序.挫折は何のためか

私たちの人生の歩みは、いつも成功ということはあり得ませんし、いつも平穏無事ということもありません。誰でも失敗の経験をいたしますし、時には大きな挫折を味わうことがあります。<もう、取り返しがつかない>、という思いに満たされることだってあり得ます。入学試験や就職の失敗、結婚生活の失敗、事業の失敗、事故や災害に遭遇すること、大きな病気や不治の病に侵されること、などなどで、先の希望が見えなくなることがあります。東日本大震災では多くの人々が挫折の経験をさせられました。挫折の経験は、個人や家族レベルのものから、企業や団体レベルのもの、国家レベルのものまであります。教会という団体もまた挫折の経験をすることがあります。
 
私たちは旧約聖書に記されたイスラエルの王国史を駆け足で学んで来ましたが、今日の箇所には、エルサレムが陥落して王国の歴史が終焉した場面が記されています。イスラエル民族が大きな挫折を経験する場面であります。イスラエルの民にとって、これを単なる歴史的な運命と捉えることは出来ません。小さな弱小国家だから、止むを得ないというように割り切ることも出来ません。なぜなら、イスラエルの民は神様に守られて歩んできた特別な民だからです。なぜ、神の民であるイスラエルの民がこのような挫折を経験しなければならなかったのか、それは、神様から捨てられたということなのか、もはや、将来に対する希望は断たれたということなのか、という疑問が湧いて来ます。聖書というのは、旧約聖書と新約聖書を通して、この大きな疑問に答えるために書かれた書物であると言ってもよいかもしれません。そして、聖書の書かれていることは、単にイスラエル民族の挫折についてだけではなくて、私たちの人生における様々な挫折が一体何のためか、という問いへの答えをも提供するものなのであります。今日は、王国の崩壊とバビロン捕囚というイスラエルの民の挫折の歴史を通して、私たちの挫折のことを考えてみたいと思うのであります。

1.エルサレムの陥落とバビロン捕囚

先ほど朗読していただいた列王記下25章の1節から12節までに書かれていることは、南王国ユダの都であるエルサレムが、バビロンの王ネブカドネツァルによって陥落し、ユダの民が捕囚としてバビロンに連れ去られるという出来事であります。まず、それに至る経緯を見ておきましょう。
 
先週学んだヨシヤ王は、律法に従って宗教改革を行なって、「ダビデの道を右にも左にもそれない」と評価される善い王でありましたが、彼がエジプト王ネコとの戦いで戦死します。後を継いだヨアハズはエジプトに連れて行かれ、3ヶ月で死にます。そのあと、ヨヤキムが王になるのですが、その頃は、東のバビロン帝国が力を増して、北のアッシリアを滅ぼし、更にエジプトへ向かおうとします。ヨヤキム王は最初バビロンのネブカドネツァル王に服従するのですが、エジプトにつくのが有利だと見て、エジプトに貢ぎ物をして、バビロンに反旗を翻します。ところが、バビロンの方が強くて、エジプトに勝利します。ヨヤキムはその間に死んで、息子のヨヤキンが王となりますが、エルサレムはバビロン軍に包囲されて3ヶ月で開城して、ヨヤキンは捕らえられてバビロンに移されます。しかし、その時点では、バビロンはユダ王国を解体せずに、ゼデキヤを王に就けます。彼はバビロンのネブカドネツアル王に忠誠を尽くそうとしますが、内部の好戦派が優位になって、バビロンに反乱を起こします。このためエルサレムはネブカドネツアルが率いる軍に包囲されることになってしまいます。そこからが25章に書かれているのですが、エルサレムはほぼ1年半の包囲に耐えたのです。しかし、ついに城壁の一部が破られて陥落し、逃亡を企てたゼデキヤ王はエリコ付近で捕らえられ、報復としてゼデキヤの王子たちが目の前で殺され、彼も目をえぐられてバビロンに送られます。また、エルサレムの家々や神殿は焼き払われ、城壁は壊され、要人たちは捕囚としてバビロンへ連れ去られるのであります。

