序.召天者記念礼拝とは

本日は、信仰をもって先に天に召された方々を偲びつつ、召天者記念礼拝を行っております。この教会に関係する召天者は、左手に掲げられている6人の方々ですが、今年新たに一人、狩野陽子姉が加えられました。召天者記念礼拝というのは、この方々のことを偲びつつ、この方々の上にあった神様の恵みを思い起こして、神様を賛美し礼拝するということであります。しかし、目的はそれだけではありません。信仰を持って召された方々は、地上の生涯の中で、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われて、永遠の命に生きる者へと変えられて、神の国に入ることを約束されて召されたのであります。そのことを思い起こすとき、遺された私たちはどうなのか、私たちは救われているのであろうか、永遠の命に生きているのだろうか、神の国への招きに応える生き方をしているのかどうか、ということが問われるのであります。ここには、まだキリスト教の信仰を持っていない方々がおられます。その方々にとっては故人と同じ信仰への招きの時であります。そうした未信者の方々だけでなく、既に信仰を持っている者たちにとっても、自らの信仰、その生き方を顧みて、自らの死と永遠の命について思い巡らして、神様の恵みを覚える時でもあります。
 
先ほど聖書を2箇所朗読していただきましたが、初めの旧約聖書ダニエル書3章は、日曜学校のカリキュラムにおいて本日のテキストとされている箇所でありまして、そこには異教の国に捕囚の身となっております3人の青年が、燃え盛る炉の中に投げ込まれるのですが、神様の御手によって救われたという物語が記されています。これは信仰をもっている者が、断たれることのない命を持っていることを象徴的に示している物語であります。今日は、こちらの物語にはこれ以上立ち入ることは致しません。後で朗読されたコリントの信徒への手紙15章は、パウロという伝道者がコリントの町にある教会に宛てた手紙の一部でありまして、そこの教会の信者の中に、死者の復活ということについて誤解をしている人たちがいたので、そのことについて正しい理解を説いている箇所であります。今日は、この箇所から、私たちも死者の復活ということについて正しい認識を得たいと思いますし、私たち自身の死と復活について、パウロが語っていることを通して神様の御心に接して、永遠の命への神様のお招きに与かることが出来て、新しい生き方へ歩み出すきっかけになれば、と思うのであります。

1.キリストの復活――最も大切なこと

さて、先ほど朗読していただいたのは、コリントの信徒への手紙一の15章の12節以下でありましたが、そこには、「死者の復活」という小見出しがついています。今日の説教の題と一緒であります。ここで「死者」というのは、私たち一般の人間の死んだ者のことであります。ここのテーマは私たち一般の人間が死んでから本当に復活するのかどうか、その復活とはどのようなものか、ということであります。
 
このことはキリスト教信仰にとって非常に重要なことであります。「死者の復活」ということを抜きにして、キリスト教の信仰は成り立ちません。「私は神様を信じます」とか「キリストを信じます」と言いながら、「死者が復活するとか、自分が復活することはとても信じられません」などと言う人がいれば、それは信者だとは言えないのであります。しかし、この「死者の復活」ということを信じる根拠はどこから来るのかと言えば、それはイエス・キリストが復活されたという事実から来るのであります。「死者の復活」の出発点はキリストの復活であります。紀元第1世紀にキリスト教会が誕生したのは、十字架に架けられて殺されたイエス・キリストが復活したという事実があったからでありました。主イエスが十字架上で息を引き取られ、墓に納められました。これは大きな敗北でありました。弟子たちはそれまで、主イエスに自分たちの望みをかけて従って来ました。しかしその主イエスを失って、もうどうしてよいか分からない状態になったと思います。
 
ところが、亡くなられて三日目に復活なさったのであります。その事実が、再び弟子たちを結集して、教会が誕生します。そして復活の福音が世界中に広がって行くことになるのであります。
 
そういうことですから、筆者のパウロがこれから一般の死者の復活のことについて語ろうとする時に、その前にどうしても語らなければならなかったのは、イエス・キリストの復活のことであります。そのことが、15章の1節から書かれています。
 
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」という書き出しで始まっています。ここで「福音」と言っているのは、<主イエスが復活した>という知らせのことであります。2節を飛ばして3節以下を読みます。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」ここで「聖書に書いてあるとおり」と言っているのは旧約聖書のことです。旧約聖書のところどころに、人々の罪に対する神様の裁きを引き受けて苦しむ人のことや、死んで甦ること人のことが書かれている箇所があるのですが、それがまさか主イエスにおいて実現するとは誰も想像しませんでした。ところが主イエスの復活の事実があって、旧約聖書に書かれてあることが本当であったということに気付くのであります。更に6節以下を読むと、「次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています」とあります。この手紙が書かれたのは、およそ紀元54年頃とされていますから、復活の出来事が起こってからまだ20年位しか経っていない頃で、実際に復活した主イエスに出会った人々も大勢生存していたわけです。
 
