序.いつまでサウルのことを嘆くのか

先週はサムエル記上15章を中心に御言葉を聞きました。イスラエルの最初の王であるサウル王は、アマレク人を滅ぼし尽くすように神様から命じられていましたが、アマレクの王アガグを殺さずに生け捕りにしたり、動物の中の上等のものを惜しんで滅ぼし尽くさず、神様の御命令に従わなかったので、王位をはずされることになりました。
 
この神様の決定を祭司サムエルがサウル王に告げると、1524節以下にあるように、サウルは「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました」と言って罪の赦しを願うのですが、サムエルは「あなたは主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ」と言って、自らアマレク王アガグを切り殺して、ラマという所に帰って、それ以来、サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いたと15章の終わりの35節には書かれています。
 
しかし、サムエル自身としては、神様の処分を必ずしも納得していたわけではなくて、サウル王のことで悩んでいたようであります。今日の16章の1節の初めを見ますと、こう書かれています。主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。」この時、サウルはまだ王の地位に留まって、イスラエルを治めています。アマレク人との戦いに勝利して、イスラエルには平和が戻りました。サムエルの内心には<これで良いのではないか>との思いがあって、悩んでいたのでありましょう。神様の御命令というのは、私たちにとっても厳しすぎるように思えることがあります。この世の生活をしている中で、神様の御要求に完全に従うことなど出来るものではない、という思いが頭をもたげて来ます。そのために私たちは悩んだり、優柔不断の生き方を続けてしまうことがあります。神様は、そういう私たちに語りかけられます。「いつまであなたは、嘆いているのか。」―これは、神様の警告であり、招きの言葉であります。
 
神様はサウルのことで嘆いているサムエルに、こう命じられます。「わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」(7b)神様は後ろ向きのことで悩んでいるサムエルに、新しい王を選び出すという前向きの行動を命じられます。ここで、「角に油を満たす」というのは、雄牛の角で作った容器に油を入れて、任命の際に頭に油を注ぐという儀式を行う準備をすることです。
 
今日は、この新しい王を選ぶという出来事を通して、神様の御心を伺おうとしております。王を選ぶということは、私たちとは違う世界のことのように思えますが、そこには、神様が御自分の計画を進められる際に、どのような人物を求めておられるのかということが示されています。そこで示されることは、神様が私たちをお選びになる際に求められることにも通じることであります。神様は今日の物語を通して、私たちが神様にお従いする時に何が大切か、ということをお語り下さろうとしておられるのであります。
 

1.ベツレヘムで

ところで、神様が新しい王をお選びになるためにサムエルに命じられたのは、「ベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう」ということでありました。ベツレヘムと言えば、私たちは、あのキリスト誕生の夜に羊飼いたちが、天使から知らせを聞いて、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主がお知らせくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った(ルカ215)という出来事を思い起こします。また、東の国の星の学者たちが、星に導かれて新しい王を尋ねてエルサレムに来たとき、エルサレムの学者たちが聖書を調べて教えてくれたのは、新しい王はベツレヘムで生まれたということでありました。しかし、ベツレヘムというのは、サムエルの時代には小さな田舎町に過ぎませんでした。神様はそこをサウルに次ぐ新しい王が選ばれる場所とされたのであります。そして、この時から約1000年後に、この地に真の王であるイエス・キリストが誕生されることになるのであります。ここにも、神様のご計画があったことを思わされるのであります。神様は既にこの時に、神様の大きな救いの出来事をこの町から始められることをお決めになっていたということであります。

2.いけにえをささげる――平和なことのために

さて、神様から「ベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう」と命じられたサムエルは、この役目が危険を伴うものであることを思わざるを得ませんでした。サウルはまだ、王として君臨しています。別の者に油を注いで王を任命したことをサウルが聞いたなら、命を狙われるに違いありません。サムエルは神様にこう言います。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」サムエルですら、自分の身の安全を考えると、神様がお守り下さることを信じることが出来ず、神様のご命令にお応え出来ないのです。この訴えに配慮された神様は、「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」23節)と言われました。これは、一つにはサウルの疑惑を避けるための方策でありますが、大事な意味が含まれています。というのは、王に選ばれるということは民のために大きな犠牲を払う覚悟が必要であります。しかし、それだけでは不十分であります。王になろうとする者は、まず神様に対して自分を犠牲(つまり、いけにえ)として献げるものでなければならないということであります。その覚悟がなければ、民のためにもよい働きをすることが出来ません。同様に、新しい王の任命をするサムエル自身も、自分をいけにえとして献げる覚悟がないと、その務めを果たすことが出来ない、ということを神様はお示しになったのかもしれません。
 
