「『町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」
                        (マタイによる福音書2289 

 主イエスは、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と話し始められた。天国というと、苦しみ・悲しみがなく争いもない、のどかな楽園のような光景を思い浮かべるかもしれない。だが主イエスは王が催す婚宴に譬えることによって、もっと積極的な喜びに満ち、共に連なる人々との交わりや明日への希望に溢れた状態であり、そこに私たちが招かれて集まることを、主宰者である王(神)自身が誰よりもお喜びになることをお示しになった。
 そうであるのに、招かれた私たちは、畑や商売のこと、即ち、この世の仕事や生活のことを優先して、本当の喜びへの招きに応じようとしない。そこで、王()は標記のように命じる。天国には善人だけでなく悪人も招かれる。当時の習慣によれば、婚宴に着て行く礼服も招く者が提供した。そのように、天国の宴席に招かれる者には何の準備も求められない。私たちの前歴や才能・人格などが問われることはないということだ。主イエスは、一緒に十字架に架けられた犯罪人に「あなたは今日わたしと一緒に天国にいる」と約束された(ルカ2339-43)。こうして、天国の席は社会から除け者にされた者や罪人とされた人々も含めていっぱいになる。
 ところが、その中に、用意された礼服を着ていない人がいる。王(神)の喜びを共にしようとの意識がなく、義務的に席に連なっているだけなのだろう。この礼服とは何を指すのか。感謝の思いを身に着けていなかったとか、悔い改めに至っていないことと解することもできる。だが、詩編では「祭司らには、救いを衣としてまとわせる。わたしの慈しみに生きる人は、喜びの叫びを高くあげるであろう」(詩編13216)と歌われている。また、パウロは「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るように」(エフェソ422-24)と勧めている。つまり、礼服を着るということは、主イエスの十字架による罪からの救いの喜びを身にまとうことなのである。私たちには、そのような礼服が備えられている。それを身に着けて招きに応じさえすれば、天国の喜びの席に連なることができるのである。

米子伝道所 特別伝道礼拝説教<要 旨> 2012年10月21日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書22:1−14
 説教題:「
天国に招かれる人」         説教リストに戻る