序.天国についての誤解

今日のお話の題は「天国に招かれる人」といたしました。この題を見て、「縁起でもない。そんな話は聞きたくない」と思った人がおられたかもしれません。普通、天国に行くのは、死んでからのことだと考えられています。お葬式の時などに、ご遺族を慰めるために、「故人は、今や地上の苦しみから解放されて、天国で安らかに眠っておられることでしょう」という言い方をします。そういう言い方は必ずしも間違いではありませんが、その裏には、<天国というのは死んでから初めて行けるところ>という一般的な理解があります。しかしそれは誤解であります。聖書では、そのようには言っていないのです。
 
もう一つの誤解があります。それは、<悪いことをすれば天国に行けなくて、地獄に行かなければならない>という理解です。この理解に基づいて、<天国に行くためには、善行を積まなければならない>という教えが出て来ます。これも、まったく間違いというわけではないのですが、聖書が伝えようとしている中心的なこととは大きく違っていて、誤解と言わざるを得ません。
 
また、天国というのを<理想の楽園>のように捉えて、「そんなものは空想に過ぎない」とか、「人間の願望の表現でしかない」と考えて、切り捨てる人がいます。これも大きな誤解であります。天国とは人間が頭の中で考え出した<理想の国>のことではありません。
 
では、聖書は天国をどのようなところと語っているのでしょうか。また、どうすれば私たちが天国に行けると教えているのでしょうか。
 
先ほど司式者に読んでいただいた新約聖書の方のマタイによる福音書22章には、イエス・キリストが天国のことを、譬えを用いて人々に話されたことが書かれています。今日は、このイエス様の譬えによって、本当の天国のことを学びたいと思いますし、更に、そこから、私たちを天国へと招き入れようとされている神さまの御心を御一緒に聴き取りたいと思っています。

1.天国は婚宴に似ている

まず2節でイエス様は「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と話し始められました。息子や娘の結婚ということは、親にとってはこの上もなく喜ばしいことであります。出来るだけ多くの人と喜びを共にしたいと思います。その上、ここでは一般の息子の婚宴ではなくて、王子のための婚宴であります。王の跡継ぎが出来るという喜びが重なっています。王様にとって、また王国の民にとっても、最高の喜びに満ちた宴が催されるということです。天国は、そのような婚宴に似ていると言われているのであります。
 
このことによってイエス様が言おうとされていることは何でしょうか。ここで「王」とは神様のことであります。神様が最高の喜びの宴を開こうとしておられる、ということであります。天国というと、苦しみや悲しみがなく、争いのない平和でのどかな楽園のような光景を思い浮かべるかもしれません。婚宴で譬えられているのですから、確かに、苦しみや悲しみや争いのない状態を思い浮かべても間違いではないのでしょうが、婚宴で譬えられているということは、そのような悪いものがないというだけではなくて、もっと積極的な喜びに満ちた状況を考えなければならないということではないでしょうか。婚宴には美味しい食べ物が振舞われます。楽しい会話があります。希望に満ちた未来が開かれようとしています。そのように、天国には心が満たされる喜び、共に連なる人々との良い交わり、希望に満ちた明日への期待がある、ということであります。
 
もう一つここで聴き取るべきことがあります。この箇所の原文を直訳しますと、<天の国は、息子のために婚宴を催す王に似ている>となります。つまり、天国というのは婚宴に似ているというよりも、婚宴を主宰する王に似ていると言われているのであります。王様の行動、その思いが天国を表している、と言っていることに耳を傾けなければならないということです。天国の主人公は王である神様であって、宴の喜びの中心に神様がおられるということであります。天国の喜びの席に招かれる者たちも喜びに満たされるのですが、何よりも主宰者の神様がお喜びになる、ということです。神様は私たちを天国に招いて下さるのですが、それは私たちが喜びに与かるということではありますが、そのことを何よりも神様がお喜びになるのであります。神様が私たちと一緒に喜ぼうとして、招いて下さるのであります。
 
次の3節に進みましょう。「王は家来たちを送り、招いておいた人々を呼ばせた」とあります。当時の習慣によれば、予め招待状が送られていて、婚宴に招かれる人たちが決まっていました。そして準備が出来て、時間になると、使いの者が出かけて行って、4節にあるように、「食事の用意が整いました。・・・さあ、婚宴においでください」と言うのだそうです。この場合は「牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています」と言っています。最高のもてなしの準備が完了したということです。
 
