始まったとも言えるのであります。それをリュティは「獅子の洞窟」も同然の状態であったと見ているのであります。このようなことは、キリスト教国のことだけではありません。わが国では戦時中に国家の主導によって教会の合同が行われました。それは国家が教会を統制するためでした。その時、教会側にはもちろん抵抗する考え方もありましたが、長年の願いであった教派の合同が実現するという受け止め方もあって、信仰告白の一致がないままに合同へと進んで行ったのでありました。しかしそれは、「獅子の洞窟」へ入ることにつながったのであります。
 
今、教会が偽りの順風の中で「獅子の洞窟」へと落ち込んでしまう過ちについてお話しましたが、個人の生活におきましても、人生の中で健康に恵まれ、仕事もうまく行き、家庭生活にも恵まれるといった順風の中にあることが、「獅子の洞窟」につながる場合があります。何か問題があって悩んでいるときは、神様に助けを求めたくなりますが、調子の良いときには、自信に満ちて、神様を必要としなくなって、教会からも足が遠のいてしまいます。自分の中にある弱さや問題性が見えなくなるのであります。そこには「獅子の洞窟」につながる危険性があります。サタンはいつも私たちを「獅子の洞窟」に陥れようと機会を狙っているのであります。ダニエルの物語は、そういう私たちの状態を見つめなおすことを教えているのではないでしょうか。
 

3.優れた霊――祈りと賛美へ(第一の奇跡)

ここまでは、<私たちにとっての「獅子の洞窟」とは何か>ということを、逆風の場合と順風の場合について考えて来たのでありますが、ここからは、どうすればそのような「獅子の洞窟」に嵌り込まないで済むのか、あるいは、嵌まり込んだ「獅子の洞窟」からどうすれば抜け出すことが出来るのか、ということをダニエルの物語から聴いて行きたいと思います。
 
ダニエルは、王が大臣や総督たちの策略に気付かずに禁令に署名をしてしまったことを知りましたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がって、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神に捧げたのであります。ダニエルは自分の様子を探っている者がいるだろうということを考えたと思いますが、気付かれないように隠れて祈りと賛美を捧げたのではなくて、
 
いつものとおり堂々と礼拝したのであります。大変勇気ある立派な行動であります。策略に気付いていたのなら、王に抗議して、事態を打開する道を探ることも出来たかもしれません。しかし、ダニエルはそういう動きは行わずに、いつものとおりに礼拝するのでありました。私たちならどうするでしょうか。こんな厳しい場面ではなくとも、礼拝することによって自分に都合が悪いことが予想されたり、他に自分にとって大事なことがあると、礼拝を避けてしまうのではないでしょうか。そういう私たちからすると、ダニエルの行動は英雄的でさえあります。聖書はこういうダニエルを見習えと私たちに告げているのでしょうか。「獅子の洞窟」に落ち込まないためには、このような勇気と立派な信仰が必要だということを言いたいのでしょうか。
 
先のリュティは、このダニエルのとった行動をそのようには捉えていません。リュティは、ここに一つの奇跡が起こったのだと捉えるのであります。4節を見ていただきますと、ダニエルには優れた霊が宿っていたので、と書かれています。これは、ダニエルが他の大臣や総督のすべてよりも傑出した能力を持っていたことについて書かれているのでありますが、リュティはこの「優れた霊」がダニエルを堕落と背信から守ったのだと理解するのであります。神様からダニエルに与えられていた「優れた霊」が働きかけて、「獅子の洞窟」に対する不安を取り除くという奇跡が起こったのだと言うのです。この「優れた霊」は、ダニエルの能力が優れていたから備わったものではなくて、神様から与えられて宿った聖霊であります。リュティは決してダニエルを英雄視しません。私たちは誰も英雄ではありません。自分に苦難が振る掛かることが予想される中で、信仰者としてのあり方を貫くような、立派な行動ができる者ではありません。しかし、神様が「優れた霊」を与えて下さるならば、このような勇敢な行動に踏み切れるのだということを、この物語は語っているのではないでしょうか。神様は私たちにも、必要ならこのような聖霊を送って下さる筈です。

4.獅子の口を閉ざす(第二の奇跡)

さて、ダニエルは神様から聖霊を送られて、信仰的な行動を貫くことが出来たのですが、禁令を破ったことが明らかになった以上、ダレイオス王もどうすることも出来ず、ダニエルは「獅子の洞窟」に投げ込まれることになりました。そのとき王は、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」(17)と言っております。最高権力者である王も、このように神頼みするしかありませんでした。王は宮殿に帰っても眠れない夜を過ごします。夜が明けるやいなや、王が急いで洞窟に行って、ダニエルに呼びかけます。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか」と。すると、ダニエルの声が帰って来ます。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。」22,23)いわば第二の奇跡が起こったのでありますが、それは神様が天使を送ってなさった奇跡でありました。
 
