序.神に何を求めるか

先週はサムエル記下12章から、ダビデ王が犯した罪を通して、私たちの罪について考えました。今日与えられている箇所は、早くも列王記上に入っていて、ダビデの次のソロモン王の物語に入っています。
 
35節を見ていただきますと、神様がギブオンという所でソロモンの夢枕に立って、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた、と書かれています。こんなすばらしいお言葉はソロモンだから聞くことが許されたのでしょうか。そうではありません。新約聖書の中に、主イエスがこう言われたことが書かれています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ77-11)これは弟子たちに言われた言葉であります。ということは、私たちにも言って下さっている言葉であります。ただし、これは私どもに、<欲しいものを何でも言ってごらん、何でも手に入るよ>、と言っておられるのではありません。これは主イエスが、あの「山上の説教」を語られた後で、最後に言われた言葉であります。「山上の説教」の中で、何を求めるべきか、如何に生きるべきかを語られた後で、そのことを「求めなさい。そうすれば、与えられる」とおっしゃったのであります。ですから、私たちは逆に、神様に対して何を求めるべきなのかが問われているのです。また、神様がそれを必ず与えて下さるという、神様への信頼を求められているのであります。ソロモンに対する神様の言葉も同じであります。この言葉によって、神様に対する信頼と、何を願うのが善いのかが問われているのです。
 
では、私たちはこの神様の問いかけに対して、何と答えるでしょうか。私たちは神様に何を求めるでしょうか。私たちはそれぞれに切実な願いを持っています。体調に不安を抱えている人は、何とか健康な体にしていただきたいという切なる願いがあります。良い仕事や就職先を探している人は、自分に適していて将来につながる職場が与えられることを望んでいます。良い伴侶を求めている人は、生涯の幸せにつながる人との出会いを期待しています。牧師は遣わされている教会に多くの人が来て、盛んになることを願っています。私たちは何事でも願うことを許されています。何を祈ってもかまいません。神様は私たちのどんな祈りも聞き逃されることはありません。聞き逃されないだけではなくて、神様が最も善いと思われるものを与えて下さる筈であります。しかし、神様は、私たちが何を一番大切なこととして求めるのかを問うておられるのであります。
 
ソロモンは神様の問いに対して何と答えたのでしょうか。神様は、この後に書かれているように、ソロモンの答えを喜ばれました。今日はその答えに耳を傾けながら、私たちも神様の問いかけに対して、最も善い答えが出来るように導かれたいと思うのであります。

1.王位継承――使命を与えられて

その箇所に入る前に、ここに至るまでの経緯を辿っておきたいと思います。ダビデ王が年を重ねて老人になって、体も弱ってくると、当然、後継者をどうするかという問題が出て来ました。ダビデには少なくとも8人の妻がいて、10人の子供がおりました。そのうち、4番目のアドニヤは、軍の司令官をしていたヨアブと祭司のアビアタルの支持を得て、「わたしが王になる」と宣言していました。しかし、ダビデの晩年まで側にいた妻は、あのバト・シェバで、最初の子は先週学んだように生まれて七日目に死ぬのですが、次に生まれたのがソロモンでありました。アドニヤを支持しない預言者ナタンたちはソロモンを王にするようダビデに働きかけて、ダビデはベッドに横たわったまま、ソロモンを王にするよう宣言したのでした。こうしてソロモンはギホンという所で油を注がれて王に即位するのであります。けれども、アドニヤを支持する勢力がいたのですが、ダビデが亡くなった後、それらの勢力が完全に押さえ込まれて、王国はやっと落ち着いた状態になったのです。2章の最後を見ると、こう書かれています。こうして王国はソロモンの手によって揺るぎないものとなった。
 
しかし、ソロモンが王に即位した時の年齢は、諸説がありますが、およそ20歳前後であったと考えられます。まだ知識も経験も少ない中で、年上の部下に支えられながら、全イスラエルを治めて行かなければなりません。若くして大きな使命を与えられて、神様の導きを祈らざるを得ない状況でありました。
 
私たちもまた、大きな課題や使命を与えられて、あるいは試練や困難の前に立たされて、不安を覚えざるを得ない時があります。自分の力量や知恵や体力だけで乗り切ることが出来ないと思わざるを得ないことがあります。そのような時に、どうすればよいのでしょうか。神様に何をお願いすればよいのでしょうか。どのように祈ればよいのでしょうか。

2.聞き分ける心を

3章の初めには、ソロモンがエジプト王ファラオの娘を王妃に迎え入れたことが書かれています。これは、大国エジプトを味方にする政治的な配慮であったのかもしれません。しかし、異教の国から王妃を迎えることを神様はどう思われるでしょうか。列王記の記者はここでは何も述べていませんが、次週に取り上げる箇所ではこのことが問題になります。また、1節には、宮殿、神殿、城壁の造営を行ったことが書かれています。ソロモンは次々と大事業を手がけるのであります。その内容についても、5章以下に詳しく書かれています。このように政治体制が強化され、諸事業も着々と進められるのでありますが、不安は一杯だったのでありましょう。そこでソロモンはギブオンにある聖なる高台に出かけます。当時はまだ神殿が完成していませんでしたから、ギブオンの丘の上の幕屋で犠牲の供え物を献げて礼拝を行ったのでありましょう。
 
