序.カルデア人の中で

先週までイスラエルの王国史を学んで来ました。先週はネヘミヤ記によって、バビロン捕囚からエルサレムに帰ったイスラエルの民が、神殿や城壁の修復を行った後に、律法の書を読み上げて礼拝を行った場面から御言葉を聴きました。
 
今日のダニエル書は、そういう歴史的な時間の流れからしますと、少し逆戻りするのですが、バビロンでの捕囚時代のことが描かれています。ダニエル書は、これまで読んできた歴史書とは違って預言書に分類されますが、内容的には、前半の6章までは捕囚中の預言者ダニエルに託して書かれた<苦難の中における神の救いの物語>で、後半の7章以下はダニエルが見た幻の形で書かれた黙示文学であります。
 
今日の1章の初めは、ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった、とあって、バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲したところから始まっています。彼はエルサレム神殿の祭具類を手中にして、バビロンに持ち帰り、自分たちが拝む神々の宝物倉に納めます。それだけではなく、4節以下にあるように、体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年をバビロンに連れて来させ、カルデア人の言葉と文書(もんじょ)を学ばせたのであります。
 
リュティという説教者は、この箇所の説教で、このエルサレム包囲の出来事を大昔のこととしてではなく、時代の状況を指し示している出来事として捉えて、「ネブカドネッアルは、数千年の時代を経て、今なお闊歩しています。・・・今日、いたるところにおいて、エルサレムはバビロン軍の包囲のもとにあります。なかんずく、バビロンの勢力は、特に、若者たちを捕虜(とりこ)にしています」と語っています。この説教は今から70数年前の第二次世界大戦前の時代になされたもので、優秀な若者たちが戦争へと駆り立てられて行って、教会に若者が少なくなっていったことを背景にして語っているのでありましょう。
 
こうした状況は今の時代とは大きく違うのですが、能力重視の傾向は当時より一層激しくなっていますし、若者の関心が華やかに見える方にばかり向けられて、教会に来なくなってしまっている現象は当時と本質的には同じだと言ってよいのではないでしょうか。
 
ところで、バビロン王ネブカドネツァルによって神殿の祭具類が持ち出されたことについて、聖書は2節でこう記しています。主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた、と。原文では、「主が彼の手に与えた」となっています。主なる神が主語であります。ここまでの王国史においても、主なる神が、偶像礼拝に傾くイスラエルの民を審いて悔い改めさせるために捕囚に至らせたのだということを聞いて参りました。ここに描かれるダニエル書の物語も、実は主が主導しておられる出来事なのであります。
 
さて、今日の物語は、バビロンに連れて行かれた少年たちの中の、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4人の物語であります。彼らの名前はすべてイスラエルの神様の名を含むもの(―エル、―ヤ)でありましたが、7節によれば、名前を異教の神々と関連するものに改名させられます。そして、4節にあったように、カルデア人(バビロン人の別名)の言葉と文書を学ばせられます。4人は異国の教育を受けて、その文化や習慣に馴染むようにされるのであります。5節によれば、王は、宮廷の肉類と酒を毎日彼らに与えるよう定めたとあるように、非常に優遇するのであります。こうして、彼らを懐柔し、手名づけて、自分たちの役に立つ人間に育てようとするのであります。北朝鮮による拉致と同じようなことが行われたということです。
 
『旧約新約聖書註解』の解説の中で、日本人は「郷に入れば、郷に従え」という言葉を大切にして、自分の信念とか信仰よりも、土地の風俗・習慣に合わせて生きる方が抵抗なく暮らせるという生活の知恵を体験的に学んで来たということを記していますが、そのような日本の土壌の中で、神様第一の生き方をすることは大変困難であります。
 
