「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたあっちの力の源である。」
                                   (ネヘミヤ記810 

 バビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻って、神殿の再建と城壁の修復を終えたユダの民は、祭司エズラに律法の書を持って来るように求めたので、エズラはそれを夜明けから正午までかかって読み上げ、レビ人たちはそれを民に説明した。この時、ユダの民が行なったことは、私たちが行っている礼拝の本質を示していると言ってよい。
@「民は皆、水の門の前にある広場に集まって、一人の人のようになった」1)と記す。民が集まったのは命令されたからではなく、義務や義理で集まったのでもなく、自由意志による。そこには神の御手が働いていた。「一人の人のようになった」のは、民族意識や仲間意識が高揚したからではなく、律法を求める心において一つになったのである。教会の礼拝に集まる群れも、御言葉に対する渇きによって集まる時に、一体とされる。
Aレビ人が「神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した」8)。聖書の御言葉を理解するには、説明が必要である。しかし、礼拝の説教は講演や研究発表ではない。神が今日、私たちに語ろうとしておられることを聴き取って伝えることである。そのとき、御言葉が「理解」できる。
B律法の書を理解したユダの民は、「嘆いたり、泣いたり」9)、「悲しんだ」10)。彼らは御言葉を聴いて、聖なるお方の前に、自分たちの至らなさ、罪の大きさに気付いたのである。真剣に御言葉の前に立つとき、私たちは悔い改めに導かれざるを得ない。
Cだが、エズラは標記のように、「悲しんではならない」と言う。嘆いたり、悲しんでいるだけでは、御言葉の核心に触れていないのだ。御言葉は私たちを罪の奴隷状態から解放し、喜びをもって神を礼拝する者とする。
D更に、「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい」10)と言う。喜びは心の中だけではなく、具体的な行動となって現れる。しかも、その備えのない者をも喜びの席に招きたくなるのである。「喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」10)と。御言葉の喜びがあるところからは、どんな困難やサタンの攻撃も跳ね返す力が湧き上がるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年10月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ネヘミヤ記8:1−12
 説教題:「
主を喜び祝うことこそ」         説教リストに戻る