また、当時の習慣によると、招かれる者は何の準備も要らなかったようであります。今の日本であれば、結婚式に招かれるとなると、それなりの準備が必要になります。お祝いは何にしようか。金額はどれくらいが適当か、当日は何を着て行こうかと、色々気を遣って準備を整えなくてはなりません。ところが彼らの習慣では、着て行くものも主催者の方が提供したようであります。ですから何を着て行こうか、何を持って行こうかという心配は一切必要なかったのであります。
 
このことは、天国に招かれる者も同様であるということを物語っております。招かれる私たちには何の準備も求められていません。招いて下さる神様の方ですべての準備を整えて下さっている、ということであります。天国に入るためには、私たちの方で、善いことをするとか、悪いことをしないとかいった何らかの資格が必要ではないかと思うのですが、ここで教えられることは、天国に入るためには何の資格も要らないということであります。

2.婚宴に来ようとしない者たち

以上のように、天国に招かれるということは、私たちにとって大きな喜びであって、何の負担も求められるものではないことなのです。ところが問題は、招かれた者たち、即ち私たちの対応の仕方はどうか、ということであります。婚宴の譬えを見て行きましょう。
 
3節にあるように、最初、王が家来たちを送って、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたのですが、来ようとはしなかったのです。そこで4節にあるように、別の家来たちを使いに出して、用意が整った食事の豪華な内容まで伝えます。しかし、5節、6節を見ますと、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった、というのです。
 
ここで家来たちを送ったということで示されていることは、直接的には、イスラエルの民が悔い改めるために神様が預言者と呼ばれる、神様の言葉を伝える人たちを遣わされたのだけれども、その人たちの言うことに耳を傾けようとしなかった、ということを表しています。招きを無視して、畑に出かけたり、商売に出かけた人というのは、この世の仕事に熱心のあまり、神様の招きに応えて礼拝に出かけることを喜びと思わない人たちであります。また、家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまったというのも、直接的には神様からの最後の使いとして遣わされたイエス様を人々が十字架に架けて殺してしまうという事態が切迫していることを言い表されたのでありましょう。
 
しかしこの譬えは、2000年前のイスラエルの人たちのことだけを指しているのでないことは明らかであります。神様は、かつての預言者に代わって、今は、聖書の言葉を通して、また教会の働きを通して、私たちを天国に招き入れようとしておられるのであります。神様は私たちが神様の許にある大きな喜びを知らないまま、様々の苦しみや悲しみ、孤独や絶望の中に放置されていることをお望みになりません。私たちを何とかして天国の喜びの祝宴に招こうとしておられるのです。
 
ところが私たちはどうでしょうか。今日、ここにお集まりの皆さんは、神様の招きに応えて来られました。神様は大いに喜んでおられるにちがいありません。しかし、私たちの中には、神様の招きを無視したり、何とか理由をつけて断ろうとする思いがあることを、イエス様は見抜いておられて、こんな譬えを私たちに語っておられるのではないでしょうか。私たちは正直言って、こうして神様の前に出て礼拝することよりも、畑や商売に出かけること、言い換えると仕事や家庭生活のことの方が大事だと考えてしまうのです。仕事や家庭生活のことに一生懸命になることは悪いことではありません。大切なことです。しかし、問題は、王である神様の招きとどちらが大切か、ということです。仕事は自分が生きるための手段というだけでなく、社会的にも重要な働きであります。家族を養ったり面倒を看るという責任も、決して疎かにはできません。しかし、それらのことが、神様からの招きに応じられないことの理由になっているとしたら、神様を軽んじているということにならないでしょうか。私たちはこの世の仕事の整理がついてから、神様の招きに応じればよいのでしょうか。神様が用意なさっている婚宴はそれほど粗末で、喜びの乏しいものなのでしょうか。そうではありません。最高の喜びを分かとうとして招いておられるのです。ですから、私たちは、大事な仕事の只中で、全てに先立って神様の招きに応じることが求められているのであります。それは、義務だとか命令だとかいうものではありません。それは私たちの人生にとって最も重要なこと、そして本当の喜びへの招きなのであります。
 
