序.自分の罪を知る

先週はサムエル記下7章のナタンの預言について記した箇所から御言葉を聞きました。ダビデ王が立派な王宮を建てたのですけれど、神様の御臨在の印である神の箱は天幕の中に置いたままだということで、ダビデは神殿を建設することを発意して、預言者ナタンに相談すると、ナタンは賛成したのですが、その夜、神様がナタンに臨まれて、ご自分はそんなことを頼んだことはない、と言われ、反対に、ダビデの家をとこしえに堅く据えるという約束をなさったのでありました。このことから、神様を礼拝する神殿、今でいう教会を建てるのは誰なのか、礼拝を形成するのは誰なのか、という神様のメッセージを聴いたのでありました。
 
ところで、神様から、永遠の安らぎを与えるとの約束を頂いたダビデでありますが、その後、8章を見ますと、ペリシテ人人を討って屈服させ、モアブを討って隷属させ、ツォバの王を討ち、そのツォバを応援して参戦したアラム人の大軍を討つなど、行く先々で華々しい勝利を与えられて、その名声はいやがうえにも上がるのでありますが、11章に至りますと、ダビデが自分の部下の妻を犯した上で、その部下を戦場の最前線にやって殺して、その妻を自分のものにするという、大きな罪を犯したことが書かれているのであります。そして、今日の12章はそのことで預言者ナタンを通して神様のお叱りを受ける場面であります。
 今日は、このダビデの罪の物語を通して御言葉を与えられようとしています。皆さんは、自分はダビデのようなひどい罪は犯していない、と思われるかもしれません。立場も自分とダビデでは全然違うと思われるでしょう。しかし、ここには、立場や時代や個々の状況を超えて、罪というものに共通した本質を見ることができます。今日は、このダビデの罪の物語を通して、私たちの罪のことを考えてみたいと思います。自分の犯してきた罪、犯している罪を誤魔化さずに見つめたいと思います。更に、神様がこのダビデの罪をどのように扱われたのかということを通して、私たちの罪の結果が神様によってどう扱われるのかというメッセージを聴き取りたいと思うのであります。
 
ところで、聖書の中で「罪」という場合は、ダビデが部下やその妻に対して犯したような罪も、もちろん問題とされるのでありますが、その奥にある神様に対する罪が大きな問題とされているのであります。先週の午後に行われた「黙想ワークショップ」の席で、そのことが話題になって、井田嘉子さんが適切な説明をして下さいました。それは、聖書で出てくる罪という言葉の元の意味は「的外れ」ということで、神様の御心に対して的外れな行動や生き方をしていることが聖書でいう「罪」なのだという説明でした。全くその通りで、神様に対する罪ということがよく理解できるのであります。では、ダビデが犯したような罪とそれとは、別の種類のもので、関係がないのかというと、そういうことではないのであります。そのことも、今日のダビデの罪の物語から聴き取ることが出来たらと思っています。

1.罪の実相

まず、11章に書かれているダビデが犯した罪について、改めて見ておきましょう。ダビデが王になって十数年の間に、次々と戦いに勝利しました。ダビデは王として自信に満ちていたと思われます。イスラエルは今、アンモン人との戦いのために、ヨアブという司令官の下で、全軍を送り出して戦っております。しかし、ダビデ自身は戦場には出て行かず、エルサレムにとどまっていたようであります。これは戦争の最前線から逃げていたということではなくて、後方にいて、各地から送られてくる情報を把握しながら、最高司令官として指示を出して行く責任を果たしていたのだと思われます。
 