今日の箇所は、異国に拉致されたダニエルたちが自分たちの信仰をどのように貫いたかという物語であります。ここから、「郷に入れば、郷に従え」を大切にしている日本に生きている私たちが、どのように生きたらよいのかを学ぶことが出来るのではないでしょうか。そしてそのような生き方は、単に土地の風俗・習慣との間のことだけに止まるものではなくて、リュティの説教を紹介して触れましたように、時代の潮流や政治・経済・教育の流れに巻き込まれて自分を失ってしまうことから身を守ることにもなるのではないでしょうか。

1.自分を汚すまい――信仰の決断

ダニエルたちにとって毎日の食事の問題から躓かなければなりませんでした。宮廷の肉類と酒を毎日食べさせられることは、有難いことのようでありますが、ユダヤ人にとっては問題でありました。異教の国であるバビロンでは、肉類や酒は偶像に献げられる習慣がありました。それで宮廷で振舞われる食事をすると、偶像に献げられたものを飲食することになります。これは自分を汚すことになるので、ユダヤの律法では厳しく禁じられていることでありました。そこで、「郷に入れば、郷に従え」ということで簡単に妥協することはできません。しかし、王が与えたものを拒否すればどのような仕打ちを受けるか分かりません。けれども、ダニエルは、宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心いたします。信仰的決断をするのであります。そして、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出ます。
 
私たちも、この異教社会の中で生活するときに、様々の場面で信仰的決断を迫られることがあります。日本の多くの家庭では神棚や仏壇があります。家族の中で自分だけがクリスチャンだという場合に、どういう態度をとるのか、決断しなければなりません。命日のお墓参りや七五三などの宮参りが普通のこととして行われています。葬儀は仏式で行われることが多いので、親戚の葬儀とか勤め先や取引先の関係で、そのような場に出席しないというわけには行きません。地域のお祭や祭礼に参加をしないと、地域の交わりから阻害されることになるかもしれません。「郷に入れば、郷に従え」で、その場その場のやり方に従うのはやむを得ないことなのでしょうか。けれども、そのようなことでは、それこそ、自分を汚すことになってしまいます。また、形だけで心の篭っていないやり方で対応するのは却って失礼になります。それでは、他宗教の儀式には一切参加しない方がよいのでしょうか。そうとは限りません。キリスト者としての立場から何らかの形で慶弔の意を表す必要があります。ですから、信仰者としては一つ一つのケースについて、祈って御心を問いつつ決断をしなければなりません。それは恐らく、「郷に従う」やり方とは違ったものになるはずです。それが、人に躓きを与えず、好感をもって受け入れられ、キリスト者としての証しをすることになるのではないでしょうか。
 
このことは、直接宗教に関係した場面におけるキリスト者としての態度の問題に止まるものではありません。先ほども申しましたように、時代の潮流や政治・経済・教育の流れは、大きく変化しております。技術はどんどん進化いたします。その中で大切なもの見落としていないかを絶えずチェックする必要があります。先の東日本大震災で原子力発電に関する安全神話が大きく崩れました。人間の及ばない領域に踏み込み過ぎていたことが明らかになりました。ips細胞の作製で日本の山中教授がノーベル賞を受けたことで盛り上がっていますが、それを人体に適用する際には、技術に溺れて人間が侵してはならない領域に踏み込んで大きな間違いをしないような慎重さが必要であります。そうしたことに関してもキリスト者として、信仰に基づいた判断が必要であります。もっと身近なことで言えば、流行の歌とかネット社会の中にも異教的な要素や倫理的に問題のあることが入り込んで来ます。流されないように、信仰に立った判断や決断が求められる場面が、身の回りに沢山出て来るのではないでしょうか。

2.侍従長の好意――神の御計らい

さて、ダニエルは自分を汚すまいと決心して、侍従長に願い出ますと、9節にありますように、神の御計らいによって、侍従長はダニエルに好意を示し、親切にしたというのです。信仰による決断を神様は喜んで下さって、信仰を持たない侍従長をも動かして下さったということであります。侍従長は当然、王様を恐れています。王様の決めた食べ物と飲み物を飲食させないで、ダニエルたちの体調を崩すようなことになれば、自分たちの責任が問われて首が危うくなる可能性があります。そのような侍従長の立場を理解せずに、ダニエルたちが強引に自分たちに立場だけのことを考えて肉や酒を拒否したら、彼らに迷惑がかかってしまうかもしれません。そこでダニエルは一つの提案をします。十日間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにして、体調を崩して顔色が悪くなって王様に気付かれるような状態にならないかどうか、試してください、という提案です。
 
