序.誰が神の家を建てるのか

先週はサムエル記上17章のダビデとゴリアトの戦いの物語から御言葉を聴きました。今日の箇所はもうサムエル記下に入っておりまして、その間の長い物語を通り越してしまっております。それで、その間の粗筋を簡単にお話しておきます。
 
ダビデはゴリアトとの戦いに勝ったので、イスラエルの人たちの間で人気が高まりました。サウル王はそのことが気に入りませんでした。そしてダビデに対して殺意を抱くようになるのであります。それで、ダビデは逃亡生活を余儀なくされます。しかし、やがて、ペリシテ軍との戦いにおいて、サウル王は殺害されるのであります。そしてダビデは最初、南の方の出身地であるヘブロンの地でユダ族の王になってエルサレムに居を構えます。すると、北イスラエルの10部族の長老たちもヘブロンを訪れて、ダビデに王になるように要請します。こうしてダビデは全イスラエルの王となりました。そして、十戒を入れた神の箱が戦場に持ち出されていましたが、それをエルサレムに運び上げて、ここで礼拝をするようになりました。これでエルサレムは名実共に、イスラエルの都となったのであります。それが、サムエル記下の6章までに書かれていることであります。
 
そこで、今日の7章に入りますが、先ほどの朗読でお分かりのように、ダビデが自分の王宮は立派なものが出来ているのに、神の箱を納めて礼拝する神殿(つまり神様の家)は天幕を張ったままで、申し訳ないと考えて、顧問役の預言者ナタンに相談すると賛成してくれたのですが、その夜、ナタンに臨んだ神様のお言葉は、そんなものは要らないということで、逆に、神様はダビデの王座を堅く据えて、いつまでも続くものにするという約束を与えられたのでした。
 
ここではダビデの思いと神様のお考えが噛み合っていません。ダビデの思いのどこに問題があるのでしょうか。ダビデが建てようとしたのは、神の箱を納めて礼拝する場所、即ち神様が住まわれる場所です。今日で言うなら、教会を建てる、礼拝する群れを形成するということです。それを建てようとしたのに、どこが悪いのでしょうか。私たちはここ米子に、礼拝をする立派な群れを形成し、独立教会となることを願っております。そのことに問題がある、ということなのでしょうか。そのことをはっきりと聴き取る必要があります。
 
一方で、神様はダビデの王座を揺るぎないものにするという約束をなさいました。ダビデにとっては大変有難い話しなのですが、なぜ、この世の権力者に過ぎないと思えるダビデの王座を神様がお守りになるという約束をなさるのでしょうか。そもそも神様は世界に多くある民族の中からイスラエルの民を選んで、特別な関わりを持ちながら、この民を礼拝する民として育てて、救いの御業をなして来られました。ダビデの王座を揺るぎないものにするということは、単に特定の権力を神様が守られるということではなくて、救いの民を形成するということと関係しているようであります。ですから、ダビデの王座を揺るぎないものにするということは、神様を礼拝する群れを揺るぎないものにするということ、今日で言う教会を堅固なものとして建てるということと結びついているのであります。しかしそれは、単に、立派な教会堂を建てるということとは違うのであります。立派な神殿を建てるということなら、ダビデの権力と財力をもってしたら、簡単に出来たことかもしれません。しかし、それでは本当に神様を礼拝する群れは形成されないのであります。本当の神の家(神殿)を建てる、即ち、神様を心から礼拝する群れを形成するのは、他でもない神様ご自身がなさることであります。誰が神の家を建てるのか。その答えは本日の説教題にあるように、「主が家を建てる」ということであります。
 
今日は、そのテーマを念頭に置きながら、ダビデのどこに問題があったのか、また私たちの教会形成の主役はだれなのか、私たちにはどのような約束が与えられているのか、ということを与えられた箇所から聴いて行きたいと思うのであります。

