序.失われた礼拝

先週まで旧約聖書の列王記を学んで来ました。先週は南王国ユダがバビロンのネブカドネツアル王によってエルサレムを陥落させられ、バビロン捕囚に至った箇所から御言葉を聴きました。神様を礼拝する神殿も焼き払われましたが、その際、中にあった数々の祭具類や宝物も取り出されて、バビロンへ運ばれました。もはやエルサエレムで礼拝をすることが出来なくなりました。礼拝が失われたのであります。
 
なぜそんなことになったのか。それは、学んで来ましたように、偶像礼拝がはびこり、歴代の王がそれを容認したり、偶像礼拝に加担したからでありました。先週の説教題は「神による捕囚」でありました。その題の意味は、ユダの王をはじめ人々が、偶像礼拝をはびこらせたことに対して、神様がお怒りになって、バビロン捕囚という審きをなさったということであります。エルサレムの陥落もバビロン捕囚も、そしてユダの民から礼拝を奪われたのも、神様がなさったことなのであります。その結果、ユダの民は、バビロンに連れて行かれた要人たちも、残された貧しい農民たちも、不安定で先行きの見通せない状態に陥ることになりました。
 
このことは、私たちもまた神様をないがしろにし、礼拝を疎かにするならば、不安定で先行きの見通せない状態に陥るという、審きを招くことになるということを示しています。私たちは神様をないがしろにする気はないし、礼拝は大切だと思っています。体調が悪かったり、大事な用事が重なったり、色々の事情があって、毎週ここに来ることが出来ないけれども、神様を疎かにしているわけではない、と思っています。私などは、牧師ですから、毎週の礼拝には出ないわけには行きませんし、週日も含めて、殆んどの時間を神様のために用いているという感覚で生活しています。しかし、私も含めて皆さんは、不安定で先行きの見通せない状態には陥っていないと言えるのでしょうか。恐らく誰も、<自分は何の不安も無い、神様の審きとは無関係だ>と言い切れる人はいないのではないでしょうか。
 
ユダの人々も、歴代の王たちも、恐らく神様をないがしろにしてもよいとは思っていなかったでしょうし、それなりに礼拝もしていたのではないかと思われます。しかし、同時に偶像や迷信からも離れられないでいたのであります。大事なことを決める時に、この世の基準による判断をしたり、自分を満足させることから抜け出せずにいて、すべてを神様に委ねる信仰が失われていたということでありましょう。
 
そういうことは、私たちの個人の生活の中でもあることですし、集団においても、また国家レベルにおいてもあることであります。今、わが国も、不安定で先行きの見通せない状態に陥っております。産業面でも国際関係の面でも国民の生活面でもそうであります。それは、政治や経済や外交の運営がまずいからということもあるかもしれませんが、その背後には、自分のことだけしか考えない社会になってしまていること、目先のことしか考えない時代の風潮とかいうことがあるかもしれません。更にその奥にあるのは、神様をないがしろにし、まことの神様への信仰を求めるということが無くなっているということがあるのではないでしょうか。そうした中で、教会やキリスト者もまた、ユダの民と同じように、本当の礼拝を失っているのではないか、ということを顧みる必要があります。神様がバビロンを用いてユダの民に対して審きを行われたように、私たちに対しても厳しい審きの御手を下されないとは限りません。いや、私たちが気付いていない間に、既に審きは始まっているのかもしれません。礼拝をしているつもりで、本当の礼拝が失われてしまっているかもしれません。
 
では、礼拝が失われてしまったとしたら、その先には、何の希望も見出すことは出来ないということでしょうか。イスラエルの民の場合はどうだったのでしょうか。神様はイスラエルの民を見捨てておしまいになったのでしょうか。――今日はそのことを、エズラ記に導かれながら、他の箇所も参照して、聴き取りたいと思っています。

