実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」 (コリントの信徒への手紙1520,21 

 コリントの教会のある人々は、イエス・キリストの復活は信じるが一般の死者の復活はあり得ないと主張していた。彼らは、復活ということを心の内面の事柄と捉え、肉体の甦りとは考えておらず、洗礼を受けた者は、既に内面的に永遠の命を与えられているので、復活の必要はないとした。
 しかし、パウロが宣べ伝えているのは、キリストが私たちの罪のために死んで葬られて後、復活して、弟子たちをはじめ多くの人々に現れたという事実を伝える福音であり、キリストの復活によって罪の結果である死が克服されたのだから、一般の死者の肉体が復活するのも当然の帰結であると言うことである。標記のように、人間の死は、最初の人アダムが罪を犯したことによって、逃れられないものとなったが、罪のないキリストが死んだ後、復活して死に勝利されたことによって、全ての人の復活の初穂となられたのである。
 多くの人は、死を避けられないもの、誰でもいずれその時を迎えざるを得ないものとして、諦めている。そして、その時が出来るだけ遅く来るように願い、また、死んでから地獄に行かないように、生きている間に善行を積まねばならないと考える。それは、死に支配された考え方である。しかし、人間は元々、そのように造られたのではなく、神と良好な関係に生きるように造られたのであり、それを妨げているのが罪であって、その問題の解決のためにこそ、キリストが世に遣わされ、死を克服して、復活できる道を開いて下さったのである。復活は単なる心の平安というような内面の事柄にとどまるものではなく、生きている間に主イエスを信じるなら、肉体をもって生きる地上の生き方も変えられる。どのように変わるのか。第一に、地上で他人の評価に惑わされない大胆な生き方ができる。第二に、限られた地上の生ではあるが、精一杯生きることができる。第三に、神との関係だけでなく、人間との関係の処し方が変わる。更に、この世の生活だけでなく、終わりの日に復活のキリストと出会い、神の国の喜びの席に連なることが出来る。召天者記念礼拝とは、故人を偲びつつ、その方々の上にあった神の恵みを覚えて神を賛美するものだが、それだけではなく、遺された私たちに復活の命が約束されていることを覚え、その招きに応える時である。 

米子伝道所 主日礼拝(召天者記念礼拝)説教<要 旨> 2012年11月11日  山本 清牧師 

 聖  書:Tコリント15:12−24 説教題:「死者の復活」         説教リストに戻る