序.人生は戦い――ダビデの戦いに学ぶ

このところ、旧約聖書のサムエル記の有名な箇所を通して御言葉を聞いております。サムエル記は祭司サムエルの名前がつけられていて、確かに最初の方ではサムエルが主役として登場するのですけれども、大半は初代の王であるサウルと2代目のダビデの物語であります。この時代はイスラエルがカナン(パレスチナ)の地域で勢力を拡大していく時期でありますので、戦争の場面が多く出て参ります。今日の箇所も、ペリシテ人というパレスチナ(この名称はペリシテという語に由来)地方の臨海部に勢力を伸ばしていた民族との戦いの中の有名なエピソードであります。先週聞いたように、ダビデはサウルに次ぐ王として神様の選びを受けていましたが、まだ彼が少年の頃の物語で、ペリシテ軍の大男であるゴリアトと一騎打ちをして打ち倒すという手柄を上げたお話しで、子供たちも大好きな物語でありますし、弱い立場の者が強い立場の者を倒したということで、自らの力の弱さに悩んでいる大人にも勇気を与える物語として好まれています。
 
しかし、私たちが聖書の物語としてこれを聴く場合には、単に弱い者が強い者を倒したということで気持ちがスカッとするというような読み方では、御言葉を聴いたことにはなりません。また、単に、神の民であるイスラエルに対する神様の恵みの歴史の一コマとして読むだけでも不十分であると思います。
 
考えてみますと、私たちの人生は戦いの連続であると言ってもよいかと思います。人生に立ち塞がる様々の困難、入学や就職における戦い、職場における戦い、家庭生活における戦い、病気や災害との戦いなどに次々と遭遇いたします。生涯、何の戦いもなく平穏無事に過ごす人なんていないのではないでしょうか。教会にもまた、この世との戦いがありますし、教会の内部においても不幸な戦いが生じることがあります。そのような様々の戦いにおいて、私たちはどう戦ったらよいのか、力の弱い自分や教会の現状を考えると、先行きに不安が広がるのでありますが、今日のこの物語はそのような私たちに力を与えてくれるのでしょうか。特に、信仰をもって戦うということは、どういうことなのか、そもそも何と戦うのかという敵を知る必要がありますし、私たちが戦う武器は何なのかということも教えられる必要がありますし、何のために戦うのかという根本的な点を知る必要がありますし、何よりも私たちの戦いには勝利があるのか、という点も気になるところであります。そういうわけで、今日は、ダビデとゴリアトの戦いの物語を通して、私たちの人生の戦いにおいて、信仰に立った戦いとはどういう戦いであるのかを学びたいと思うのであります。

1.ダビデとゴリアトの戦い(紙芝居)

今日、カリキュラムで与えられている箇所は1731節から40節までの範囲ですが、ダビデとゴリアトの戦いの物語は17章全体に亘っていますので、まずはその全体の粗筋を子供向けの紙芝居で見ておきたいと思います。(CS成長センター「ダビデとゴリヤテ」全7枚)

@ペリシテ人の軍隊がイスラエルに攻めてきた時のことです。ペリシテの軍隊には、ゴリアトという大男がいました。ダビデは、この大男と戦うことになりました。

Aペリシテ人の兵隊は、向こう側の山の上に集まりました。イスラエル人の兵隊は、こちら側の山の上に集まりました。深い谷をはさんで、お互いににらみ合っています。ペリシテ人の中に、だれよりも大きい人がいるのがわかります。その人がゴリアトです。頭には青銅のかぶとをかぶり、重いよろいを着ています。よく切れそうな刀と、長い槍を持っています。強そうです。イスラエルのサウル王様も兵隊たちも、とてもかなわないと思いました。

Bゴリアトは大きい声で叫びました。「イスラエルの弱虫ども、どうして並んで出てきたのだ?代表が一人出てこい!一騎打ちをしようじゃないか!さあ、出てこい!一対一で戦う勇気のあるやつはいないか!」出ていく人は一人もいません。イスラエルの兵隊たちは、こわがってみんな逃げだしました。

Cダビデが、サウル王様に言いました。「王様、あんなことを言わせておいていいんですか?だれも戦わないなら、ぼくがあの大男と戦います!」「おまえはまだ子どもじゃないか。ゴリアトにはかなわないよ。」「いいえ、王様、ぼくは羊を守るために、獣たちと何度も戦いました。ライオンだって熊だってやっつけました。いつでも神様が守ってくださいました。神様は、今日も、いつもと同じようにぼくを守って、神様を信じないあの大男を倒してくださるでしょう。」王様は、ダビデが言うことを信じて、戦いに行くことを許しました。 

