序.厳しい現実の中で

今日与えられております聖書の箇所は、列王記上の1830節から39節まででありますが、ここだけ読んだのでは何のことか分からないと思います。先週は、ソロモン王の死後、紀元前926年に王国が北のイスラエルと南のユダに分裂するに至った箇所を学んだのであります。今日の箇所の主人公は預言者エリヤでありますが、彼は王国分裂から50年前後あとに北王国で活動した預言者であります。聖書では列王記上17章から列王記下2章にかけて登場いたします。
 
先週もお話しましたように、北王国イスラエルは周辺諸国の影響を受けやすい地理的・経済的条件を持っていて、宗教的にも異教の影響が入り込んで来ていたのですが、北王国7代目のアハブ王はフェニキア地方のシドン人の娘イゼベルを妻に迎えました。彼女のお父さんは農業神バアルの祭司であったことから、彼女もバアル礼拝に熱心で、サマリアにバアルの神殿を建てたり、バアルの預言者を保護して、ヤハウエの預言者を迫害したのであります。そういう状況の中で、ヤハウエの預言者であるエリヤは大変厳しい現実と戦わなければならなかったのであります。今日はこのエリヤの苦難の物語を通して御言葉を与えられたいと思います。
 
このエリヤは、先ほど朗読された18章のバアルの預言者との対決の場面を見ると、一見、大変挑戦的で、強い預言者という印象を受けます。しかし、前の17章の出来事を見ると、飢饉と息子の病死で苦悩する一人のやもめの傍らで、神様に真剣な祈りをするエリヤの姿がありますし、後の19章の記述を見ますと、命を狙われて逃げ惑う弱いエリヤの姿があります。エリヤは決して強いだけの人物ではなくて、私たちと同じように、恐れや不安をもつ弱い人間であることが分かるのであります。そのエリヤが、厳しい現実に向き合う中で何を支えとして生きたのか、ということを聴き取って、私たちの歩みの支えを与えられたいと思うのであります。

1.干ばつと重い病いの中で――主は生きておられる

まず、17章ですが、1節を見ると、エリヤがアハブ王に向かって干ばつが起こることを告げています。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」――これは単なる天気予報ではありません。初めに「主は生きておられる」と語っているように、干ばつは生きて働かれる神様の御心として起こる、ということです。なぜそのようなことを起こされるのかと言えば、アハブ王が妻イゼベルのためにバアルの神殿を建てたりしているからであります。神の審きとして起こるのであります。
 
イスラエルの民は、かつてモーセに導かれて荒れ野を旅した時に、自分たちに水を与え渇きをいやして下さるのは、ヤハウエの神様であることを知りました。しかし、カナンに定着して農耕に携わるようになってからは、荒れ野の生活のことを忘れて、雨を降らせ、地の実りを与えるのはバアルの神であるという信仰に次第に傾いていったのであります。雨を降らすのは誰か。バアルなのか、ヤハウエの神なのか。この厳しい問いを神様は干ばつを通して、イスラエルの民に投げかけておられるのであります。
 
私たちの心にも干ばつが起こることがあります。喜びがなく満たされない思いで苦しむことがあります。心の渇きをいやすのは誰か。神様はこの問いを私たちにも投げかけておられるのではないでしょうか。
 
干ばつの預言をして、真の神は誰なのかを問いかけたエリヤは、王や人々から喜ばれません。それから3年間、各地を転々とする逃亡生活を強いられることになります。まず3節で神様が言われたように、エリヤはヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠します。4節で神様は「その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」と不思議なことを言われます。その言葉通りに、朝と夕べに、烏がパンと肉を運んで来て、水はその川から飲みました。この経験を通して、エリヤは神様は生きておられて、<必要なものは必ず神様が備えてくださる>という確信を深めることが出来ました。
 