そんなある日の夕暮れのことであります。ダビデ王は今日一日の充実した働きを終えて、少々午睡して疲れを癒したのち、王宮の屋上を散歩していますと、一人の女が水浴びしているのが目に留まりました。当時は内風呂ではなくて、屋外で水を浴びるのが普通の光景だったのでしょう。ダビデはその女を見て、大変美しかったので、人を遣わして調べさせると、バト・シェバと言う名で、このとき戦場で戦っているダビデの部下のウリアという人の妻だということが分かりました。それを知ってダビデは、使いの者をやって彼女を王宮へ召し入れて、床を共にしたのであります。女の方は、王に言われたら抵抗することも出来なかったのでしょう。抵抗すれば、夫の立場が悪くなると思ったかもしれません。あるいは、夫が優遇されるという計算が働いたかもしれません。女は家に帰りましたが、しばらくして妊娠していることが分かりました。そこで、ダビデに使いを送って、その旨を王に知らせます。そこにも女の計算が働いたのかもしれません。何らかの代償を期待したのかもしれません。しかし、この問題を女の所為にしてはならないでしょう。問題は明らかにダビデにありました。ダビデが姦淫の罪を犯したことは紛れもない事実であります。彼は権力の座にあることを利用して、自分の欲望を満たしたのであります。創世記にアダムとエバが蛇の誘いに乗って、神様から禁じられていた、園の中央の木の実を食べるという罪を犯した物語が書かれています。蛇は最初、女のエバに話を持ちかけて、その女の勧めでアダムも禁じられた木の実を食べたのでありますが、その罪を女の所為にすることは出来ませんし、まして蛇の所為にすることも出来ません。アダムもエバも罪を犯したことの責任を免れることはできません。私たちも、罪を犯したときに、誰かの所為にしたり、状況の所為にしたりして弁解をいたします。或いは自分の罪が大したものではないように見せたり、覆い隠そうとするのであります。
 
ダビデもそうで、自分のしたことを見えなくするために、軍の司令官であるヨアブに、ウリヤを送り返すように命じます。そして、帰ってきたウリアから戦況について聞いた上で、家に帰って休養をとらせます。これは、妻としばらく一緒に居らせることによって、妊娠が自分の責任ではないように見せかけることが出来ると思ったのであります。ところが、ウリヤは立派な軍人で、11節にあるように、神の箱も戦場の仮小屋に宿っているし、部下たちも野営している時に、自分だけ家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にすることなどできない、と言うのであります。ダビデはそこで、自分の罪の大きさに気づくべきでありましたが、反対に更に大きな罪を重ねることへと進みます。翌朝、司令官のヨアブに書状を送って、ウリアを最前線に出して、戦死させるように命じるのであります。ヨアブは、何もかも承知の上で、ダビデの命令を実行するのであります。そして、ウリアが戦死すると、悲しんでいる妻のバト・シェバを自分の妻にしてしまうのであります。表向きは、夫が戦死して可愛そうな妻を王宮で召抱えたというように見せようとしたのかもしれませんが、ヨアブだけでなく、多くの人にも分かってしまう事柄でありました。王の権威は地に落ちるのであります。ダビデはこのようにして姦淫の罪を犯しただけではなく、自分の勝手な思いを満たすために、部下のウリアを殺させるという殺人の罪まで犯したのであります。
 
私たちはダビデのような権力の座にはいませんし、人の命を危うくするようなたくらみを計るようなことまではしないでしょうが、この物語の中に私たちが日常の中で犯している罪と共通のものを見ることが出来るのではないでしょうか。誰も罪を犯そうなどと思わないのでありますが、自分の利益のことを優先にしたり、自分の名誉に傷がつかないことを優先いたしますと、どうしても少し弱い立場にある人に損害を及ぼしたり、名誉を傷つけたりしていることが、起こってしまうのであります。人間関係が悪くなるときというのは、大抵の場合、自分の方は何も悪くなくて、相手が一方的に悪いと思っています。しかし、第三者が見れば、多くの場合、どちらにも問題があるのが普通でありますし、そのことは周囲の人にも見えてしまうのであります。

2.神に対する罪

しかし、罪の問題が深刻なのは、相手に被害が及ぶとか、自分が人々からの評価を落とすというだけのことではありません。11章の最後の行を見ていただきますと、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と書かれています。神様はダビデの考えたこと、したことの全ての真実を見ておられます。罪は自分が思っている以上に人の目に見えてしまうものでありますが、それでもある程度は人の目を繕うことは出来るかもしれません。しかし、神様の目を繕うことは出来ません。
 
ダビデのしたことは、直接にはバテ・シェバを犯したことと部下のウリアを死に至らせたことでありますが、それらはこの二人に対して責任があるというだけではなくて、神様に対しても責任のあることであります。神様は十戒の中で、「殺してはならない」「姦淫してはならない」と命じておられます。これはルールとして神様が決められたことを犯したから悪いというだけではありません。また、人間同士が互いに傷つけ合わないための約束事を破ったということでもありません。殺すということは、神様が造られた命を人間が勝手に左右するということであります。姦淫するということは、神様が作られた人間の間の愛で結ばれる関係を勝手に潰すということであります。どちらも、神様の思いを踏みにじり、神様が備えられた貴重なものを壊すことになるのであります。だから、神様の御心に適わないのであります。神様の方に心が向いていないのであります。そこに罪の本質があります。罪というのは「的外れ」という意味だという説明がありました。ダビデはいつも神様の御心のことを考えていました。ゴリアトと戦った時も神様の守りだけに心が向かっていました。神殿を建てようと考えた時にも、神様への感謝の心からでした。しかし、バト・シェバと出会って、神様の方に向かっていた心が自分の方に向かったのであります。的が外れてしまったのであります。人間に対する罪も、結局は神様に対して罪を犯していることになるのであります。
 