その夜のことであります。神様がソロモンの夢枕に立たれて、先ほど聞いたように、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたのであります。
 
これに対するソロモンの答えは、まず6節でこう言います。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。」ここには、父ダビデの歩みと、自分がダビデの王座を継いだことが述べられていますが、そこに、神様の「豊かな慈しみ」が示されたことを重ねて語っています。神様はかつて預言者ナタンを通して、ダビデの王国をとこしえに堅く据えると約束されました。そのお言葉通り、慈しみを絶やすことなく与えていただいていることを感謝しているのであります。そこにソロモンの神様に対する信頼の根拠があります。この後でソロモンが神様に願ったことで、神様は大変お喜びになるのですが、そのような願いが出て来たのは、神様に対する感謝と絶大な信頼があったからであります。私たちに対する神様の問いかけに対する答えも、このような神様の恵みに対する感謝と信頼から導かれる必要があるということを示しています。私たちの願いや祈りが、いつの間にか現状に対する不平・不満から出ているということはないでしょうか。神様の大きな恵みに目を向けずに、自分が置かれた困難な状況、思い通りに行っていないことだけに思いが向かっている時、神様に喜んでいただけるような祈りは出来ないということであります。
 
ソロモンは神様の豊かな慈しみを覚えて、信頼を抱いているのですが、自分自身を見つめると不安になってしまいます。そのことが7節、8節で素直に述べられています。「わが神よ、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。」ここでソロモンは自分のことを「取るに足りない者」と言っておりますが、原文は「幼い子供」という言葉です。同じ言葉は預言者エレミヤが召命を受けた時にも使われています。「ああ、わが主よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」(エレミヤ16)若い時は、怖いもの知らずに大胆に振舞えるという面もありますが、部下は皆、経験を重ねた老獪な者たちで、自分たちが権力を握る機会を虎視眈々と狙っている筈です。油断はなりません。それに、全イスラエルを治めるということは、可なり広いエリアを掌握する必要があります。どの地方のどのような立場の人にも満足を与えるということは至難の業であります。北朝鮮の若い指導者ではありませんが、経験不足のソロモンにとって不安は隠せなかったに違いありません。
 
私たちはこれほどの大役を与えられなくとも、新しい職場や立場を与えられた時の不安は誰しも身に覚えがあると思います。同僚や仲間が味方であるとは限りません。ヘマをすればすぐ足をすくわれてしまうのが、今の競争社会の現実であります。周りに対する気遣いだけで神経が磨り減ってしまいます。家庭においても同様であります。夫や妻が自分のことを全部理解してくれるとは限りません。子供は親の言いなりにはなってくれません。思いがけない反抗を受けることがあります。子育てにも不安は尽きないのであります。
 
では、ソロモンは大きな不安の中で、神様に何を求めたのでしょうか。部下や民をリードできる統率力でしょうか。経験不足を補う知恵でしょうか。あるいは部下や民を手なずける資金力でしょうか。そういうものではありませんでした。9節でこう言っております。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」ソロモンは「聞き分ける心」を求めました。これには、二つの意味があると考えられます。一つは多くの民の訴えをよく聞き分けて、公正に裁くことのできる知恵であります。この後の10節にある神様の言葉を見ると、「訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた」と言っておられますし、16節以下に書かれているソロモンが実際に訴えを裁いた例を見ても、訴えを公正に裁くことが出来る知恵を求めたのだと理解できます。しかし、もう一つ深い意味があると思います。それは神様の声・神様の御判断を聞き取る心であります。民の訴えを裁くにしても、ただ知恵を働かせるだけでは正しい判断をすることが出来ません。神様の御心はどこにあるのかということを聞き取る心、自分が良い格好をしたり、名声が上がるための判断ではなく、虚心坦懐に御心を聞き取る心、それは神様に対する深い信頼、神様の御言葉に聞き従う信仰、と言い換えてもよいかもしれません。ソロモンはそれを求めたのではないでしょうか。そして、この二つのこと、即ち、民の訴えを公正に聞いて裁くことと、神の御心を聞き取る心とは別のことではなくて、神様の御心を虚心坦懐に聞き取る時に、訴えに対しても公平な判断をすることが出来るのであります。主イエスは悔い改めの必要を教えられた時に、こう言われました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ1125)大人の知恵ではなくて、無に等しい幼子に対して開かれている知恵、それは、素直に聞き従うという知恵であります。それは年をとるほど、上に立つほどに失ってしまう知恵です。しかし、神様の御言葉に対する素直さこそ最大の知恵なのであります。
 
私たちが不安の中にある時に、神様に求めるべきことは、この「聞き分ける心」即ち、神様の声・神様の御判断を聞き取る心であります。私たちの判断というのは、どうしても自分中心になってしまいます。ということは自分に不利益が及ばないように、自分の名誉が損なわれないようにという観点から判断をしてしまいます。それでは本当に公正な判断をしたことにはなりません。虚心坦懐に神様の御声に耳を傾けるべきであります。それには神様への信頼が必要であります。信仰に立たないと御声を聞き分けることが出来ません。

