序.礼拝で起こること

主日礼拝では、6月以来イスラエルの王国史に沿って神様の救いの歴史を見て来ました。イスラエルの王と民の不信仰のゆえに、北王国イスラエルが滅び、続いて南王国ユダも滅ぼされて、バビロンへ捕囚となったのでありました。しかし、先々週のエズラ記では、ペルシア王キュロスが現われて、ユダの民がバビロンから解放されて、エルサレムに戻って、神殿の再建に取りかかったことが書かれていました。
 
先週は伝道礼拝だったので、福音書から御言葉を聞きましたが、カリキュラムでは神殿の基礎が据えられた場面を取り上げることになっていました。その後、神殿の工事が進み、完成に漕ぎつけることが出来て、祭司エズラもエルサレムに帰還いたします。続いてネヘミヤ記に入りますと、ここでは、壊された城壁の修復が行われたことが記されています。このようにして、エルサレムの復興が進み、人々も次々と帰って来たのであります。
 
そして、今日の8章では、人々が水の門の前の広場に集まって、祭司エズラに「モーセの律法の書」を持って来るように求めたこと、その律法の書をエズラが夜明けから正午までかかって読み上げると民は皆、神様を賛美したこと、続いてレビ人たちが律法の意味がよく分かるように説明すると、人々はよく理解して、大いに感激したことが書かれています。
 
このことが行われたのは、城壁の東側にある水の門の前の広場で、神殿の中ではなかったのですけれども、行われたことは「礼拝」であったと言ってよいのではないかと思います。場所や形式は整っていなかったとしても、礼拝で行われる本質的な事柄がそこで起こっていたと言えるのではないかと思います。そこで今日は、この「律法の朗読」という出来事をもう少し丹念に見て行きながら、私たちも礼拝の本質に触れ、私たちの中でも本当の礼拝が起こされるように導かれたいと思うのであります。

1.集まる

7章の最後の部分から読みます。
 
第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。772b81
 
ここで特徴的なことは、人々が集まって来たのは、指導者がいて招集をしたからではなくて、自分たちの自由意志によって自然に集まって来たということであります。書記官であり祭司でもあったエズラが人々を呼び集めたのではありません。むしろエズラは人々から律法の書を持って来るように求められたのであります。人々が自然に集まって来た背後には神様の御手が働いていたのでありましょう。礼拝というのは、教会の牧師とか長老とか委員が号令をかけるとか、必死になって呼び集めるものではないということを表しているのではないでしょうか。と言っても、礼拝を休んでいる人たちに声をかけるとか葉書を出すとか、伝道集会にチラシを配ったり、新聞折込みなどしなくてもよい、ということではありません。イスラエルの人たちも、実際には互いに声かけをしたり、誘い合って来たのかもしれません。そういうことが自然に出来たということでしょう。誰かの号令によって渋々来たとか、誘われて義理で来たというのではなくて、自由な求めから集まって来たのであります。私たちの礼拝も、義務感や義理で集まるものではありません。背後には神様の導きがあります。
 