1.解放の約束――第2の出エジプト

エズラ記というのは、バビロンに捕囚されていたユダの民が、エルサレムに帰ることを許されて、エルサレムに再び神殿を築いたことが書かれている書物であります。時代はバビロンに捕囚となってから約50年が経っています。バビロンでユダの人々がどのような生活をしていたか、詳しいことは分かっていませんが、捕囚の身であっても、ある程度の自由は与えられて、一定の居住地もあったようであります。けれども、他の国で過ごさなければならないのは、大変辛いことであったに違いありません。神様を礼拝することも、思うようには出来なかったと思われます。
 
ところが、バビロンの地方にペルシア人が大きな力を持つようになって、キュロスという王様がついにバビロン帝国を滅ぼしてしまいます。このキュロス王は今のイランに相当する広い地域を征服するのですが、彼は各征服民族の伝統を尊重する政策を行いまして、宗教の自由も認めたのであります。
 
では、捕囚となっていたイスラエル民族に対してはどのような政策をとったのか。11節を見ていただきますと、こう書かれています。
 
ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。
 
「エレミヤの口によって約束されたこと」とは、エレミヤ書の25章や29章に書かれていることなのですが、先週の説教では29章の一部を見ました。2910節以下にはこう書かれています。(旧p1230「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。」291014a
 
ここでは「七十年」と書かれていますが、これは象徴的な数字で、実際は約五十年後に起こるのでありますが、それは、神様が立てた「平和の計画」であると言われていて、捕囚の民を帰らせるという預言でありました。
 
同じようなことは預言者イザヤも言っております。イザヤ書4424節以下(旧p1134)を御覧下さい。
 
あなたの贖い主、あなたを母の胎内に形づくられた方、主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。(25節省略)僕の言葉を成就させ、使者の計画を実現させる。エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い、ユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃墟を再び興す。深い水の底に向かって、乾け、と言い、お前の大河をわたしは干上がらせる、と言う。キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う。442428
 
ここには、ユダの町々の再建と神殿の基礎が置かれることも預言されています。ここで注目したいのは、27節の「深い底に向かって、乾け、と言い、お前の大河をわたしは干上がらせる」という言葉です。これは、あの出エジプトの時にエジプト軍の追手が迫る中で、目の前の海が開いて乾いて、イスラエルの民はそこを渡ることが出来たという出来事を思い起こさせる表現であります。つまり、かつてイスラエルの民が経験したのと同じように、苦しい捕囚の身から解放されるということを言っているのであります。言わば、第二の出エジプトが起こるということであります。

2.心を動かされた

さて、今日のエズラ記に戻りますが、このように預言者たちを通して神様が約束されていたことが成就する日がやって来るのであります。1節をもう一度見ていただきますと、「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた」と記されています。面白い表現だと思いませんか。神様がキュロス王の心を動かされた、と言うのです。キュロス王は、ユダの民だけを特別扱いしたわけではありません。バビロンに捕囚となっていた全ての民を区別なく帰還されたことが知られています。前のバビロンのネブカドネツアル王は、滅ぼした民の中の要人を、バビロンに連れてくることによって、反乱などが起こる危険を取り除くという政策をとりました。一方、ペルシア人のキュロスは、支配下にあるそれぞれの民を地元に帰して、宗教的にもそれぞれの民族の自由を認めることによって、反ってペルシアに対する忠誠心を引き起こすという宥和的な政策をとったのであります。ですから、キュロスにしてみれば、自分なりの政策判断で行ったことであります。それにもかかわらず、聖書は、神様がキュロスの心を動かされた、と主張するのであります。
 