次に神様は、8節にあるように、シドンのサレプタに行って住むよう命じられます。ここでも驚くべきことに、「わたしは一人のやもめに命じて、そこで養わせる」と言われます。やもめというのは、当時の社会では経済的な援助を必要とする存在でありましたが、そのやもめにエリヤを養わせようとなさるのであります。エリヤはサレプタで一人のやもめに出会うと、水とパンを持って来るように言います。やもめは、小麦粉は自分と息子の分しかなくて、それを食べてしまうとあとは死ぬのを待つばかりだと言うのですが、エリヤは、まずわたしのために小さいパン菓子を作って持って来なさい、と言うのです。ずいぶん勝手な要求のように聞こえますが、それに続けて14節でエリヤはこう言います。「壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」やもめがエリヤの言葉どおりにすると、果たして粉と油は尽きることなく、その後長くエリヤとやもめの家族は養われるのであります。神様は敢えて、社会の中で最も弱い存在である者を神様の大きな御計画のために用いられるのであります。
 
こうしてエリヤはサレプタのやもめの家で養われることになったのですが、その後、やもめの息子が重い病気にかかって息を引き取ります。彼女は18節で、「神の人よ、あなたはわたしとどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と悲痛な叫びを上げています。するとエリヤは息子を自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせると、神様に祈りました。20節です。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。・・・主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」これは、神様が本当に生きて働いておられるということを問う真剣な祈りであります。エリヤはやがて、18章に書かれているバアルの預言者との対決に臨むことになるのでありますが、それに先立って、やもめの息子の死を巡って、神様の試みを受けて、闘っているのであります。その結果、神様はその子の命を元にお返しになりました。子供は生き返ったのであります。こうして、神様は確かに生きて働いておられるということの確信を更に深めることが出来たのでした。

2.バアルとの対決の中で――主こそ神です

ここから18章に入りますが、三年目に主の言葉がエリヤに臨みます。1節にあるように、「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」サマリア地方はひどい飢饉に襲われていました。その中で、バアル信仰をもたらせたあのイゼベルがヤハウエの預言者に対する迫害を強めていました。エリヤはその中で、神様の使命を果すよう命じられたのであります。エリヤはこの神様の命令に従って、勇気を出して出かけます。
 
エリヤがアハブ王と会うと、アハブはこう言います。17節です。「お前か、イスラエルを煩わす者よ。」アハブは三年間の干ばつの原因はエリヤにあると見ているのであります。それに対してエリヤは言います。「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。」エリヤはバアル礼拝を容認しているアハブたちとの対決姿勢を鮮明にいたします。続けてエリヤは一つの要請をいたします。19節です。「今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシュラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。」エリヤはイスラエルの民の前で、異教の神々と只一人で対決することを宣言したのであります。イスラエルのすべての民が集まって来ると、こう言いました。21節です。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」イスラエルの人々も全く真の神様を捨てていたわけではなくて、二つの信仰を両立させていたのであります。しかし、それは十戒の「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めに対する違反であります。こうした複数の宗教を容認する混合主義は日本の精神風土の中にも根強くあります。ですから、このエリヤの問いかけは、現代の私たちに対する問いかけでもあります。
 
次にエリヤは一つの提案をします。それは、二頭の雄牛を用意させて、一頭はバアルの預言者が裂いて薪の上に載せ、もう一頭はエリヤが薪の上に載せ、どちらも火をつけずにおき、互いに神の名を呼んで、火をつけて答えた神こそ本当の神であるはずだ、というものでした。この提案に対して、民は皆、「それがいい」と答えます。
 
そこでさっそく実行に移されました。まず、バアルの預言者たちが「バアルよ、我々に答えてください」と、一日中祈り続け、叫び続けましたが何の答えもありません。エリヤは彼らを痛烈に皮肉って言います。「大声で叫ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも一目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」
 
一方、エリヤの方は、カルメル山にあったヤハウエの祭壇を修復したあと、周囲に溝を掘って水を流します。また、薪の上に載せた犠牲の雄牛にも水をかけます。そして、こう祈ります。3637節です。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」この祈りには歴史を貫いて働かれる神様への信頼が込められています。エリヤの強い信仰がこう祈らせたというよりも、神様がこの祈りを引き出されたのでしょう。
 