世話係はこの願いを聞き入れ、十日間彼らを試しましたが、ダニエルたちの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かったのであります。こうした野菜中心の菜食主義でも、穀類や豆類は含まれるでしょうから、栄養バランスは崩されず、健康を損ねることはなかったということでしょうが、それよりも、そこにはやはり神様の大きな御計らいがあったということでしょう。神様が侍従長の好意を引き出し、神様がダニエルたちの健康を支えて下さったのであります。信仰に立った決断の一方で、信仰を持たない人に対する配慮をしたことで、彼らを躓かせたり敵に回すこともありませんでしたし、神様の御計らいを証しするという結果にもつながりました。
 
私たちもまた、信仰に立ちつつ、自分の立場だけを主張するのではなく、信仰を持っていない人たちの立場をも配慮しながら、祈りをもって決断するならば、神様は大きな御計らいをもって応えて下さるということであります。

3.野菜だけ――神の口から出るパンによって

ところで、ダニエルたちは神様から与えられていた律法に従って、偶像に献げられた肉類と酒を避けることによって、健康を与えられ、このあと更に17節にありますように、知恵と才能を神から恵まれることになったのであります。律法は神様から出た神の言葉であります。申命記には、「人はパンだけで生きるのではなく、人は神の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記83)と書かれています。そして、イエス様が荒れ野で断食をして空腹になられたとき、悪魔から「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」との誘惑を受けられると、イエス様は、この申命記の言葉を引用して、悪魔の誘惑を退けられました。ダニエルたちも御言葉に従って、即ち神の口から出た御言葉のパンを食べて、肉を食べず、酒を飲まず、野菜だけ食べたことによって、体の健康だけでなく、心の健康、即ち信仰を守られたのであります。菜食主義が良くて肉や酒がよくないということではありません。人はパンがなければ生きて行けません。また、この世に生きて行くときに、この世の人々と絶縁状態で生きて行けるわけでもありません。この世の習慣や、神様を知らない人々のやり方とも付き合って行かなければなりません。しかし、その際に大事なことは、神様が与えて下さる御言葉のパンを食べることを忘れては、本当の健康、心の健康、霊的な健康が衰えてしまうということです。神様の口から出るパンを食べていることによって、霊的に満たされて、この世の人たちとは違う信仰的な判断や決断が出来ます。それと共に、生きるに必要なこの世の糧や知恵においても恵まれて、人々とも良好な関係を保つことが出来るということを、この物語は表しています。

4.どの占い師よりも――上よりの知恵

この物語の結末が17節以下に記されています。この四人の少年は、知恵と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができました。ネブカドネツァル王の定めた年数がたつと、侍従長は少年たちを王の前に連れて行って、王と彼らは語り合ったのですが、彼らと並ぶ者はほかにだれもいなかったので、この四人は王のそばに仕えることになりました。そして20節には、こう書かれています。王は知恵と理解力を要する事柄があれば彼らに意見を求めたが、彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れていた。少し誇張した表現で書かれていますが、そこに神様の大きな計らいが働いていたということが言いたいのだと思います。ネブカドネツァル王が与えようとした贅沢な食べ物よりも、野菜中心の食べ物の方が、脳の働きをよくする効果があったのかもしれませんが、ここで言おうとしていることは、肉食主義より菜食主義の方が健康に良いとか、脳の発達に効果があるということではなくて、律法に記された神様の御言葉に従ったことによって、神様が知恵を与えられたということでしょう。先ほどのリュティという説教者はここで、ヤコブ書のこういう言葉を引用しています。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」(ヤコブ117)つまり、天の父なる神様から贈り物として知恵と理解力を与えられたということであります。受験勉強に忙しいので、礼拝に行けないというのではなくて、礼拝で神様の御言葉を聞いて従うことによって、神様からの知恵を頂くことができる、ということが言えるかもしれません。仕事が忙しいので礼拝に行けないということではなくて、礼拝で御言葉を聴いて魂の癒しを得て、本当の安息を与えられることによって、仕事の能率も上がるのではないでしょうか。日曜日には家族サービスをしなければならないので、礼拝に来にくいということがあるかもしれません。家族サービスは大切なことです。しかし、礼拝に来て、神様の愛に触れることによって、家族に対する本物の愛も育まれるのではないでしょうか。御言葉に対する信頼があるところに、神様は良き贈り物をもって応えて下さるのであります。