死んだ人が復活するなどということは、現代の私たちにはとても信じられないことですから、<教会が自分たちの教えを権威づけるためにでっちあげたのではないか>と考える人がいます。しかし、当時、科学的・合理的な思考が発達していなかったから、そんなでっちあげが通じたかというとそうではなくて、当時だって復活などということは誰も信じられなかったのです。そんな中で、復活の事実が次々と現されて、受け入れざるを得なくなって行ったのであります。またある人は、<キリストの死後、主イエスをなつかしむ人がたくさんいて、主イエスが生きておられるという幻想を持つようになったのではないか>とか、<生きていて欲しいという思いがつのって、復活したという思いに変わったのではないか>、などと考える人もいますが、当時の弟子たちの状況は失意のどん底にあって、とてもそんな思いやエネルギーが出る状況ではなかったようで、主イエスの復活の事実がなかったら、とても弟子たちは立ち上がれなかったのであります。主イエスを十字架に架けたユダヤの当局者たちは、何とか復活の事実をもみ消したいと考えた様子が伺えるのですが、それが出来なかったのであります。この手紙を書いたパウロ自身も、当局者たちの側に立って、キリストの復活を信じる人たちを徹底的に迫害するのですが、7節にあるように、ある時、このパウロに復活のキリストが現れて、一転してキリストの復活を宣べ伝える人になるのであります。
 
こういうわけで、キリスト教の信仰はこのイエス・キリストの復活の事実からスタートしましたし、一般の人々の復活に対する希望の根拠も、このキリストの復活ということを土台にしているわけです。

2.死者の復活はあるか

そこで今日の本題であります、「死者の復活」、即ちキリストではない一般の私たち人間の復活のことですが、コリントの教会の中には、それを信じられない人がいたようであります。12節を見ると、こう述べています。キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。ここで言われているコリントの教会の人たちは、キリストの復活が信じられなかったのではありません。それは受け入れたから、教会に加わっていたのです。しかし、自分たちの復活とか、既に死んだ仲間の復活ということはないと主張したのであります。彼らがそのように主張する背景には二つのことがあります。
 
一つは、初期の教会の人々は、自分たちが生きている間にキリストがもう一度来て下さって、この世の終末が来ると信じていました。自分たちは既に洗礼を受けて永遠の命を与えられるので、もはや自分たちは死ぬことはない、と思っていたのです。ところが再臨が起こらないうちに死んでいく人が出始めて、その人たちはどうなるのか、という問題が起こって来ました。そういう事態の中で、パウロたちは、そのように死んだ人も主イエスが再臨される日には復活すると教えたのですが、コリントの教会にはそんなことはあり得ないと主張する人がいたのであります。このような主張は今の私たちとは関係がないことですから、あまり関心が持てないかもしれません。
 
しかし、死者の復活がないとするもう一つの背景は、今の私たちも陥りやすいことですので、より深刻な問題だと言えます。それは、コリントの教会の人たちは、自分たちは洗礼を受けたことによって、既に復活したので、キリストの再臨があっても、復活は必要ないし、二度復活することはない、と考えたのであります。皆さんはこういう議論を聞いて、興味のない浮世離れした議論だと思われるかもしれませんが、実は、この中に現代の私たちに通じる重要な問題が含まれているのであります。というのは、コリントの人たちが考えたのは、復活ということを実際の命(肉体の命)が甦るのではなくて、心の中の問題、内面の問題だと捉えてしまっていたのであります。私たちも、体の復活というようなことは、なかなか信じがたいことでありますから、ついつい、復活を信じるにしても、その「復活」とは精神的なもの、あるいは霊の世界のこと、心の状態のことだと思ってしまって、体の復活とは切り離して考えてしまうのであります。そう考える方が納得しやすいからであります。しかし、このように復活を内面のことにしてしまうと、福音の最も大切な部分が飛んでしまうのであります。

3.私たちの復活――キリストを初穂として

というのは、復活というのは死が克服されることであります。なぜ私たちは皆死ぬのでしょうか。少し飛びますが21節以下を御覧下さい。こう書かれています。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。21,22節)旧約聖書の最初の創世記には人は神に似せて創られたことが書いてあります。ところが最初の人間であるアダムが蛇の誘惑に負けて、エデンの園の中央にある禁断の木の実を食べてしまうという罪を犯したために、その罰として死ななければならない存在になってしまうのであります。人は誰も、本来は死ななくてもよい存在として創られたのでありますが、神様に対して罪を犯すので、死ななければならなくなるのであります。ですから、復活ということは、罪の結果である死が克服されることであります。罪が赦されるということと結びついているわけであります。だから、復活ということが心の中だけの問題であれば、罪の問題の解決にはならないのであります。体の復活があってこそ、神様に罪が赦されて元の本来の人間の姿に帰るということになるのであります。
 
