エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨てられることになった。・・・・・王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。
                                 (列王記下2420256

 南王国ユダは、西の大国エジプトと東の大国バビロンの狭間にあって、政治的な読み違いをして、バビロンに反旗を翻したことから、バビロン王ネブカドネツァル率いる軍隊によってエルサレムの都が包囲され、ついに陥落した。ユダの要人は捕囚の身となり、一部の人はエジプトに逃れ、貧しい農民たちだけが残されて、ユダの民は大きな挫折を味わうことになった。だが、聖書はこれを、政治的失敗とは記さず、その原因はユダの王たちの罪にあり、標記のように、主の怒りによる事態だと記している。
 神はイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出されたように、私たちを罪の奴隷状態から救い出そうとしておられるのであるが、私たちは神に自らを委ねきることが出来ず、この世の大きな力に屈してしまい、その結果、人生の挫折を味わうことになる。それはサタンの力が大きかったからではなく、私たちの罪に対する神の怒りによる審きであると受け取らねばならない。
 では、神の怒りの審きを受けたなら、もはや救われる道はないのか。聖書は、2527以下に捕囚となっていたヨヤキン王がバビロン王のもとで手厚くもてなされたことを記し、イスラエルの民の救いの歴史が捕囚で終わってしまうのではないことを示唆している。また、預言者エレミヤを通して、捕囚の地で平安に過ごすようにとの主の言葉を伝え(エレ2947)、時が満ちたなら連れ戻すとの「平和の計画」を告げられた(エレ291014)。そして、その計画はやがて、キリストの十字架の御業によって、新しい契約(エレ313134)として実現するのである。
 私たちの挫折は、人間の罪に起因することであり、神の審きとして起こるのであるから、そこから人間の力で這い上がることは出来ない。人間の努力で立ち上がれたかに見えても、根本的な解決にはならない。しかし、神がキリストによって実現して下さった新しい契約(キリストを信じることによって救われるとの契約)に応答することによって、挫折から解放される道が拓かれる。私たちが経験する挫折は、私たちが救いの道を歩むようになるために神がなさったことであり、その先には大きな平安が約束されているのである。 

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年10月7日  山本 清牧師 

 聖  書:列王記下25:1−12
 説教題:「
神による捕囚」         説教リストに戻る