1.神殿建設の発意

71節を見ていただくと、王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった、とあります。ダビデは30歳にしてイスラエルを統一して、王となりました。これまで散々ダビデを悩ましたサウル王も死にましたし、宿敵ペリシテを打ち破ることも出来ました。今は、レバノンから輸入した杉で造った王宮に住んで、安らかな日々を送ることが出来るようになりました。ダビデはこれらのことを、自分の功績だと誇っているわけではなさそうで、むしろ神様に対して感謝の気持ちが一杯なのであります。そのことは2節のダビデの言葉で分かります。王は預言者ナタンに言いました。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。」神様は自分にこんな立派な家も建てさせて下さり、安らぎを与えられているのに、神の箱は相変わらず天幕の中に置いたままでは申し訳ないという気持ちです。神の箱が天幕に置かれているというのは、粗末に扱ったということではなくて、イスラエルの民がエジプトから出て流浪の旅を続ける間、天幕生活をしていて、礼拝の場所も天幕(幕屋)の中で行われてきた伝統に従ったものでありました。しかし、今や安定した生活ができるようにしていただいたのだから、自分だけが安逸をむさぼっているのは申し訳ない、と思ったのであります。感謝の気持ちの表れといってよいでしょう。
 
預言者ナタンはこの王の言葉を聞いて、大変結構なことだと思いました。それで、3節にあるように、「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と言いました。つまり、神殿の造営に踏み切ることに賛成したのであります。
 
今日、神様の恵みに応えて、教会の土地を確保し、教会堂を建設し、宣教の拠点としての教会を形成するということは、優れた働きであります。この伝道所も、土地建物を提供する人がおられ、また会堂の建設に自ら労力奉仕する方がおられ、献金をする人たちがおられたので、ここまで整備が進んで来ました。これは強制されてやったわけでもなく、義務でしてきたことでもなくて、神様の恵みに対する自由な感謝から出てきたことであります。自分たちは立派な家に住んでいながら、神様を礼拝する場所が貧相では申し訳ないという思いは大切であります。ダビデもそのような思いで神殿の建設を発意したのでしょうし、ナタンが同意したのも同じ思いであったと思われます。

2.ダビデの間違い

ところが、その夜、ダビデに告げるべき主の言葉がナタンに臨みました。「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの民をエジプトから導き出して以来、今日に至るまで、家には住まず、幕屋を住みかとしてきた。自分はただの一度もレバノン杉の家を建てよとなどと言ったことはない。むしろ、自分は、イスラエルの人々に安らぎの地を与えて、そこに揺るぎない王国を築こうとしてきたのである」という主旨のお言葉でありました。
 
これはどういうことでしょうか。ダビデは神様の恵みを心から感謝しているのであります。その恵みに応えたいと思って、神殿の造営を思いついたのであります。神様はダビデのそのような思いを受け入れられないということなのでしょうか。
 
神様の恵みを喜び、感謝することが悪いわけではありませんし、その恵みに何らかの形でお応えしようとすることは立派なことです。しかし、その大きな恵みに応えて自分でお返しができると考えたところが間違いであります。神様と私たちとは、神様の恵みに対してお返しができるとか、私たちが神様のために何らかの貢献をすれば、恵みを受けられるといった、対等の関係ではありません。神様の恵みは限りなく大きくて深いのです。私たちがそれに報いることが出来るようなものではありません。ダビデはそのところを少々思い違いしたようであります。神様はここで、神の家を建ててはならないとは言われていません。しかし、繰り返しておっしゃっていることは、神様がイスラエルの民を愛し、安らぎを与えようとしておられるということです。神殿を建てたら神様はイスラエルを守って下さるとか愛して下さるというのではありません。あくまでも、神様がイスラエルの民を最後の最後まで愛し、守り続けて下さるということなのです。そのような神様に対する信頼があるのか、と問われているのであります。神様の恵みに対して、私たちが少々のことをしてもお返しなど出来ません。神様の恵みにお応えするには、神様が守って下さるとの信仰をもって、ただ礼拝し続ける以外にはないのであります。
 
ダビデが神殿を造営しようと考えたことには、もう一つの間違いがありました。それは、神様の住まいを造ることによって、神様がおられる場所を一箇所に限定してしまおうとしたことであります。神様は6節で、「わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた」と言っておられます。イスラエルはエジプトを出て長い旅を続ける間、一定の場所に長く滞在することは出来ませんでしたから、どこに行っても神様が礼拝できるように、幕屋(テント)が礼拝場所でありました。荒れ野の中を進むときも、砂漠を旅するときも、敵に立ち向かうときも、どこに行っても、どんな時も、神様がイスラエルの民と共におられて、彼らと苦労を共にされたのであります。
 
