「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
                              (サムエル記上167

 イスラエルの最初の王サウルは、ペリシテ人、アマレク人との戦いにおいて、神の御命令に従わなかったので、王位をはずされることになった。祭司サムエルがこの神の処分に納得できずに悩んでいると、主は「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか」と言われ、次の王となるべき者に油を注ぐ(任命する)ために、ベツレヘムのエッサイのもとに行くよう命じられた。サムエルはそんなことをすれば、サウルに殺されるのではないかと恐れたが、主はいけにえを献げるように命じられた。それは、サウルの疑いを避けるための方策であると共に、主の使命を帯びることにはいけにえ(犠牲)が伴うものであることを示すためのものであった。
 さて、エッサイの家でいけにえの会食の後、サムエルは長男のエリアブに目を留め、彼こそ王に相応しい者だと思ったが、主は、「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われ、次男、三男と次々とサムエルの前に現れた七人の息子を選ばれなかった。末のダビデはまだ若いので、選考の対象にはならないだろうと、野原で羊の番をさせていたが、連れてこられると、主は、「立って彼に油を注ぎなさい」と命じられた。意外な人選であった。では、主が言われる「心を見る」とはどういうことか。それは、外見を見ないという意味だけでなく、内に秘められた能力や性質とか心根といったことを見るという意味でもない。「心を見る」とは、神との関係を見ることである。神に自分をいけにえとして差し出す心を見られるのである。ダビデは悪い思いを少しも抱かないような清廉潔白な人物であったわけではなく、後には大きな罪を犯すことになる。だが彼は、過ちを素直に認め、悔い改める柔らかい心を持っていた。
 しかし、そのような心も、彼の生まれつきの能力や性質ではない。彼が選ばれ油を注がれた時から、「主の霊が激しく降るようになった」(13節)のである。神によって使命を与えられた者には、神の霊が継続的に降ることによって、御心に適った働きが出来るようにされるのである。神は私たちのような者を用いて下さる際にも、必要な力と柔らかい心を、霊を注いで与え続けて下さるのである。そして、欠けの多い罪深い者をも、後にダビデの子孫としてベツレヘムで生まれ、私たちに代わって神の審きを受けて十字架に架かって下さった真の王である主イエス・キリストのゆえに、罪を赦されて神の国に入ることが許されるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年7月22日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記上16:1−13
 説教題:「
主は心によって見る」         説教リストに戻る