2.神による捕囚

以上が、エルサレムが陥落し、バビロン捕囚になった経緯でありますが、簡単に言うと、西の大国エジプトと東の大国バビロンの狭間で、小国ユダの王は政治的な駆け引きをするのですが、読み違えて失敗したということであります。しかし、聖書は、このようになった原因について、政治的な失敗だとは書かないのです。善い王とされたヨシヤ王のあとの、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤを見ると、全部、「主の目に悪とされることをことごとく行った」と書かれているのであります。(23323624919)その言葉が具体的に意味していることは、どの王も唯一の神の礼拝を怠って、偶像礼拝を容認したということであります。そして、2420節を見ると、エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった、と記すのであります。そこに至るまでの間、神様は手をこまねいておられたわけではありません。列王記の中にも、神様が何度も警告を発せられたことが記されていますし、当時南王国ユダには預言者のイザヤ、エレミヤがいましたが、イザヤ書、エレミヤ書を見ると、彼らは盛んに神様の警告を伝えております。例えば、イザヤ書38節以下(p1065)を見てみましょう。
 
エルサレムはよろめき、ユダは倒れた。彼らは舌と行いをもって主に敵対し、その栄光のまなざしに逆らった。彼らの表情は既に証言している。ゾドムのような彼らの罪を表して、隠さない。災いだ、彼らは悪の報いを受ける。しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる。主に逆らう悪人は災いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける。(イザヤ3811
 
このイザヤの言葉が語られたのは、エルサレムの陥落よりも何十年も前だと思われますが、イザヤははっきりと、「エルサレムはよろめき、ユダは倒れた」と語っています。そして、その原因は彼らの罪にあり、彼らは悪の報いをうけるのだ、と言うのであります。しかし、イザヤは審きの言葉を語るだけではありません。「主に従う人は幸い」と悔い改めの道を指し示しています。しかし、結果的には、王も民も主の御心に従わなかったために、滅びに至るのであります。
 
ここで聞き落としてはならないことは、エルサレムの陥落とバビロン捕囚ということを行われたのは、他でもなく神様であるということであります。ユダの力が弱く、バビロンの力が大きかったからこうなったのではなくて、ユダの人々の罪に原因があり、それに対して神様が審きを行われたということであります。列王記下243節を見ていただきますと、こう書かれています。ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令による。ここには、「それはマナセの罪のため」と書かれていますが、それはマナセ王だけのことを言っているのではなく、マナセに代表される罪を歴代の王たちも民も犯したために、ということです。その結果、4節の最後にあるように、主はそれを赦そうとはされなかった、ということであります。原因はユダの人々の罪にあるのですが、エルサレムを陥落に導き、バビロン捕囚という結果をもたらされたのは、バビロンではなくて、神様だということをはっきり語っているのであります。
 
もう一つ、見落としてしまいそうですが、大事なことが、2522節以下に書かれています。バビロンへ捕囚として連れて行かれたのは、ユダの要人でありましたが、12節にありますように、貧しい人々の一部はぶどう畑と耕地に残されました。その人たちを監督するために、バビロンのネブカドネツアル王はゲダルヤという人を立てます。ゲダルヤは24節でこう言っております。「カルデヤ人(バビロン人のこと)の役人を恐れてはならない。この地にとどまり、バビロンの王に仕えなさい。あなたたちは幸せになる。」これは支配者に都合のよいことを言ったに過ぎないとも読めるのですが、そこには貧しい人々に対する神様の計らいがあったのではないかと思われます。ところが、25節以下にありますように、イシュマエルという人物が総督のゲダルヤを打ち殺すのです。その結果、26節にありますように、残されていた民は皆、カルデヤ人の報復を恐れて、エジプトへ逃げることになります。ここで、逃げていく行き先がエジプトであったことを見落としてはなりません。エジプトとは、イスラエルの民が奴隷状態にあって、そこから神様の導きで脱出させていただいた所であります。エジプトに戻るということは、神様の救いの導きを無にするということであります。イスラエルの救いの歴史が振り出しに戻ったということです。
 