2節から4節まではキュロス王の布告の内容が記されていますが、ここを飛ばして先の5節を見て下さい。こう書かれています。そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした、と。ここには、ユダの民の側の対応が述べられているのですが、ここにも、「神に心を動かされた者」という表現があります。神様はペルシア王キュロスの心を動かされたし、ユダの民の方の心も動かされたというのです。全てが人間の企てによるのではなくて、神様のお考えと主導権によって行われたということです。先ほど聞いたイザヤやエレミヤの預言を語らせたのも神様でありました。そこに告げられていた約束を実現するのが、初めからの神様の御計画だったのであって、偶々キュロス王がユダの民に都合のよい政策をとったというのではないのであります。更に言えば、先週聞きましたように、元々バビロンに捕囚になったのも、政治的、あるいは軍事的状況からそうなったのではなくて、神様がユダの民の罪に対する審きとして行われたことでありました。そして今、神様が再び外国の権力者の心に働きかけて、彼らを用いて、ユダの民の信仰の回復を計られるのであります。
 
このような、歴史的・政治的出来事を神様の御心によるとする見方は、客観的に物事を考えようとする人からすると、単なる信仰の立場から見た狭い捉え方に過ぎないということになるのでしょう。しかし、世界を動かしておられるのは誰なのか、その真実を見落とすならば、全てのことが分からなくなってしまうのではないでしょうか。こうした国家レベルのことのみならず、私たちの日常のことまで、全て神様の御意志と御支配のもとにあることを知って、神様の御心に従った生き方をする時にこそ、祝福と希望に満ちた生き方が広がって来るのではないでしょうか。

3.神殿を建てるために

次に、2節から4節までのキュロス王の布告の内容を見ましょう。
 
「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。すべての残りの者には、どこに寄留している者にも、その所の人々は銀、金、家財、家畜、エルサレムの神殿への随意の献げ物を持たせるようにせよ。」――ここに記されている内容は、すぐ前の歴代誌下36章の23節以下に書かれてことと同じであります。けれども、エズラ記の方が、かなり言葉が多いです。そこにエズラ記の関心、あるいは主張が表されていると見ることが出来ます。
 
その第一は、「エルサレム」という言葉です。歴代誌では1回だけですが、エズラ記では4回も出て来ます。エルサレムというのは、単に南王国ユダの首都だったというだけではありません。そこには神殿があり、神様を礼拝する場所がありました。神様の御臨在が明確な場所でありました。そこに戻るということです。第二は、「イスラエル」という言葉です。歴代誌では「ユダ」という形でしか出て来ませんが、エズラ記では3節で「エルサレムにいますイスラエルの神」という形で出てきます。バビロンに捕らえられていたのはユダの民だけです。しかし、エズラは、北王国も含めた統一王国としてのイスラエルを意識していると言えます。かつて神様に導かれてエジプトから脱出させられたイスラエルの民全体の礼拝場所の再建が意識されているということであります。第三は、歴代誌にはない随意の献げ物を神殿へ持っていくことがエズラ記には書かれているということです。この随意の献げ物というのは、神殿を再建する際の資金源となるものであります。かつて、出エジプトの旅の中で神様を礼拝する幕屋を造るのに、随意の献げ物を献げたことがありました(出3529363)。また、6節を見ると、「周囲の人々は皆、あらゆる随意の献げ物のほかに、銀と金の器、家財、高価な贈り物をもって彼らを支援した」と書かれています。これは、イスラエルの民がエジプトを出る時にイスラエルの人々に差し出したこと(123536)を思い起こさせるものです。こうしたことは、先ほど少し触れましたが、今回のエルサレムへの帰還ということを、かつての出エジプトの出来事と重ね合わせて、「第二の出エジプト」と考えられていることを示しています。かつての出エジプトは、自分たちの礼拝が出来るようにされるためのものでありました。今回の第二の出エジプトも、異教の地から脱出して、エルサレムに神殿を再建することによって、自分たちの礼拝が出来るようになることを意味しているからであります。