では、罪深い私たちがどのようにして、その体の復活が実現するかと言えば、イエス・キリストが私たちの受けるべき罰を代わって引き受けて下さって、十字架の上で死んで下さったことによって、死すべき私たちの罪が赦されたからであります。
 
とは申しましても、私たち罪を犯した者は、近いうちに主イエスの再臨がなければ、誰も、一旦は死ぬことを免れることは出来ません。肉体が一旦は滅ぼされるのであります。しかし、キリストの十字架の故に、罪が赦されるので、主イエスを信じて自分を委ねる者は、主イエスの再臨の日に復活させていただけるのであります。ここに、キリスト教信仰の真髄があるのであります。ですから、復活を心の中だけのことにしてしまったのでは、罪の問題の何の解決にもならない訳であります。それだからこそ、パウロは13節以下でこう言います。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。1315a)ここで「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」と言っていて、16節でも同じことを繰り返していますが、これは、主イエスの復活の根拠として一般の死者の復活を持ち出しているような印象を与える言い方ですが、パウロがここで言いたいのはそういうことではなくて、一般の死者の復活ということは、キリストの復活という事実から出てくる当然の帰結であって、キリストの復活を信じていながら、一般の死者の復活を認めないのはおかしいということを言っているのであります。キリストの復活がなかったら、パウロたちが宣べ伝えている死者の復活という信仰は無駄になるし、ありもしないことを証言している偽証人になってしまうが、キリストが確かに復活されたのだから、一般の死者も復活するということは、どうしても伝えなければならない大事な事柄である、と言いたいのであります。
 
その言いたいことが、20節ではストレートに述べられています。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。つまり、多くの一般の人の復活の先頭を切って主イエスが復活されて、それに続いて、これまで信仰を持って亡くなって今は眠っておられる方々も、再臨の時には復活されるし、私たちも、それまでに死ぬことがあっても復活できる、それが神様の御心である、ということであります。主イエス・キリストはすべての人々の罪を担って十字架に架けられました。その主イエスを神様が復活させられたということは、主イエスの十字架によって人間の罪の問題が解決されて、罪のために死ななければならなかった状態から自由にされて、復活できるようになった、だから、この主イエスを信じる人はたとえ死んでも、終わりの日には復活できる、ということであります。これが、パウロがここで言いたいことであり、2000年の教会の歴史の中で、言い伝えて来たことであり、今日、この召天者記念礼拝においても聴かなければならない神様からのメッセージなのであります。
 
21,22節は、そのことを先ほども少し触れた、最初の人アダムとの関係で述べています。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。最初の人アダムが罪を犯したために、アダムに続く全ての人は、神様に対して罪を犯してしまうようになって、死という刑罰を受けなければならない存在になったのですが、その状態をひっくり返したのがキリストで、罪のないキリストが十字架という神様の刑罰を引き受けられたことによって、すべての人の罪が赦される条件が整ったので、すべての人が復活して生かされる道が開かれた、ということであります。
 多くの人々は、死というものを避けられないもの、誰でも、いずれその時を迎えざるを得ないものとして、諦めております。そして、その時ができるだけ遅く来るようにと願い、また死んでから地獄に行かないように、生きている間に善行を積まなければならない、などと考えるのであります。それは、死というものに支配された考え方であります。初めから死の力に負けてしまっているのであります。しかし、人間は初めからそのように創られたのではありません。創り主である神様と良好な関係に生きるように創られたのであります。それを妨げているのが、罪の存在であります。この問題は私たちの力では解決できません。そういう意味では死を免れることは出来ないのであります。しかし、神様の御心は、そのままでよいとは考えておられない、ということであります。神様がキリストを世に遣わされたのは、この罪の問題の解決のためであります。この神様の御意志は、2000年前のことだけではなくて、今も続いているのでありまして、私たち一人ひとりの罪の問題を何とか解決したいと考えておられるのでありまして、そのために世界中に教会を建て、このイエス・キリストによる罪の解決という福音を宣べ伝えることを続けさせておられるのであります。