6節、7節には、遣わされた家来たちを殺してしまうというひどい仕打ちと、それに対して立腹した王が軍隊まで送って彼らを滅ぼし、町を焼き払ったということが語られています。大袈裟すぎる表現のようにも思えます。しかし、神様の招きに応じないということは、これほどに神様の意に沿わないことであり、厳しい審きを受けざるを得ないことだということを覚えなければならないのではないでしょうか。

3.だれでも連れて来なさい

イエス様の譬えはそこで終わりません。王は、招待した人が一人も応じないのを見て、家来たちに次のように命じます。8節からです。
 
「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」810節)
 
招いておいた人々が来なかったので、誰でも連れて来なさいと命じています。このことが直接的に意味しているのは、元々選ばれた民であるイスラエルの民に約束されていた救いの恵みが、その他の民にも拡大されるということであります。善人も悪人も皆集めたと言われていますように、イスラエルにおいて、罪人として蔑まされていた徴税人や娼婦といった人々にも罪の赦しが及んで、救いに入れられる、ということを意味しています。喜びの婚宴に招かれるのは善人でなければならないという資格は撤廃されたということです。天国には善人だけでなく、悪人も招かれるようになったということです。
 
イエス様が十字架に架けられたとき、他にも二人の犯罪人が十字架に架けられていました。一人はイエス様をののしって、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。ところが、もう一人の犯罪人は、「イエス様、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。するとイエス様は、「あなたは今日わたしと一緒に天国にいる」、とお約束なさったのです(ルカ233943)。罪のないイエス様が罪人の身代わりになって十字架にお架かりになったことによって、死刑囚さえも天国の宴席に連なることが出来るようにされたのです。もはや私たちの前歴や、才能・人格などが問われることはありません。だれでも、天国の喜びに与ることが出来るようになったのです。
 
10節では、「善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」と語られています。これはイエス様の約束として受け取ってよいのではないでしょうか。教会に集う者は少ないのが現状であります。この伝道所の礼拝に来る人もなかなか増えません。しかし、イエス様はこの譬えで、<礼拝の席はいっぱいになる>と約束しておられるのです。教会は、善人や立派な人だけに席が用意されているところではありません。イエス様は罪人と扱われていた人々と食事をすることを好まれました。仲間や社会から除け者にされている者を招かれました。そして、そういう人で天国の席はいっぱいになる、と約束されるのであります。私たちもその一人になれるのです。

4.礼服を着ていない者

ところがイエス様の譬えはそこでも終わりません。11節以下に、礼服を着ていない人を王が見つけて、外にほうり出させたことが語られています。先ほど触れましたように、当時の習慣では婚宴に着ていく礼服は招待する方が用意したそうです。ですから、急に招かれたので間に合わなかったという言い訳は成り立たないのであります。用意された礼服を着ていないということは、喜びの婚宴に連なるという意識がないか、無理矢理連れて来られて、義務的に席に連なっているだけで、招かれたことに何も喜びを感じていないということでしょう。
 
王はそれでも、「友よ」と親しみを込めて呼びかけながら、「どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と問いかけますが、その者は黙っていました。彼には、王の<一緒に祝って欲しい、喜んで欲しい>という心が通じていません。感謝もありません。むしろ、<なぜそんなものを着なければならないのか>と反抗してさえいるようでもあります。結局、この人は婚宴の席から暗闇にほうり出されてしまいます。この人のどこが問題だったのでしょうか。礼服を着るということはどういうことを表しているのでしょうか。
 
この「礼服」ということで譬えられていることについて、ある人は感謝の思いを身に着けていなかったことを象徴していると言います。ある人は「悔い改め」に至っていなかったことを表していると解説します。確かに、私たちが天国に招かれたなら、当然、感謝が必要でしょうし、これまでの罪を悔い改めなければなりません。そのような理解で間違いではないと思います。けれども、聖書の中には、恵みの席に連なる喜びをより一層知ることの出来る素晴しい聖句があります。
 