このエリヤの祈りに応えて、主の火が降って、火は焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くします。そして、これを見たすべての民はひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と言いました。エリヤはバアルの預言者たちに勝利しました。それだけではなく、カルメル山の上に上って海の方を見ると、手のひらほどの小さい雲が湧き上がって、やがて空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出て来て、激しい雨になったのです。三年間の干ばつと飢饉は終わるのであります。同時に、イスラエルの民の中にあった心の干ばつもいやされて、「主こそ神です」と告白するのです。

3.命をねらわれる中で――起きて食べよ

しかし、これでハッピーエンドではありません。19章に入ると、エリヤは勝利の絶頂から絶望のどん底へと落とされるのであります。アハブ王がここまでのことをイゼベルに話すと、イゼベルは激怒して、エリヤを殺すと伝えて来たのです。これを聞いたエリヤは恐れを覚えて荒れ野へ逃亡します。4節にありますように、彼は一本のえにしだの木の下に来て座って、こう祈ります。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」カルメル山ではあれほど強かったエリヤですが、今は、えにしだの木の下で、預言者としての限界を覚えるだけでなく、死ぬことをさえ願う弱いエリヤになっているのであります。強そうに見える人間も、このように弱さを持っています。信仰者であっても、恐れや不安に襲われることがあります。与えられた使命に対して挫折を覚えることがあります。死を願うことだってあるかもしれません。
 
では、そのような絶望の中にある者に対して、神様はどのように臨まれるのか。エリヤはこの危機をどう乗り越えたのでしょうか。
 
5節以下を見ると、えにしだの下で横になって眠ってしまったエリヤに御使いが遣わされます。御使いは「起きて食べよ」と言って、枕もとに焼いたパンと水の入った瓶を置きます。そして御使いは二度目に、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言います。そして、神の山ホレブへ向かわせます。エリヤは絶望していましたが、神様は絶望しておられません。神様の側から見れば、エリヤにはなお使命を果すべき道が残されているのであります。その道は決して平坦ではないし、そこで出会う困難は耐え難いほどであります。しかし、そこを歩むのに必要なパンも水も、神様が備えてくださるのであります。これは肉体が生きて行くのに必要なものが備えられるというだけの意味ではありません。萎えかけた魂をも元気にする力をお与えになるということであります。
 

4.静かにささやく声――荒れ野に向かえ

こうしてエリヤは起きて食べ、飲んで、力づけられて、四十日四十夜歩き続けて、ついに神の山ホレブに着きます。エリヤがそこにあった洞穴に入って夜を過ごしていると、また神の声が聞こえます。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは、自分が情熱を傾けて主に仕えて来たのに、イスラエルの民は神様との契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを殺した。一人だけ残った自分の命を奪おうとしている、と訴えます。すると主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われます。エリヤは神様がどんなお姿を現されるのか、何を語られるのかと緊張していると、主が通り過ぎて行かれます。そしてこう書かれています。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。1112節)
 
このことは何を表わしているのでしょうか。エリヤは今、イゼベルによる激しい迫害の嵐の中におかれています。しかし、そのような嵐の中に、主はおられないのであります。そこには主のお姿も、主の御心も示されていないのであります。そして、風と地震と火の後に、「静かにささやく声」が聞こえるのであります。私たちも現実の生活の中で様々の嵐に遭遇いたします。足元を揺るがす地震や焼き尽くす火が襲いかかることがあるかもしれません。しかし、神様はそのような嵐や地震や火の中にはおられません。嵐や地震や火の恐ろしさの中で、神様のお姿を見ることも、御心を聞くことも出来ません。神様はその後で私たちの傍らに来て、「静かにささやく声」を聞かせて下さいます。その声に耳を傾けなければなりません。生活の嵐の只中においてではなくて、静かな祈りの時に、またこうした礼拝の場において、神様のささやかれる声を聞くのであります。
 