結.礼拝の復活

今日は最初に、<私たちが礼拝を失ってはいないか>、という問いかけをいたしました。長く礼拝に来なくなっている方がおられます。礼拝に来ることの喜びが失われてしまったのでしょうか。生活の中から礼拝が失われてしまっています。しかしそれは、他人事ではありません。私たち自身が、礼拝には出ていても、喜びの礼拝を失ってしまっているということがあります。喜びの礼拝が失われているとすれば、それは第一には説教者の問題であります。説教者が御言葉の喜びや力を伝えることが出来ているのか、ということが問われなければなりません。説教者の信仰、説教者の姿勢が問われなければなりません。しかし、喜びの礼拝は説教者だけでは成立いたしません。御言葉を求め、御言葉に真剣に耳を傾けようとする方々、唯一の神様の前に跪いて、御心に従おうとする群れの存在がなくては、礼拝は成り立ちません。喜びの礼拝が失われるのは、牧師と信徒の双方から成る教会全体の信仰の状態に問題があるからであり、イスラエルの民がそうであったように、唯一の神様以外のもの、この世的なものに心が惹かれるという罪があるからです。その罪の故に、神様がバビロン捕囚を行われたように、神様が教会から礼拝を奪われるのであります。
 
しかし、神様はそのような状態を放っては置かれません。捕囚がイスラエルの民の悔い改めを導き、本当の信仰へと立ち帰るための神様の御配慮であって、その後にキュロスの心を動かされ、ユダの人々の心を動かされたように、神様は必ず礼拝の復活に向けて、働きかけて下さいます。キュロス王というのは、唯一の神様を信じているわけではありません。しかし、そのキュロス王が、エルサレムに神殿を再建するために用いられたことは、はるか後に、イエス・キリストがエルサレムで行われていた神殿の礼拝を再々建される日が来ることを指し示しています。今日の新約聖書の朗読ではヨハネ福音書の213節以下を読んでいただきました。そこには、所謂、宮潔めの記事が書かれています。主イエスは神殿の境内から商売人たちを追い出されました。それは、礼拝の場所で商売をするのがいけないというだけのことではありません。形だけの礼拝行われていましたが、本当の礼拝、喜びに満ちた礼拝が失われていたからであります。そして、主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とおっしゃいました。その意味は、主イエスが御自身の十字架の死をもって人々の罪を贖い、そこからの甦りによって本当の礼拝を復活されるということでありました。主イエスが教会という新しい礼拝共同体を建て、神殿を建て直されたのであります。
 
もし私たちの中から本当の礼拝が失われているならば、神様はそれを放ってはおかれません。キュロスを用いてエルサレムに神殿の再建を導かれ、主イエス・キリストをお送り下さって教会という神殿を建て直された神様は、必ず私たちの中にも、本当の礼拝を復活させて下さいます。エフェソの信徒への手紙221節以下に、パウロはこう書いております。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェ22122)私たちは、罪深く、信仰がぐらつき易く、喜びの礼拝が失われそうになります。しかし、その弱い私たちが、イエス・キリストにおいて用いられて、共に建てられて、神の住まいになるというのです。キュロスの心を動かし、ユダの民の心を動かしてエルサレムの神殿を建てるために上って行かせられた神様は、私たちの心をも動かして、私たちの礼拝を喜びの礼拝へと建て直して下さるのであります。20年前に、ここに米子伝道所を建てられた神様は、今も主の日ごとに私たちに御言葉をもって語りかけて、私たちの心を動かして、ここに神殿を建て直すために用いて下さるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

教会の頭、イエス・キリストの父なる神様!
 
エルサレムに神殿を建て、世界にキリストの体なる教会を建てて、今もなおその教会の礼拝を、建て直し続けていて下さることを覚えて、御名を賛美いたします。
 
この私たちの小さな礼拝は、私たちの不信仰のために、失われかねないように見えますが、どうか、聖霊において私たちの心を動かして下さい。そしてどうか、エルサレムに上って行った人々と同じように、私たちをも、主の日ごとに、礼拝の建て直しのために上って行って、あなたの建て直しの御業に参加する者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年10月14日  山本 清牧師 

 聖  書:エズラ記1:1−11
 説教題:「
神に心を動かされた者」         説教リストに戻る