一つは詩編132編(旧p974)であります。これは神殿における礼拝の喜びを歌ったものでありますが、9節にこう歌われています。
 
あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は、喜びの叫びをあげることでしょう。
 
ここに「正義の衣」とあります。礼拝で喜びの叫びをあげるのは、「正義の衣」をまとうからだ、というのであります。「正義の衣」というのは、人間が正しいことをするということではありません。神様の正しさを衣としてまとうということであります。もともと天国に招かれる資格のないものが、礼服まで与えられて招かれたのであります。ですから、天国の宴席に連なるのに相応しい礼服とは、神様の赦しの恵みを身にまとうことであります。16節にも、同様の主旨のことが少し言い換えて歌われています。
 
祭司らには、救いを衣としてまとわせる。わたしの慈しみに生きる人は、喜びの叫びを高くあげるであろう。
 
天国とは、死んでから行くところではありません。ここに歌われているように、礼拝の席に列することが天国に招き入れられることであります。そしてそこでは罪からの救いという礼服を神様から与えられてまとわされます。だから喜びの叫びを高くあげるのであります。
 
もう一つ、新約聖書のエフェソの信徒への手紙422節以下(新p357)を御覧ください。
 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。42224
 
これはパウロという人の言葉ですが、彼によれば、「礼服を着る」ということは、「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てて、神にかたどって造られた新しい人を身に着ける」ことなのであります。つまり、イエスさまの十字架によって与えられた義の衣をまとうこと、これが天国にふさわしい礼服を着るということであります。それは、十字架による罪からの救いの喜びを身に着けるということであります。その喜びと感謝から、相応しい振る舞いや態度が生じて来ます。
 
私たちは元々、天国に席を持たない者でありました。招かれざる客でありました。その私たちが主イエス・キリストの十字架の故に、私たち自身は何の償いもせずに、何の準備もないままに、呼び出されて、教会の礼拝に招かれ、天国に席を持つようになる、という約束を与えられているのであります。

結.招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない

最後にマタイによる福音書22章に戻りますが、14節でイエス様は「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とおっしゃっています。多くの人が天国へと招かれています。否、「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも連れて来る」ようにと、全ての者が招かれているのであります。私たちも天国の席に連なるには相応しくない者でありましたが、神様の慈しみによって招かれて、このように天国の席を約束していただいたのです。しかしなお、私たちは与えられた礼服を身に着けることに戸惑いがあるかもしれません。そんな堅苦しいことは避けたいとか、自分はまだそんな資格がないという思いがあるかもしれません。しかし、神様は資格を問題にしておられるのではありません。私たちから自由を奪い取って縛りつけようというのでもありません。喜びの席に招いておられるのであります。本当の自由へと解放される喜びへと招いておられるのであります。そこには畑や商売に出かけることでは獲得することの出来ない喜び、仕事や家庭生活で得られるものを越えた喜びが待っています。私たちが自分の力では抜け出すことの出来ない罪のしがらみから解放される大きな喜びが待っています。
 
しかし、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」のが現実であります。礼服を着る決心がなかなか出来ない、神様の赦しの衣をまとう決心がなかなか出来ないのであります。けれども、神様は私たちを婚宴の席から追い出そうとしておられるのではありません。今日も、このように私たちに天国の譬えの御言葉を語って、何とか私たちを天国に招き入れようとして下さっているではありませんか。この神様の慈しみの御心を無にしないよう、そして神様と共にある、喜びに満ちた生涯を一日でも早く歩んでいただきたいと思います。婚宴は既に始まっています。招待状は既に皆さんの手許に届いているのであります。
 
お祈りいたします。

祈  り

慈しみ深い父なる神様!
 
今日はこの礼拝の席にお招きくださり、天国へのお招きにも与ることが出来まして感謝いたします。
 
私たちは、あなたの御前に出るには相応しくない者でありますが、そのような者をも喜んで受け入れて下さることを知らされました。
 
どうか、私たちのこの世における歩みにおいて、神様が備えてくださる礼服をまとって、神様と共にある喜びの日々を送ることが出来るようにして下さい。
 
どうか、今日この伝道礼拝に招かれた方々が、一人残らず天国の宴席に連なる者となることが出来ますようにお計らいください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 特別伝道礼拝説教<全原稿> 2012年10月21日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書22:1−14
 説教題:「
天国に招かれる人」         説教リストに戻る