エリヤに対して、神様はどのように語られたでしょうか。15節を御覧ください。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。」イゼベルから逃れるためにやって来た道を引き返すように言われます。そして、もう一度預言者としての使命を果すことを命じられるのであります。そしてそこで、新しい王を任命するとともに、エリヤの後継者としてエリシャに油を注ぐことを命じられます。最後に18節で神様は、「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」と言われます。エリヤは、イスラエルの人々が皆、神様を捨てて、自分一人だけ残されたと嘆いていましたが、神様は七千人の信仰者を残すと約束されたのであります。
 
私たちは苦難の中で、誰もそれを一緒に担ってくれる者や、助けの手を貸してくれる者がいないという孤独感を味わうことがあります。しかし、神様は同じ信仰に立つ仲間の助け手を備えていて下さるということであります。

結.主を証しする者として

最後に、エリヤが後の時代のイスラエルや新約聖書において、どのように扱われているかを見ておきたいと思います。
 
旧約聖書最後のマラキ書の323節にこう記されています。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」終末の時が来る前に、エリヤ的な働きをする人が現れると預言しているのであります。このことはユダヤ人の間では広く知られていました。ですから、主イエスが弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられたときに、弟子たちは「エリヤだ」という言う人がいると答えました。(マコ828)しかし主イエスは、洗礼者ヨハネのことを、「彼は現れるはずのエリヤである」(マタ1114)と言われ、「エリヤは既に来たのだ」(マタ1712)とおっしゃいました。また、山上の変貌の記事では、白く輝いている主イエスの前に、モーセと共にエリヤが現れて、語り合っていたと報告されています。そのように、エリヤは救い主イエスを指し示す存在でありました。そう言えば、ヨハネ福音書にある主イエスがサマリアの女に「水を飲ませてください」と言って話しかけられた出来事は、今日の17章のサレプタのやもめに声をかけられた情景に似ていますし、ルカ7章にあります主イエスがやもめの息子を生き返らせた出来事もサレプタのやもめの息子を生き返らせた話に似ています。そして、列王記下2章によると、エリヤは最後に嵐の中で天に上げられるのであります。このエリヤの昇天も主イエスを証ししています。
 
エリヤは旧約聖書の中では大いなる存在であります。ユダヤ人たちはその強い印象を持っていますから、主イエスが登場されると重ね合わせたのであります。しかし、今日見ましたように、エリヤは迫害の嵐が吹き猛る中で恐怖と不安に襲われた弱い存在でした。与えられた使命からも逃げ出し、死んでしまいたいとさえ思いました。しかしその中で、神様の助けを体験することを通して、神様が現に生きておられること、主こそ神であることを証ししました。そしてエリヤの証はイエス・キリストによって完成したのであります。
 
私たちも、信仰は持っていても、決して強い者ではなく、様々の苦難の中で恐れや不安を覚えざるを得ない者であります。でも、エリヤと同じように、その苦難の体験を通して、主を証しすることが出来ます。神様は今日も、「静かにささやく声」をもって、私たちを荒れ野に向かう道を歩むように召しておられます。そして、私たちのような者をも主を証しする者として用いて下さるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

今日も生きて働き給う父なる神様!
 
預言者エリヤの働きを通して、あなたの強い御手を覚えることが出来ましてありがとうございます。
 
私たちは日常生活の中で、真の主ではないものの力に怯えたり、妥協したりしてしまう弱い者でありますが、あなたが私たちの日常の中にも生きて働いておられることを、どうか信じさせて下さい。どうか、静かにささやかれるあなたの声を聴き取ることが出来るようにして下さい。そしてどうか、あなたを証しすることの出来る者として用いて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年9月9日  山本 清牧師 

 聖  書:列王記上18:30−39
 説教題:「
主こそ神です」         説教リストに戻る