最近、パワースポットというのが一種のブームになっています。神聖な雰囲気のある場所や物を霊力が働くスポットと定めて、人集めに利用しているのであります。昔の霊場や聖地も同じようなことかもしれません。神様の働きをその場所に限定することによって、有難がっているわけです。しかし、真の神様は、人間が決めた場所にしか居られないのではありません。神聖な雰囲気の場所にだけおられるのでもありません。むしろ、神様が居られないのではないかと思われる過酷な場所や苦難の只中にこそ、神様は私たちと共にいて下さるのです。私たちが礼拝をする場所についても、立派な会堂がないと礼拝が出来ないということはありません。小さなあばら家でも、仮設住宅であっても立派に礼拝ができます。そこで、生きいきと神様の御臨在を覚えることはできるのであります。そこで、御言葉が語られ、聖餐が行われているなら、立派な教会であります。しかし、このことは、教会がなくてもよいという話にはなりません。また、どんな教会でも礼拝ができるなら、どこの教会に行ってもよいという話しにもなりません。私たちが神様との関係を大事にするということであれば、特定の教会に責任をもって連なるという形が伴わなければ、神様に対して責任あるあり方とは言えないでしょう。しかし、今日の主の言葉から私たちが学ばなければならないことは、私たちが神様の居場所を定めることは出来ないということであります。私たちは神様がお定めになった場所なら、たとえそれが、どれほど厳しい環境であっても、神様にお会いすることができるのであります。
 
私たちは、自分が安心できる憩いの場所、安らぎの場所を求めます。家族の絆がある家庭に憩いの場を見出したり、働き甲斐のある職場に居場所を求めたり、趣味の世界に浸ることができる場所で喜びを発見したりいたします。しかし、どこにも、醜い人間の罪があります。真の平安が用意された場所を、私たちが探し出したり、創り出したりすることは、罪人の私たちにはできないのであります。それならば、真の安らぎの場所として、神様を礼拝する神殿、今で言うなら教会を造ることは、神様も喜ばれるのではないか、と思うのでありますが、神様はそうしたダビデの思いに危うさを御覧になったのであります。真実の礼拝を可能にするのは人間ではなくて神様であります。神様はどんな場所においても礼拝を可能にされます。礼拝する場所としての神殿、今で言うなら教会を造るのも人間ではなくて神様であります。そのことを忘れて、自分たちで教会を建て、礼拝する場所を造ろうと考えるのは、人間の傲慢に他ならないのであります。

3.神の約束

以上、預言者ナタンを通して神様がダビデに語られた言葉の前半の部分(7節まで)を聞いて参りました。続いて、8節以下の後半の部分に入りますが、ここで語られていることは、まず第一には、911節にあるように、「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、・・・あなたに安らぎを与える」)ということであります。神様は神殿を造って差し上げないとそこにおられないのではありません。ダビデがどこに行こうとも、そこに神様は共にいて下さり、そこで敵をことごとく断ち、・・・不正を行う者に圧迫されることもなく、・・・安らぎを与えてくださる、とおっしゃるのであります。神殿が天幕であろうと、立派な建物であろうと、そんなことには関係なく、神様はダビデと共におられると約束なさるのです。
 
主イエスが言われた言葉を思い起こします。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自身)には枕する所もない。」(マタ820)これは、単に忙しくて休む暇もないという意味ではありません。主イエスは助けを必要とする人の所ならばどんな困難が待ち受けている所にでも出かけて行かれました。それは、困難を共にするためであり、罪人を救うためでありました。だから、主イエスには枕する所もないのであります。
 
そのように、神様は、どんなに貧しい者の所にも、どれほど過酷な労働の現場にも、どれほどの困難が待ち受けているように見える所にも、たとえそれが厳しい戦いの場であったとしても、そこで私たちと共にいて、そこでの苦しみや困難を共にして下さるのであります。
 