「広場に集まって一人の人のようになった」と書かれています。面白い言い方です。心が一つになったということを言い表しているのでしょう。どういうことで一つになることが出来たのでしょうか。エルサレムの神殿や城壁が修復されて、民族意識が高揚したということもあるかもしれません。しかし、単なる民族意識によるものではないことは、彼らがエズラに律法の書を持って来るように求めたことから分かります。つまり、彼らは神様からイスラエルの民に授けられた律法の書に書かれた神様の御言葉を聞きたかったのであります。御言葉に対する渇きにおいて一つになった、ということであります。「モーセの律法の書」と書かれています。いわゆる「モーセ五書」と呼ばれる、旧約聖書の創世記から申命記に至る五つの書であります。そこには律法そのものも含まれていますが、王国誕生までの神様による救いの歴史が記されています。イスラエルに対する神様の選びのこと、族長たちの働き、そして出エジプトの救いの出来事なども含まれています。神様の恵みがそこに凝縮されています。それらの恵みを再確認したいという思いで一つになったのでありましょう。私たちが一つになるのも、互いに気が合うからではありません。同じ境遇にあったり、同じような問題意識があるからではありません。御言葉によって神様の恵みを確認したい、救いの恵みを共有したいということによってであります。その点以外では、イスラエルの民も決して一枚岩ではなかった筈であります。利害が相反する人たちが含まれていた筈であります。バビロンで捕囚になっていた人たちは社会的に指導的な立場にあった人たちであるのに対して、エルサレムに残された人たちは農業を営む人たちで、貧しい人たちでありました。社会的・経済的には違った立場にあったと思われます。しかし、御言葉を求めるという点では一つであったのであります。教会の礼拝に集まる人も、年齢・性別・職業の違い、貧富の差、社会的立場、趣味やセンスもまちまちであります。そうでありましても、御言葉を求めるという点では一致できるのであります。他の違いは問題にならないのであります。たとえ色々なことで意見の違いがあったとしても、御言葉の前では一致できるのであります。逆に言うと、もし御言葉を求めるということでの一致がなくて、それ以外のことでしか繋がっていなかったとしたら、それは早晩破綻するしかない、ということであります。不幸にも教会の分裂ということが時々起こったりしますが、それは御言葉を求めることにおいて、一つになっていなくて、他のことに関心や求めが向いてしまっているからであります。分裂というところまでには至らなくても、礼拝に行く気が起こらないとか、礼拝に出ても面白くないというのは、御言葉に対する渇きがないからであります。もっとも、御言葉への求めとか渇きというものは、御言葉を聞くことの喜びを知っているから起こるのでありますから、まずは、御言葉の喜びに触れる必要があります。喜びを与えるメッセージに出会う必要があります。求道者が初めから御言葉を求めるということはないでしょう。また逆に、もし毎週の礼拝において喜びを引き出すメッセージが語られていなかったとしたら、そんな礼拝に出たくないと思うでしょう。仮に面白い話や為になる話、感動的な話が語られていても、それが福音の喜びに繋がるものでなければ、決して長続きしません。本物の御言葉の恵みが語られているのでなければ、そのような礼拝はすぐに飽きられてしまいます。教会が「一人の人のようになる」ための秘策はただ一つ、本当に御言葉が語られ、求められているかどうか、ということであります。

2.理解する

次に、2節、3節を読みます。祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。ここに、「理解することのできる年齢に達した者」という言い方が二度出て来ています。これは、言葉を十分に理解できない子供を礼拝から排除するとか、子供には神様の御心が通じないという意味ではないでしょう。御言葉は理解できないのでは意味がないということであります。7節を見ますと、レビ人の名前が並べられた後、それらのレビ人がその律法を民に説明したと書かれています。この「説明した」という言葉は、「理解する」という言葉と同じ言葉が使われています。「理解できるようにした」という意味です。また、8節を見ると、彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した、とあります。律法はヘブライ語で書かれていましたが、聞く人々の多くは日常語であるアラム語を使っていましたので、レビ人たちが翻訳をして、意味の分かりにくい箇所は説明までしたのであります。その結果、人々は律法の御言葉が理解できたというのです。
 
このことから教えられることは、聖書の御言葉を語る場合も、聞く人が理解するためには意味を明らかにする説明が必要だということであります。意味を明らかにするということは、単に解説のようなことをするだけでは不十分でしょう。礼拝の説教というのは、講演や聖書研究ではありませんから、聖書の解説にとどまっていてはいけません。神様が今の私たちに対して何を語っておられるのかということが聴こえて来るように語られるのでなければ、御言葉を理解したことにはならないでしょう。第5日曜日の礼拝後に「黙想ワークショップ」というのをしていますが、これは聖書の中から自分たちに語られている御言葉を聴き取るための作業であります。牧師が説教の準備をするということも、聖書に書かれていることの中から今私たちに神様が語ろうとしておられることは何かを聴き取って、それを理解していただくためにはどのように伝えたらよいかを思い巡らす作業であります。こういう作業を丁寧にしないと、御言葉は理解されないし伝わらないということであります。レビ人たちがそのことをしたように、牧師はそのことに力を注がなくてはならないわけですが、どうか御言葉を受け取る皆様も、イスラエルの人々が何とか律法の書から御言葉を聞きたいと、心を一つにしてエズラに迫ったように、礼拝において神様はどのような御心を示して下さるのか、御言葉を渇望する思いをもって礼拝に臨んでいただきたいのであります。