私たちも、他人が犯す罪に対しては厳しく裁くのですが、自分が犯す罪に対しては過小評価いたします。そして、犯した相手に対しては心苦しく思うことがあったとしても、その罪が神様に知られていることに気づきません。気づいても、あまり深く考えようといたしません。しかし、私たちが傷つけた相手、私たちが蔑ろにした相手というのは、たとえ私たちには小さな存在に見えたとしても、神様にとってはかけがえのない一人の人間であり、独り子の命をも惜しまず愛される愛の対象なのであります。だから、その人間を傷つけたり蔑ろにすることは、神様を傷つけ、蔑ろにすることになります。神様に対して罪を犯すことになるのであります。
 
また、私たちは自分が犯した罪は自分が責任をとればよいのだろう、と開き直るところがあります。しかし、どんな小さな罪であれ、自分で責任を負い切れるのでしょうか。子供が何か悪いことをした場合に、(例えば、いま関心が高まっているいじめのことを考えてもよいと思いますが)その罪は、もちろんその子供の罪ではありますが、その罪は親の顔に泥を塗ることになります。自分の子がいじめをしていたことが分かった時に、親はひどく傷がつくのであります。親はその子がしたことに対して、本人以上に責任を感じるでしょう。そのように、私たちが犯した罪のゆえに神様は大きく傷つかれるのであります。人間の親であれば、子供の教育に対して責任があるということも言えるかもしれませんが、神様には責任はありません。神様は私たちを造り損なったり、教育をし損なったりされたわけではありません。大きな愛をもって、造り育てて下さったのであります。それなのに私たちは、自分の気侭から罪を犯して、神様の顔に泥を塗るのであります。人に対して罪を犯したことで、神様に罪を犯してしまうのであります。
 
私たちは人に対してしたことについては、たくさんの言い訳を考えついて、責任を誤魔化してしまいます。しかし、神様には何も言い訳ができません。神様の愛に応えていないことは明らかだからです。

3.悔い改め

さて、やっと今日の12章に入りますが、預言者ナタンは一つの話をいたします。ある豊かな男が、自分の所に来た客をもてなすのに、自分の羊や牛を殺すのが惜しくて、貧しい男の持っていた、たった一匹の小羊を取り上げて、客をもてなしたという話です。ダビデは、この話を聞いて、激怒して、「そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ」と言うのです。するとナタンは、ダビデに向かって、「その男はあなただ」と言い放ちます。ナタンは預言者ではありますが、ダビデの家来であります。気に入らなければ切り捨てられるかもしれません。ですから、ナタンのこの言葉は勇気ある発言です。ダビデは、初めは、自分のことを言われているとは気がつきませんでした。このように、私たちも自分のしている罪には気づきにくいのであります。自分の身近に何か問題があっても、自分が悪いとは考えず、誰かの所為にします。自分にも問題があることが分かっても、いくらでも言い訳を作って、正当化してしまいます。ダビデも自分のしていることが良いことだとは思っていなかったでしょうが、神様の前にはっきりと罪を認めることが出来ていなかったのです。そこで、ナタンは続けて神様の言葉を告げます。「わたしは、あなたに油を注いでイスラエルの王としたし、サウルの手から救い出したし、家も妻もあなたに与えたではないか。足りないものがあれば、いくらでも加えてあげただろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。」こう言った後、犯した具体的な過ちを指摘すると、ダビデはやっと自分が神様に対して罪を犯したことに気づくのであります。ダビデは13節で、「わたしは主に罪を犯した」と言っております。自分の罪を認めるということは辛いことであります。罪を認めることは、自分の存在自体を否定するように思えるのであります。口先で「私は罪人です」とか「私も過ちを犯しやすい人間です」ということは簡単に言います。しかし、心から悔いることは優しいことではありません。
 