Dダビデは谷に下りていって、河原で小石を五つ拾いました。ゴリアトが叫びました。「さあ、来い!おまえの肉を空の鳥や野原の獣にくれてやろう!」

Eダビデは堂々とゴリアトに言いました。「おまえは投げ槍を持って向かってくるが、神様がぼくを勝たせてくださる!この戦いは神様の戦いだ!神様は、刀や槍を使わないでイスラエルを助けてくださるのだ!」ダビデは、河原で拾った小石を石投げに入れると勢いよく投げました。ビューン!と石は飛んでいって、ゴツーンとゴリアトのおでこに当たりました。「あーっ!」大きい声で叫んで、ゴリアトは倒れてしまいました。神様が、ダビデを勝たせてくださったのです。

Fゴリアトが倒れると、ペリシテの兵隊は一目散に逃げだしました。「わーい!勝ったぞーっ!」イスラエルの人たちは大喜び。ダビデは、心から神様に感謝しました。

以上が、17章に書かれていることの粗筋ですが、この物語には、私たちの人生の戦いにおいて聞くべきことが含まれています。それをこれから聞き取って参りましょう。

2.敵はゴリアトか――罪との戦い

この戦いはイスラエルの民とペリシテ人との戦いでありましたが、当時、武器などの製造技術は圧倒的にペリシテ人の方が進んでいて、彼らは既に鉄器時代に入っていたのに対して、イスラエルは青銅器時代の武器しかなかったそうであります。その上、ペリシテには大男のゴリアトがいました。そして、堂々と一騎打ちを申し出て来ました。11節見ると
スラエルの全軍は、このペリシテの言葉を聞いて恐れおののいた、と書かれています。
24節にも同じように、イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた、と書かれています。イスラエルは神の民であります。神様が共にいて、神様が戦ってくださる筈です。それなのに、イスラエルの兵士たちは、目の前の敵の大きさや持っている武器の優秀さを見て、怖気づいて、神様がついておられることを忘れてしまっているのであります。そうした中で、ダビデはどうでしょうか。
26節後半を見ると、ダビデはペリシテ人についてこう言っております。「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか。」ダビデにとっては、ペリシテもゴリアトも、強そうに見えても、神様を知らない人たちであります。神様が味方であるイスラエルに挑戦しても勝ち目がないではないか、と思っているのです。イスラエルにとって本当の敵はゴリアトなどではなくて、神様の存在を忘れさせている自分たちの中の罪です。ペリシテ人との戦いの本質は、自らの中にある罪との戦いなのです。
 
私たちもまた、人生の様々な戦いにおいて、目の前に立ちはだかる困難の大きさ、自分の能力を遥かに凌ぐ競争相手の強さ、人間の力を超えた自然の威力などに怯えて、神様がおられることを忘れてしまいます。神様ではないもっと強そうで頼りがいがあるように見えるものに助けを求めようといたします。それは戦う前からサタンの誘惑に負けてしまっているのであります。人生における本当の戦いは自らの中にある罪との戦いであり、神を知らない者との戦いなのであります。私たちは人生の戦いで悩むと、世の中が悪い、親が悪い、自分を苦しめる相手が悪い、環境が悪い、運命の仕業だなどと考えて、自分に問題があることに気づかないのです。自分が神様の方を向かず、神様を信頼していない罪人であることに気づいていないのです。この罪と正面から向き合うことこそ、人生の本当の戦いの第一歩であります。

3.羊飼いの戦い――他のために生きる

次に、31節以下を御覧下さい。ダビデの言ったことを聞き及んだサウル王はダビデを召し寄せました。するとダビデは「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕(しもべ)が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」と申します。サウル王は「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ」と答えます。するとダビデは言いました。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼らは生ける神の戦列に挑戦したのですから。」――彼は少年ながら、羊飼いとして羊を守るために、命がけの戦いをしてきておりました。自分の利益のために戦うというよりも、父の羊を守るための戦いをしてきたのであります。それは、将来王になる者として、大変重要な経験であり、心構えであります。王になるとはイスラエルの民の羊飼いになることであります。王は自分の利益を計るのではなくて、民を命がけで守るのであります。ダビデはそのような羊飼いとしての王の、最初の役割を自ら果そうとしているのであります。ですから、ゴリアトとのダビデの戦いは羊を守る羊飼いとしての戦いなのであります。ダビデの強さの秘密はここにありました。
 