3.ソロモンの知恵

10節以下を見ますと、このソロモンの願いを神様がお喜びになって言われたことが書かれています。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることもなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。」11-12節)神様が喜ばれたのは、ソロモンが自分の利益を求めなかったことであります。そこで神様は、先にも後にも並ぶ者がいないような、知恵に満ちた賢明な心を与える、と約束なさいます。それだけではありません。「わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」13-14節)とも言われました。こうしてソロモン王は、イスラエルの歴史の中で最も繁栄した時代を築くことになるのであります。またソロモンに与えられた知恵は、59節以下を見ると、神はソロモンに非常に豊かな知恵を洞察力と海辺の砂のような広い心をお授けになった。ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった9-10節)と書かれている通りであります。
 
これはソロモンの立場であったから与えられたことであって、私たちにも同じことが適用できるわけではありませんが、主イエスはこう言っておられます。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」(マタイ627-30)私たちも思い悩む必要はないのであります。私たちにとって必要なものは、神様が過不足なく与えて下さるのであります。食べるものも、着るものも、そして命も、必要なだけ備えて下さるのであります。
 
316節以下には、ソロモンが授かった知恵の実例が記されています。同じ家に住んでいた二人の女が、どちらも子供を産みました。ある晩のこと、一人が赤ん坊に添い寝をしていて、窒息死させてしまうのです。そこで彼女は死んだ自分の子を他の女のところに寝かせ、もう一人の赤ん坊を自分のところに寝かせるのです。このことでソロモンのところに訴えが持ち込まれた時、今のようにDNAの鑑定をするわけには行きませんが、ソロモンは剣を持って来させて、「生きている子を二つに裂いて分けよ」と命じるのであります。生きている子の本当の母親は、自分の子を殺すことは出来ないで、殺さないように願うのですが、もう一人の女は、その子を裂いて、相手の女のものにしないように願うのです。すると、ソロモン王はその子を生かしたまま、本当の母親に与えるように命じるのです。大岡裁きのような、知恵に満ちた裁きであります。こうして、イスラエルの人々は皆、ソロモン王を畏れ敬うようになった、というのです。このようなソロモンの知恵も神様の御心を聞き分ける心があったから働いた知恵であります。

結.ソロモンにまさるもの

しかし、このようなソロモンの知恵に驚き、ソロモンの栄光を讃えているだけでは、神様の御声を聞き分けたことにはならないでしょう。マタイによる福音書1238節以下(新p23)を御覧下さい。何人かの律法学者とファリサイ派の人々が主イエスに「先生、しるしを見せてください」と言いました。救い主なら奇跡が出来る筈だから、救い主のしるしとして、奇跡を行ってみせるよう求めたのであります。それに対して主イエスは二つのことをおっしゃいました。一つは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」ということです。これは旧約聖書のヨナ書の物語で、海に投げ込まれたヨナが三日御晩、大魚の中にいて、吐き出されて行く先のニネベに着いたという話しが、主イエスが十字架に架けられてから三日の後に甦られることを指し示していると言われたのでありまして、41節で、「ここにヨナにまさるものがある」、と言われて、御自身こそが、キリストであることを語られ、更に42節以下で南の国の女王のことを語られました。これは列王記上10章に書かれている物語でありまして、ソロモンの名声を聞いてシェバの女王がエルサレムにやって来て、ソロモンの知恵に深く感動するのであります。しかし、主イエスは42節の最後で、「ここに、ソロモンの知恵にまさるものがある」と、謎のようなことをおっしゃいました。「ソロモンの知恵にまさるもの」とは、神様の知恵であり、神様が遣わされた主イエス御自身の知恵であります。その知恵とは、ソロモンの大岡裁き以上の知恵であります。その知恵とは、パウロが、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(Tコリント21)と語っていた知恵、十字架による罪の赦しの知恵であります。この知恵に耳を傾け、この知恵を聞き分ける心がある時に、神様はソロモンに勝る、最も善いもの、永遠の命を、私たちに与えて下さるのであります。  祈りましょう。

祈  り

豊かな慈しみをもって私たちに臨んで下さる父なる神様!
 
感謝をもって御名を賛美いたします。
 
私たちの中には、自分の利益や自分の誉れを求める心が多くを占めていて、あなたの言葉を求めて聞き分ける心が少なくなっていることを覚えさせられております。
 
どうか、日々の歩みの中で、また様々の試練の中にあって、あなたの慈しみを覚え、御声に耳を傾け、聞き分ける心をお与え下さい。どうか、自分の知恵ではなく、あなたの知恵に信頼して、すべてを判断することが出来るようにならせて下さい。どうか、この礼拝の場が、多くの人々にあなたの御心が届く場となりますようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年8月19日  山本 清牧師 

 聖  書:列王記上3:1−28
 説教題:「
聞き分ける心」         説教リストに戻る