続いて1213節では、「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身からでる子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。・・・彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」と約束されます。これはダビデ王朝の永続性を約束しておられるのであります。
 
ダビデは神様の住まいを立派にしようと考えました。けれども神様はダビデの王国を揺るぎないものにすると約束されるのであります。これはどういうことでしょうか。冒頭で申しましたように、これは単にダビデの王家を優遇するということではなくて、神様の救いの御計画を実現するための特別な群れを形成するということであります。それはダビデが優秀だからとか、イスラエルの民が信仰深いからではありません。私たちはこの後、ダビデが大きな過ちを犯すことになることを知っております。しかし、ここで神様は14節後半で、こう言っておられます。「彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」そう言われた後15節で、「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない」とおっしゃるのであります。神様はここでダビデの過ちを赦すことまで約束なさっているのであります。つまり、ダビデ王国を揺るぎないものにするという約束は、罪の赦しと一体になった約束なのであります。
 
このことは、神様が共にいてくださるということは、ただ<困難な時にも助けて下さる>ということではない、ということを示しております。私たち人間が、過ちを犯すとき、神様に対して罪を犯すときに、私たちを懲らしめ罰するだけではなくて、赦すことまで計画しておられるということであります。これこそが、神様の救いの御計画であり、イスラエルという救いの民を形成し、やがて教会を形成されることの深い意味なのであります。

結.「ダビデの子」による王国の実現

ところで、このように、<ダビデ王国をとこしえに堅く据える>という約束を与えられたのですが、統一王国であったのはダビデと次のソロモンの時代だけで、ソロモンの後、王国は南北に分裂してしまいます。そして、北王国イスラエルは大国アッシリアのよって滅ぼされ、南王国ユダは紀元前587年にバビロンによってエルサレムが攻め込まれて、捕囚となって、王国は途絶えることになるのであります。神様の約束はどうなったのでしょうか。―――神様の約束は数百年後に、違った形で実現するのであります。それは、ダビデの子孫として生まれたイエス・キリストによって、新しい救いの王国・神の国として実現するのであります。神様の御計画というのは、単にダビデの王国が安泰であるということではなくて、罪の赦しと結びついているということを申しました。イエス・キリストによって実現した王国は、キリストの十字架による罪の赦しが確実となった赦しの王国であります。神様はその王国のことを約束しておられたのであります。
 
イエス・キリストはエルサレムの神殿に行かれた時に、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ219)とおっしゃいました。こんなことをおっしゃったので、十字架に架けられることになったのでありますが、ここで言われたことは、十字架の上で殺された主イエスが三日目にお甦りになることによって、本当の礼拝の場所を建て直すという意味でありました。ダビデが礼拝場所である神殿をエルサレムに建てようとしたのですが、本当の礼拝場所はダビデによってではなく、神様の独り子であるイエス・キリストによって建てられたのであります。それが教会であります。教会は場所を選びません。礼拝はどんな場所でもできます。神様はどんな場所でも共にいて下さるからであります。そして今日も、神様はこの小さな群れである私たちと共にいて、赦しの御言葉を賜り、礼拝をさせて下さいました。そして、私たちに神の国におけるとこしえの安らぎを約束して下さっているのであります。
 
詩編の127編ではこう歌われています。「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」(詩1271
 
しかし、神様御自身がこの場所に礼拝の場所を建てて下さり、このように主の日ごとに礼拝が行われているのですから、決して空しいことはありません。この礼拝に信仰をもって連なる人には、神の国の一員にされることが約束されているのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

主なる神様!
 
ダビデに約束し、イエス・キリストにおいて実現して下さった神の家に、今日もお招きいただいて、礼拝を献げることが出来ましたことを感謝いたします。
 
私たちは安らぎを求めつつも、不安の中にあって、自分で安らぎの場を建てようとする過ちを犯してしまう罪人であることを思わせられております。どうか、あなたの救いの御手を信じ、すべてをあなたに委ねる者とならせて下さい。
 
どうか、イエス・キリストにある赦しの故に、とこしえの安らぎの国に入れていただけることを信じる者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年8月5日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記下7:1−17
 説教題:「
主が家を建てる」         説教リストに戻る