同じことは、私たちの人生の戦いについても言えることであります。私たちが人生の様々の戦いに遭遇するとき、自分の利益のために戦うということであれば、弱いものになってしまいます。なぜなら、自分の利益のための戦いには、後ろめたさが伴いますし、どうしても罪が入り込むからであります。しかし、他人のための戦い、羊のための戦い、神様の民のための戦いには後ろめたさはありませんし、覚悟が違いますし、何よりもそこに信仰があります。自分の人生の戦いが、自分の利益や自分の名誉のための戦いになっていないか、他人のため、人々のための戦いになっているかどうかを点検する必要があります。他人のための戦い、神の民のための戦い、羊飼いの戦いには、神様の守りがあり、勝利があります。主イエスはおっしゃいました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ1011)。この大牧者・羊飼いの羊飼いであるイエス・キリストがおられるので、小さな羊飼いとしての私たちの戦いには勝利が約束されているのであります。限られた人生であります。自分のために戦って多少の利益を得たって何になるでしょうか。却ってそこには罪が頭をもたげます。しかし、他人のため、羊のための羊飼いの戦いには、たとえこの世的には損をしたように見えても、神様の大きな祝福が待っています。本当の喜びが待っているのであります。

4.滑らかな石が武器――主の名によって

もう一つ、ダビデの戦いから学ぶことがあります。それは、何を武器として戦ったか、ということであります。38節によりますと、サウルはダビデをゴリアトと戦わせるに当って、自分の装束を着せました。ダビデの頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせました。ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみましたが、子供のダビデには大きすぎるし、重いし、邪魔になるだけでした。ダビデは「こんなものを着たのでは、歩くこともできません」と言って脱ぎ去ります。そして、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った40節)、のであります。持っている武器といえば、杖と滑らかな石と、石投げ紐だけです。大男のゴリアトが持っている武器とは大違いであります。ゴリアトはこれを見て、43節で「わたしは犬か」と言って、ダビデの武器を軽蔑しております。
 
しかし、ダビデはこの石と石投げ紐でゴリアトを倒したのであります。思いもよらぬ攻撃で、圧倒的に強力な武器を持っていたかに見え、大男で力持ちのゴリアトも倒されてしまいました。ここで決め手になった本当の武器は、何かと言えば、45節でダビデがこう言っております。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。」彼の武器は「神の名」でありました。それは、神様を信じる信仰が武器になったということであります。
 
ちなみに、パウロはエフェソの信徒への手紙で、悪との戦いに当って身に着けるべき武具について述べています。エフェソの信徒への手紙610節以下(p359)であります。
 
「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ61018)ここにはたくさんの装束と武器が挙げられているように見えますが、この世の競争社会で身に着ける武器とは全然違います。身を守る装束としては、真理の帯と正義の胸当てと平和の福音の履物と信仰の盾と救いの兜が挙げられていて、攻撃の武具としては霊の剣、すなわち神の言葉が挙げられているだけです。そして、祈ることが勧められています。こんな装束や武器で、この世の厳しい戦いに勝ち抜けるだろうかと思えるものばかりです。ダビデが用意した杖と滑らかな石と石投げ紐のように役に立たないように見えるものばかりです。しかし、人生の本当の戦いに勝利するためには、ここに挙げられたものこそが役に立つのであります。そして、相手に決定的な打撃を与えるのが、神の言葉であります。それは、相手を滅ぼすのではなくて、相手を生かす武器であります。

結.主の戦い――十字架の勝利

最後に、サムエル記の方の1747節を御覧下さい。ダビデはこう言っております。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るであろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」ダビデの戦いは人間の戦いではなく、そもそも主の戦いでありました。だから絶対に勝つのであります。私たちの人生の戦いは罪との戦いであると申しました。その戦いには私たちの力では勝利は危ういです。しかし、罪の戦いは主の戦いであります。主はイエス・キリストの十字架によって罪と戦って勝利して下さいました。ですから、罪と戦う私たちの人生の戦いには勝利が約束されているのであります。私たちはただ、神様が与えて下さる装束と御言葉という武具を身に着けているだけでよいのであります。
 
お祈りいたします。

祈  り

真の王・イエス・キリストの父なる神様!
 
ダビデとゴリアトの戦いの物語を通して、私たちの人生における戦いについて教えて下さいまして、ありがとうございます。
 
私たちは様々な困難に遭遇して、あなたを信頼するよりも、他のものに助けを求めて、罪を犯してしまう愚かな者であることを、改めて覚えさせられました。どうか、お赦し下さい。どうか、良い羊飼いであり、真の王である主イエス・キリストが私たちと共に戦っていて下さることを、絶えず思い起こすことができるようにして下さい。そしてどうか、人生の終わりに、神の国へと凱旋することが出来るように導いて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年7月29日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記上17:31−40
 説教題:「
主が守ってくださる」         説教リストに戻る