3.嘆いたり、泣いたりする

さて、イスラエルの人々は読み上げられ、説明が行われた律法の書に対して、どのような反応をしたでしょうか。9節を御覧ください。
 
総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。
 
人々は神の言葉を聞いて、自分たちのことを嘆いて、泣いたのであります。なぜでしょうか。律法の言葉を守っていない自分たちの姿が明らかになったということがあるでしょう。また、神様がアブラハム・イサク・ヤコブといった父祖たちを通して、また出エジプトの出来事を通して、イスラエルの民に対してこれほど恵み深く関わって来られたのに、自分たちはその恵みに応えて来なかったということ、そして恵みの神に信頼せずに、偶像礼拝を容認したり加担してきた罪を、改めて思い知ったからでありましょう。御言葉は自分たちの至らなさ、神様に対する罪の大きいことを明らかにいたします。御言葉は私たちの醜い本当の姿を抉り出します。もし御言葉の前に立ちながら、自分の行動の言い訳の材料として御言葉を用いるような聞き方をしたり、聖書の言っていることと自分の考えとは一致しているなどと、思い上がった聞き方をしたり、あの人はこの御言葉に違反しているなどと他人を批判する材料にするような聞き方をしているとすれば、まともに御言葉に向き合っていないということであります。御言葉に正面から向き合うならば、御言葉は私たちの問題点を深く抉り出す筈であります。自分のして来たこと、言って来たことがどれほど御心に反したことであるか、神様と人に対して、どれほど大きな罪を犯して来たかということに、気がつく筈であります。「今日は、聖なる日だ」と言っております。「聖」とは分離するという意味があります。御言葉を聞くと、自分は神様から分離されるべき罪人であることを知るのであります。
 
ペトロがイエス様に最初に出会った時、イエス様はペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。それに対してペトロは「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言いました。しかし、「お言葉ですから」と言って網を降ろしてみると、舟が沈みそうになるくらい、魚がいっぱい獲れました。そのときペトロが言ったのは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ519)という言葉でした。私たちが主イエスの前に立ち、御言葉を聞くとき、私たちの罪は暴き出され、私たちは聖なるお方の前に近づき得ないものであることを覚えて、恐ろしさの余りひれ伏すほかないのであります。もし、礼拝に来ていながら、自分の罪に気付くことがなく、自分を誇っているようであれば、説教者が御言葉をまともに語っていないか、聞き手が御言葉を真剣に受け止めていないかのどちらかであります。

4.悲しんではならない

しかし、今日私たちが聴かなければならないのは、そこまでではありません。そうではなくて、自分たちの罪を思って嘆いたり泣いたりしている人々に向かってエズラとレビ人たちが言った次の言葉を聞かなくてはなりません。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言います。10節では更に、「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と言っております。そして11節でも、レビ人も民全員を静かにさせて、「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない」と語るのであります。
 
エズラたちは人々が悲しんでいることにストップをかけます。神様の前では、嘆いたり、泣いたりすることは相応しくないのであります。神様の言葉の前に出る時、私たちの暗い部分が抉り出されます。罪が明らかにされます。神様の前に顔を上げることが出来ないようになります。しかし、そうして嘆き悲しんでいるだけでは、まだ神様の言葉を正しく聴いていないのであります。神様と私たちとの間に、サタンが入り込んで、私たちを神様から引き離そうとしているのであります。悲しんでいることは神様の御前には相応しくないのであります。神様の御言葉を正しく理解するならば、悲しんではならないのであります。なぜでしょうか。嘆き悲しみに留まっているとするならば、まだ神様の御言葉の核心を聴いていないからであります。