神様は、奴隷状態にあったイスラエルの民を救い出されて、カナンの地に導き出されたように、罪の奴隷状態の中にある私たちを救い出して下さるお方であります。こうして、教会に来るようにされているということは、神様の導きがあったからであります。しかし、イスラエルの民がそうであったように、唯一の神様に自分を委ね切ることが出来ずにいると、この世の大きな勢力が襲い掛かってきて、私たちは簡単にこの世の力の下の前に屈してしまうのであります。その結果、ユダの民がバビロンに連れて行かれたように、この世の支配下に置かれたり、元いたエジプトに帰ったように、神様に導かれて救いに入れられたことが無に帰してしまうのであります。私たちがいつの間にか「バビロン状態」になっていないか、あるいは「エジプト状態」に戻ってしまっていないか、自分自身を省みる必要があるのではないでしょうか。あるいは、今、かろうじてエルサレムに留まっているとしても、いつでもサタンによって滅ぼされかねない弱い自分であることを、十分に認識する必要があるのではないでしょうか。冒頭で、人生における挫折のことに触れました。私たちは、まだ信仰を持っていない方はもちろん、キリスト者であっても、ちょっとした苦い体験をしたり、挫折に遭遇すると、神様の許から離れてしまうという弱さがあります。けれども、聖書が語るのは、それは、サタンの力が大きかったから負けたということではなくて、実は神様がなさったことであり、神様の怒りによる審きなのだと言うのであります。

3.平和の計画

では、私たちは神様の怒りの審きを受けたならば、もはや救われる道はないのでしょうか。神様が私たちを罪の支配から救って下さるという恵みの約束は永遠に捨てられたということなのでしょうか。
 
2527節以下に「ヨヤキンの解放」という小見出しがついた小さな段落があります。そこに書かれていることは、即位して3ヶ月でバビロンに連れて行かれたヨヤキンのその後のことであります。捕囚となって37年目にバビロン王はエビル・メロダクと言う人に代わるのですが、その王がヨヤキンに情けをかけて出獄させた上、手厚くもてなして、他の捕虜になっていた王たちの中で最も高い位を与えられて、毎日欠かさず王と食事を共にすることが出来るようになったというのであります。ヨヤキンのどこが気に入ってもらえたのか、何も書かれていません。列王記の記者がなぜこのエピソードを書き記したのか。その意図は明らかではありません。しかし、ここには、<イスラエルの救いの歴史がバビロン捕囚で全て終わったわけではない>、というメッセージが込められていると読むことも許されるのではないでしょうか。イスラエルはエルサレムの陥落とバビロン捕囚で決定的な挫折を経験いたしました。しかし、神様の救いの歴史はそこで終わるのではありません。今日、ここまでのところで聞いたことは、エルサレムの陥落もバビロン捕囚も、神様がなさったことだということでした。ですから、神様との関係が終わったわけではないのであります。そして、神様がかつてダビデに約束されたことは、実は、反故になったわけではないのであります。
 
先ほど、イザヤとエレミヤのことに少し触れましたが、両者ともイスラエルの民の問題点を鋭く告発するのでありますが、同時にイスラエルの残された者たちの将来について、大きな希望と励ましを語るのであります。その中から、エレミヤが語ったことを見ておきたいと思います。エレミヤ書294節以下(p1230)を御覧下さい。
 
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やして、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」2947
 
神様は、大きな挫折の末に送られた捕囚の地で、じたばたするのではなく、平安に過ごすようにと勧めておられるのであります。私たちは大きな挫折を経験すると、そこで与えられる境遇に失望し、自棄(やけ)になったり、不満を持ち続けて、暗い生活に陥りがちであります。しかし、エレミヤは、そこでも平穏で希望の持てる生活が備えられると言うのであります。それだけではなくて、「その町のために祈りなさい」とさえ言います。東日本大震災で多くの人々が、長年住み慣れた家や土地を離れなければならなくなりました。思いもかけなかった辛い生活が待っています。しかし、神様はそのような不幸な状態に追い込まれた中でも、そこで平安な生活を求め、その所のために神様に祈るようにと勧められるのであります。そうすることによって、自分たちに平安が帰って来るとおっしゃるのであります。
 