結.これからの生き方――神との交わりに生きる

終わりに、このようにして神様によって備えられた死を克服する道、復活の命に向かって歩む人生とは、どういうものであるのか、ということをお話しておきたいと思います。
 
私たちはこの地上の人生を歩んでいる間は、なお罪を犯してしまいます。ここで言う罪とは、単に間違ったことをしてしまうということではなくて、神様との関係を損なうようなことをしてしまう、神様を信頼して自分を委ねることができなって、神様を見失ってしまう、ということであります。だから、誰も遅かれ早かれ死の審きを免れることは出来ないのであります。しかし、今日聴いて参りましたように、神様はそういう私たちの罪を赦す道を既に備えておられ、主イエスを信じることによって復活できることを約束して下さっているのであります。それは単に心の平安というような内面の問題に解消されるような事柄ではありません。体も心も復活されるのであります。そればかりでなく、生きている間に主イエスを信じ、神様に全てを委ねるならば、罪の審きを恐れることなく、死ぬことさえ恐れることなく、平安のうちに生きることが出来ます。それも、心の中だけの精神的な安心にとどまるものではありません。肉体をもって生きる生き方、地上における生き方が変わって来ます。どう変わるのでしょうか。
 
第一に、地上での他人の評価に惑わされない生き方が出来ます。誰でも人の目が気になります。人の目を意識するあまり、自分の行動が制約されたり、曲げられたりします。それに対して、復活の命に向かって歩む人生においては、神様との関係を第一にする生き方をします。それは神様の審きを恐れて神様の目を意識して萎縮した生き方をするのとは違います。神様は私たちの罪を赦そうとしていて下さるのですから、神様の審きを恐れる必要はありません。審きを恐れるのではなくて、神様の御心に従うことを喜んで、自由で大胆な生き方が出来るということであります。
 第二に、限られた地上の生ですが、精一杯生きることが出来ます。私たちに神様から与えられている地上の生の時間は短いのであります。詩編の言い方に従えば、「われらの寿命は七十年程にすぎません。健やかな人であっても八十年」であります。いや、もっと若くして人生を終えなければならない人もいます。しかし、その短い人生も神様が与えられたものであって、短いから意味がないことはありません。短くても神様と関係を持って生きる時に、そこに生きがいを見出すことが出来ます。今日の箇所の少し後の32節の3行目から読みますと、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります、とあります。神様と関係のない人生にあっては、こういうことにならざるを得ません。しかし、復活を信じる人生にあっては、明日は死ぬ身であっても、その短い一日に意味を見出すことが出来ます。
 
第三に、主を信じて生きる時には、神様との関係が良好になるだけではなくて、人間との関係も変わって来るのであります。人間は誰も罪深い者たちであります。その罪が人間の関係を損ないます。しかし、この罪の問題の解決について神様が御子を十字架に架けるほどに配慮して下さっていることを知るならば、人間関係についての処し方が変わって来ます。自分の立場だけで考えるのではなくて、相手の立場にも立つことが出来るようになります。苦手な人、愛せない人をも愛することが出来るようになります。なぜなら、神様は私たちが愛せない人をも愛しておられ、たとえその人に過ちがあり、罪があったとしても、神様をその人の赦しのためにも、独り子イエス・キリストの命を献げて下さったからであります。
 
最後に、19節の言葉を聴きましょう。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。――この訳ですと、<ありもしない復活に望みをかけているだけなら、惨めだ>というように受け取ってしまうのですが、ここの「だけ」という言葉は「望み」にかかっているのではなくて「この世の生活」にかかっていると理解すべきで、その意味は、<この世の生活のためだけにキリストに望みをかけているのなら惨めだ>ということであります。私たちが信仰を持ち、復活を信じて生きるというのは、この世の生活を幸せに生きる、あるいは有意義に生きるためだけではありません。先ほど復活を信じて地上の生を生きることの意義を三点挙げましたが、それだけではなく、終わりの日に、罪を赦されて復活して、キリストとお会いできる、そして、先に信仰を持って召された方々と共に、神の国の喜びの席に連なることが出来るという大きな恵みが待っているということであります。私たちは今日、その大きな希望へと招かれているのであります。召天者記念礼拝とは、先に召された方々を偲んで、その方々の上にあった神様の恵みを思い起こすだけではなくて、その方々と共に神の国の喜びに与る希望を与えられる礼拝なのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
先に召された方々は、今は平安のうちに静かに眠っておられますが、今日、私たちには主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって新しい復活の命が約束されており、終わりの日に、先に召された方々と共に喜びの席に招かれていることを覚えることが出来まして、有難うございます。
 
どうか、あなたの招きに応えることによって、私たちの残された人生を御心にかなって歩むことができますように。そして、ここに集っております全ての者が、キリストの復活を信じ、また自分たちの復活を信じて、終わりの日の喜びの席に共々に連なることが出来ますようにお計らい下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝(召天者記念礼拝)説教<全原稿> 2012年11月11日  山本 清牧師 

 聖  書:Tコリント15:12−24
 説教題:「
死者の復活」         説教リストに戻る