5.主を喜び祝うことこそ

10節でエズラが、「今日は、我らの主にささげられた聖なる日」と言うように、御言葉を聞くならば「主を喜び祝うことこそ」相応しいからであります。神様の御言葉の前に立つ日、礼拝の日とは、主を喜び祝う日であります。泣いたり悲しんだりするのではなくて、喜び笑う日であります。礼拝に来て、浮かない顔をしたり、うなだれているのは、まだ神様の御言葉の肝心の部分を聴いていないということです。神様を理解するということは、神様を喜ぶということであります。神様の大きな恵みに歓声を挙げるということであります。神様が律法を与えられたのは、イスラエルの人々を苦しめたり悲しませたりするためではありませんでした。神様のところにある大きな喜びに与るためでありました。神様の律法の前に立って、自らの罪に気付くことは大切ですが、神様はその律法によって私たちをやっつけようとなさっているのではありません。神様は私たちを御前に相応しい者へと造り変えて、喜びのうちに生きることが出来る者にしようとしておられます。サタンの支配の下にある者を、神様の御支配のもとに引き入れようとして下さっているのであります。神様はイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から連れ出して、自由に礼拝できる民にして下さいました。
 
そのように、私たちをも罪の奴隷状態から導き出して、自由に喜びをもって神様を礼拝する群れにしようとして下さっているのであります。そして神様は、私たちと一緒に喜ぼうとしておられるのであります。神様は私たちがしかめ面をしていることを決してお喜びになりません。神様は私たちに喜びを与えるお方であります。
 
詩編126編を御覧ください。(p971
 
主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。16
 主はわたしたちのために大きな業を成し遂げられたのです。罪に捕われていた状況から解放してくださったのであります。だから私たちは喜ぶのです。涙と共に種を蒔かざるを得なかった人も、喜びの歌と共に刈り入れることが出来るようにされたのです。
 
パウロはフィリピの教会の信徒に宛てた手紙の中で言いました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。主はすぐ近くにおられます。…どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」(フィリピ4:4,5)こう書いたパウロは獄中にありました。手紙を受け取ったフィリピの教会も決して安閑とできる状態にあったわけではありません。立派な強いキリスト者たちに向かって言ったのでもありません。弱さの中にありながら、嵐がまだ吹き荒ぶ中にありながら、「喜びなさい」と語るのであります。それは、キリストの許には、大きな喜びがあり、平安があるからであります。

結.分かち合い、喜び祝う

もう一度ネヘミヤ記のエズラたちの言葉に戻ります。10節で、「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい」と勧めています。喜びは心の中だけに留まっていないで、外に現われるはずであります。「良い肉をたべ、甘い飲み物を飲む」という宴を開くような、具体的な行動となって現われるはずだということです。外に現われないような喜びは本物の喜びではありません。喜びは隠すことができません。喜びはまた、自分だけのものにしておくことができません。「その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい」と言われています。救いの喜びに与った者は、まだ救いの喜びが届いていない人にも、喜びを分かちたくなります。そして一緒に喜びたくなります。先週の特別伝道礼拝で聴いた御言葉では、主イエスは天国のことを盛大な婚宴に譬えておられました。神様が喜びの席に多くの人々をお招きになるのが天国でありました。そのように、御言葉を聴く喜びに与った私たちも、喜びの席に人々を招きたくなるのであります。
 
10節の後半には、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と言われています。この原文を直訳すると、「主の喜びはあなたがたの要塞(砦)です」となります。主の救いを得て喜ぶところには、頑丈な要塞が築かれたように、サタンが攻め込む余地がないということでしょう。口語訳聖書では「主の喜びはあなたがたの力です」と訳されていました。「力の源である」というのはかなり意訳でありますが、言わんとすることをよく表現していると思います。救いの喜びがあるところからは、どんな困難や悪魔の攻撃も跳ね返す力が湧き出るのであります。罪に対する勝利があるのであります。礼拝において、福音の恵みを分かち合い、喜びに満たされているところからは、サタンをも打ち負かす力が溢れ出てくるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

喜びと力の源である父なる神様!
 
今日も、御言葉によって自らの弱さ・罪深さを覚えて、嘆かざるを得ない者でありますが、あなたは、「嘆くな、悲しんではならない」と言って下さり、あなたがイエス・キリストにあって備えて下さった赦しの恵みの喜びへと招いて下さいましたことを感謝いたします。
 
どうか、ここでの礼拝を、いつも御言葉の喜びで満たして下さい。どうか、多くの人々と喜びを分かつことが出来るようにして下さい。そしてどうか、この礼拝から、揺るぎない新しい生き方へと歩み出す力を得させて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年10月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ネヘミヤ記8:1−12
 説教題:「
主を喜び祝うことこそ」         説教リストに戻る