こうしてダニエルは洞窟から引き出されましたが、何の危害も受けておりませんでした。聖書は神を信頼していたからである、24)と記しています。ダニエルも神様の助けを信頼していたということです。このあと、王は命令を下して、ダニエルを陥れようとした者たちを「獅子の洞窟」に投げ込ませます。すると穴の底にも達しないうちに、獅子たちは彼らに飛びかかって、骨までもかみ砕いたというのです。ダニエルが助かったのは獅子に元気がなかったからではなくて、神様の守りがあったからだということを証明するように記しています。
 
ダニエルが勇気をもって信仰を貫いたので、神様がご褒美として獅子から命を守られたというのではありません。神様がダニエルに「優れた霊」=聖霊を送っておられたので、信仰を貫くことが出来ました。そして、神様は獅子の口を閉ざすことによって、ダニエルの命を守られました。すべては、神様が起こされた奇跡でありました。

5.キリストの受難と復活を指し示す

ところで、これもリュティが指摘していることですが、6章に書かれているダニエルの物語には、新約聖書に記されている主イエス・キリストの受難と復活の物語に似ている箇所があります。
 
一つは、5節ですが、大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠惰もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった、とあります。それと同じようなことが、主イエスが最高法院で裁判をお受けになったときの記事の中に記されています。マルコ福音書1455節(p93)を見ると、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった」とあります。主イエスも何の罪もなかったのに、指導者たちのねたみから十字架刑に処せられることになったのであります。
 
また、ダニエル書の方の15節を見ると、王はこれを聞いてたいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した、と書かれています。一方、主イエスの総督ピラトによる裁判の場面で、ピラトは主イエスに死刑に当たる罪を見出すことが出来ません。ピラトの妻も「あの正しい人に関係しないでください」という伝言を寄こします。ピラトは何とか主イエスを助けたいと、祭の際には囚人を一人釈放する習慣があったので、他の死刑囚とどちらを釈放してほしいかと人々に問いかけました。しかし、人々はもう一人の囚人を赦して、主イエスを十字架につけるよう要求したので、ピラトはやむなく主イエスの死刑を決定しました。このピラトのしたことは、ダレイオス王のしたこととよく似ています。
 
更に、ダニエル書の18節に、一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした、と書かれていますが、これは、主イエスが墓に葬られたとき、墓の入り口には大きな石を転がして閉じ、石に封印をした上で番兵をおいたこと(マタイ275766)に似ています。
 
このように、ダニエルの物語と主イエスの十字架の死の出来事には共通点があって、これは偶然ではなくて、ダニエルの物語が主イエスの十字架の物語を指し示していると言えるのであります。
 
しかしながら、二つの出来事には決定的に違う点があります。ダニエルの場合は、神様が獅子の口を閉ざして下さったので、ダニエルは何の危害も受けることはなかったのでありますが、主イエスの場合は結局、罪のないお方が人々の罪の故に十字架に架けられて死なねばならなかったのであります。主イエスを逮捕する者たちが来たとき、弟子は剣をとって戦おうとしましたが、主イエスは「わたしが父にお願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかし、それでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ2653)とおっしゃって、十字架に向かわれたのでありました。そして十字架によって命を落とされた主イエスの体は墓に納められました。けれども、主イエスはそこから三日目に甦られたのでありました。ここがダニエルとは大きく違います。ダニエルの出来事も奇跡でありますが、主イエスの甦りの出来事は奇跡中の奇跡であります。死からの復活という奇跡であり、全ての人の罪の問題に決着をつけた上で復活され、ご自分だけではなく、全ての人を新しい命に生かすという奇跡でありました。ダレイオス王は26節以下にあるように、全地に住む諸国、諸族、諸言語の人々にこう書き送りました。「わたしは以下のとおり定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし、その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い、ダニエルを獅子の力から救われた。」27,28)この言葉は、まさに主イエス・キリストの御業による神様の救いと御支配を指し示しています。

結.生ける神の僕として

この言葉の中に、「生ける神」という言葉がありました。21節でも王はダニエルについて「生ける神の僕よ」と呼びかけております。神様は生きて働かれるお方であります。それはダニエルの時代だけではなく、2000年前の主イエスが地上におられた時代だけでもなく、今も変わりなく生きて働いておられます。そして、私たち罪人が一人も滅びることがないように、永遠の命に与ることが出来るように、聖霊において働いておられるのであります。私たちは主イエスを信じることによって、「獅子の洞窟」においても、死なない命、たとえ死んでも復活する命を、「生ける神の僕」として与えられるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

今も生きて働き給う父なる神様!
 
今日も私たちにダニエルの物語を通して、聖霊において働いて下さって、私たちをあなたの永遠の御支配のもとへと招き入れて下さいましたことを感謝いたします。
 
私たちは、順風の中でも逆風の中でも、あなたに信頼することを忘れて罪を犯してしまう者であります。自分の力では「獅子の洞窟」から抜け出すことが出来ない者であります。
 
どうか、イエス・キリストの故に罪を赦し、救い出して下さい。
 
どうか、あなたの僕として、生けるあなたの御支配を証しする者とならせて下さい。
 
どうか、教会が「獅子の洞窟」に嵌まり込むことなく、そこから救い出されるように、御言葉によって励まし続けて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年11月18日  山本 清牧師 

 聖  書:ダニエル書6:1−29
 説教題:「
生ける神の僕」         説教リストに戻る