結.神は与えた――独り子を賜ったほどに

今日聞きましたダニエル書1章の中に、原文では「神が与えた」という言葉が4箇所あります。最初は、先ほど触れた2節ですが、そこで「彼の手中に落とされた」と訳されているのは、直訳すると「彼の手に与えた」でありました。9節に「侍従長はダニエルに好意を示し」とあるのは、主語は神様ではなくて侍従長ではありますが、直訳すると「侍従長はダニエルに好意を与えた」であります。その前に「神の御計らいによって」とありますから、本当の主体は神様です。16節で「野菜だけを与えることにした」も主語は世話係ですが、このことを実現させて下さったのは神様でした。17節の「この四人の少年は、知識と才能を神から恵まれ」となっているのは、原文を直訳すれば「この四人の少年のために、神は知識と才能を与えた」であります。ネブカドネツァル王は自分の権力によって、自分の思い通りに少年たちを育てて利用しようとしたのですが、すべてのことを導いたのは神様であり、少年たちに知識と才能を与えて良い働きをさせたのは、他でもない神様であったということであります。歴史を動かしているのは、権力者ではありませんし、優れた知恵を持っている人でもなくて、必要な一切のものを与えて下さる神様なのであります。
 
そして、私たちに最も必要で、どんな権力者も与えることができないものがあります。ヨハネ福音書316節にはこう記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」御子イエス・キリストこそ、神様の最大の贈り物です。教会はこの贈り物を与えられているので、時代の潮流に流されて大切なものを見失うことはありません。教会に若者が来なくなって、老人ばかりになって、やがて教会が世の中から姿を消すなどということはありません。世界はなお、王の王であるイエス・キリストの御支配のもとにあります。宣教の御業が絶えることはありません。その御業に仕える後継者が、必ず神様によって備えられる筈であります。
 
パウロはコリントの信徒への手紙の中でこう言っております。「知恵のある人はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。・・・神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Tコリント12025
 
バビロン捕囚という、権力者の圧倒的な力が支配する中で、信仰をもったダニエルたちの知恵と理解力が大きく用いられたように、教会と信仰者に与えられた神の知恵・信仰の知恵が、混沌としたこの世の中を救うことになるのであります。神様は今日も、私たちに御言葉による知恵と力とを与えて下さって、この世の只中へと押し出して下さるのであります。 祈りましょう。

祈  り

知恵と力の源である父なる神様!
 
世界の歴史を導き、御子イエス・キリストをこの世に与えて、救いの御業を為して下さったことを賛美いたします。
 
この世の勢力は大きく、その中で教会も私たちも流されてしまうのではないかとの不安に襲われそうになりますが、今日もこうして、御言葉によって私たちを励まして下さり、救いの御業を力強く進めておられることを覚えることが出来まして、感謝いたします。
 
どうか、私たちも、あなたの恵みの賜物を生かして、御業の一端を担うことが出来る者とならせて下さい。どうか、この世の潮流に呑み込まれることなく、信仰を貫くことが出来るようにさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年11月4日  山本 清牧師 

 聖  書:ダニエル書1:1−21
 説教題:「
神の御計らいによって」         説教リストに戻る