では、どうすれば悔い改めることが出来るのでしょうか。この場合はナタンが勇気をもってダビデの罪を指摘いたしました。しかし、それを言わしめたのは彼の勇気だけではなくて、神様であります。ナタンは神様がどれほどダビデを愛しておられるかを語りました。その神様の愛の大きさを改めて知ることによって、ダビデは自分の罪を認めることが出来たのであります。あの放蕩息子の譬えで、弟息子が放蕩三昧をして父親の財産を使い果たしたとき、悔い改めて父の所へ帰ろうと思い立ったのは、父の恵みの数々を思い出したからであります。私たち自身では悔い改めることは難しいのですが、それを起こさせるのは、神様の恵みの事実であります。

4.罪の赦し

ダビデが13節で「わたしは主に罪を犯した」と悔い改めの告白をしたとき、ナタンはすぐ、こう言っております。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」罪を認めるように導かれた神様は、その罪を赦されるお方でもあります。ダビデが罪を認め、悔い改めたのは、ただ、バト・シェバやウリヤに対して悪いことをしたことに対してではありませんでした。恵み深い神様に対して罪を犯したことを知って悔い改めたのです。だから神様は赦しを宣言されたのであります。私たちの罪の赦しも同様であります。人に対する罪を認めても、必ずそこに言い訳が甦って来ます。状況がそうさせたのだとか、相手にも非があるとすぐ思い始めてしまいます。しかし、神様の愛を知ったときに、もう言い訳が出来なくなるのであります。それが本当の悔い改めであり、そこに神様の赦しがあるのであります。
 
ところが、この物語は神様の赦しの宣言で終わっておりまぜん。続いて14節でナタンはこう言っております。「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」と告げるのであります。罪が赦されたのに、なぜ、罪のない子供が死ななければならないのでしょうか。罪の結果は簡単に帳消しにならないものであります。正しい神様は罪を赦すとおっしゃることで、問題をあいまいにされるのではありません。ダビデは自分の犯した罪の大きさを改めて思い知らされることになるのであります。15節の後半以降は今日の箇所に含まれていませんが、どうしても目を向けざるを得ません。そこを読みますと、主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていた。ダビデはその子のために神に願い求め、断食をした。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした、とあります。ダビデは自分の罪の重さを改めて思わされて、必死に祈ったのであります。何を祈ったのでしょうか。子供が癒されることであるのは当然ですが、それだけではなかったでしょう。自分の罪が赦されることを祈ったのでしょう。しかし、現実に子供が死ぬばかりになっていて、神様の癒しや赦しを信じにくい状態にあります。しかし、ダビデはその中で祈り続けました。神様が赦すと宣言されたお言葉を信じ抜く祈りをしたのであります。そして、神様に全てを委ねる祈りをしたのではないでしょうか。

結.十字架による赦し

けれども、結局、18節にあるように、七日目にその子は死んでしまいます。罪のない子が死ななければならないのは不条理であります。しかし、罪の結果は誰かが償わなければならないのであります。
 
それでは、私たちの罪は、どのようにして赦されるのでしょうか。結局は、どこかで罪の償いをしなければならないのでしょうか。――そうなのです。誰かが罪の償いをしなければ、犯した罪は赦されないのであります。しかし、神様はその罪の償いをするために、罪を知らない御子イエス・キリストを十字架にお架けになったのであります。ダビデの子の死は、ダビデの子孫にお生まれになった主イエス・キリストを指し示しています。神様がナタンを通して宣言されたダビデの罪の赦しは、ダビデの子の死だけでは償いきれません。最終的にはイエス・キリストの死が必要だったのであります。
 
先ほど朗読していただいた、ローマの信徒への手紙118節以下には、私たちの罪の姿が赤裸々に述べられていました。このように私たちの罪の実相を語ったパウロは、8章では、神様の赦しの愛について述べています。そこを最後に読みましょう。831節以下(p285)をお開き下さい。
 
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」(ローマ83135a)だれも、どんな罪も、キリストの愛から私たちを引き離すことは出来ません。 祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストを賜るほどに私たちを愛して下さる父なる神様!
 
私たちは自分の罪に気づかず、あなたを蔑ろにしている者であることを覚えさせられております。どうか、イエス・キリストのゆえに、お赦し下さい。どうか、私たちの罪の償いを誰かに負わせないで下さい。どうか、あなたの赦しを信じ抜く信仰をお与え下さい。どうか、キリストの愛から私たちを引き離さないで下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年8月12日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記下12:1−15a
 説教題:「
罪の本質」         説教リストに戻る