エレミヤを通して神様がおっしゃったことはそれだけではありませんでした。29章の10節以下を御覧下さい。
 
「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。」291014a
 
神様はイスラエルの民に、七十年後に祖国への帰還が実現することを約束されたのであります。この「七十」という数字は、長い年月を表す象徴的な数字ですが、実際には五十年後に、捕囚からの解放とエルサレムへの帰還が実現するのであります。神様は神様を信じ切れずに罪を犯した者たちに審きをお与えになります。しかし、それは単なる審きで終わるものではありません。悔い改めの後に赦しを備えられるのであります。今日、新約聖書の朗読で、ローマの信徒への手紙512節以下を読みました。ここは、アダムによって人間に入り込んだ罪が、キリストによって赦されるようになったという恵みについて、パウロが語っている箇所ですが、その中の20節の後半を見て下さい。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。イスラエルの民の歴史は、神の恵みを蔑ろにする、罪に満ちた歩みでありました。その結果が、エルサレムの破壊とバビロン捕囚でありました。しかし、その罪が増し加わったところに、神様の恵みはいっそう満ちあふれたのであります。
 
人間のすることには、いつも神様の恵みに対する忘恩があり、思い上がりがあり、罪があって、その結果は審きを招くことになります。しかし、神様はそのような人間を捨てておしまいになるのではなくて、悔い改めへと導き、救いの恵みをお与えになるのであります。

結.新しい契約

最後に、もう一つのエレミヤの預言を聞きたいと思います。エレミヤ記3131(1237)を御覧下さい。
 
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。313134
 
ここでは、かつて出エジプトの際にシナイ山でモーセを介して与えられた十戒を初めとする律法による契約、即ち、<神様の戒めを守るなら神様に守られる>という契約を古い契約としていて、それに代わる新しい契約が、来るべき日に与えられると言われています。
 
この新しい契約は、イエス・キリストが最後の晩餐の席で制定された、主イエスの十字架の血による新しい契約として実現したのであります。かつて神様がイスラエルの民を代表とする人類に与えられた律法をもとにした契約は、人間が律法を守らず、神様に対して罪を犯したために、審きを受けざるを得ない結果になってしまいました。人間の社会がうまく行かないのも、私たちが様々な挫折を経験しなければならないのも、つまるところは、人間の罪に起因するのであります。それは神様の審きとして起こることですから、そこから人間の力で這い上がることは、根本的には出来ません。人間の努力で立ち上がったかに見えることはあります。けれどもそれは、神様と人間との間の問題の根本的な解決にはなりません。しかし、神様はイエス・キリストによって、新しい契約を打ち立てて下さいました。それは、イエス・キリストによる十字架の贖いを信じることによって罪が赦されて、救いに入れられるという契約であります。
 
この新しい契約に私たちが応答することによって、神様との関係が全く新しくされます。そこから、すべての問題の解決が始まります。人生の歩みの中で経験する様々な挫折も、新しい契約を結ぶことによって、根本的な解決の道が拓かれます。バビロン捕囚は神様がなさったことでありました。それはイスラエルの民をもう一度立ち上がらせるために神様がなさったことでありました。私たちの経験する挫折も、私たちを根本的な救いへ引き戻すために神様がなさることであって、その先には神様による大きな大きな平安が約束されているということであります。
 
祈りましょう。

祈  り

イスラエルを導き、私たちをも救いへと招き給う父なる神様!
 
イスラエルの王国の悲惨な結末の歴史を通して、あなたがイスラエルの民を救い、更には私たちをも、様々な挫折からも、また罪の中に落ち込んでいる現実からも救い出そうとしておられることを覚えて、あなたの計り知ることの出来ない恵みに感謝いたします。
 
私たちの人生の歩みには、確かさがなく、不安が拭いきれませんが、あなたが深く関わっていて下さり、様々の罪から贖い出し、まことの平安へと導こうとしていて下さることを信じる者とならせて下さい。どうか、御心にかなった日々の歩みをし、生涯にわたる確かで平安な道を歩むことが出来ますように、お導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年10月7日  山本 清牧師 

 聖  書:列王記下25:1−12
 説教題:「
神による捕囚」         説教リストに戻る