このことは、王や祭司の役目に就く場合だけではありません。ローマの信徒への手紙121(291)では、信仰者としての生活に就こうとする者ついてこう書かれています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」―神様を信じる者の生活というのは、神様に自分をいけにえとして献げて委ねる生き方をするということであります。私たちが礼拝で献げる献金は、お礼の印ではありませんし、私たちが恵みを受けるための呼び水のようなものでもありません。献金は私たちの身も心も生活全部が神様のものである、ということの印として献げるもので、ここで言う「いけにえ」であります。
 
こうしてサムエルは、結局、主が命じられたとおりにしたのです。ところが彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねました。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」祭司というのは神様の御心を受けて行動することが知られています。祭司サムエルがわざわざベツレヘムの町にやって来ることは、何か大きな神様の意図があると、誰でも思わざるを得ません。神様のなさることはいつも人間の救いにつながることなのですけれども、人々にとっては往々にして不安を覚えたり、それまでの生活を脅かすことのように思われるのであります。
 
サムエルは「平和なことです」と答えます。神様がなさることは、一時的には何らかの混乱を伴うことがあったとしても、結局は、この地上に真の平和をもたらすためになさることであります。この日、ベツレヘムで新しい王が選ばれることは、やがて約1000年後に、その王の子孫に、真の王であるイエス・キリストがこのベツレヘムの地に誕生して、救いの御業が行われ、真の平和が実現するための備えであったのです。こうして、主にいけにえを献げることが行われました。

3.主は心を見る

さて、6節以下は、いよいよ新しい王が選ばれる、今日のハイライトの場面です。サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招きました。エッサイには8人の息子がいます。神様はそのうちの誰が王の候補者であるかを明示されません。息子たちがやって来ると、サムエルが最初に目を留めたのは、長男のエリアブでありました。長男だし、見た目も立派だったからであります。ところが神様はサムエルにこう言われます。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」最初の王サウルについては、「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」(92)と書かれていました。そのサウルが神様の御心に従うことが出来なかったことを忘れて、サムエルは見た目や長男という立場で評価してしまったのでしょう。このあと、エッサイは、次男のアビナダブ、三男のシャンマと、次々と七人の息子にサムエルの前を通らせるのですが、主はそのいずれもお選びになりませんでした。そこでサムエルはエッサイに尋ねます。「あなたの息子はこれだけですか。」するとエッサイは答えます。「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています。」エッサイは末っ子のダビデはまだ若くて、いけにえに参加する資格もなく、選考の対象にはならないだろうと思って同席させずに、野原で羊の番をさせていました。サムエルは「人をやって、彼を連れて来させてください」と言います。エッサイが人をやって、その子を連れて来させると、彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派でありました。主は言われました。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」こうして、サムエルは油の入った角を取り出して、末っ子のダビデに油を注いだのであります。それにしても意外な人選であります。エッサイにとってはもちろん、サムエルにとっても意外でありました。
 
主は「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われました。神様は外見や現在の立場で評価されるのではなくて、心を問題にされるということは、皆様も納得されるのではないかと思います。しかし、「心を見る」とはどういうことでしょうか。外見ではなく、内に秘められた能力や性質を評価されるということでしょうか。或いは、広い視野だとか、向上心だとか、人間に対する優しい心根といったことでしょうか。しかし、そうしたことならば、その人とある程度接触すれば見えてくることで、ここでおっしゃる「目に写ること」と言ってよいでしょう。では、心を見るとはどういうことでしょうか。
 
このことについて、ある人はこう言っております。「心を見る、というのは、神との関係を見ることであります。それは、その人が、神に対して従順になることができるか、神に対して謙(へりくだ)ったものになれるか、それを見るということです」と(竹森満佐一「ダビデ」)。こういう意味の「心を見る」ということは、人間には見え難いことでありまして、本当のことは神様にしか分かりません。神様の目的のために選ばれるのですから、神様に従順な心を持った人でないと用いられないということは理解できるのではないでしょうか。これは、この世の評価とは大きく違います。この世では、才能や能力や美しさや学歴や生まれ育ちなどが評価されますが、神様の前での人間の値打ちというのは、神様に自分をいえにえとして差し出す心なのであります。
 
ダビデも「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」と12節に書かれていました。しかし、それが選ばれた理由ではありません。むしろ、末っ子で人間の目には候補にも挙らなかったダビデの内に、神様の前に謙遜になる心が備わっていることを神様が見抜かれたことで選ばれたということが重要なのであります。
 
ここで、ダビデの生涯のことを御存知の方は、もう一つの疑問を持たれるかもしれません。それは、ダビデは後に大きな罪を犯すことになるという点です。ダビデは悪い思いを抱いたり、間違ったことをしない清廉潔白な人物であったかというと、そうではないのであります。神様はそういうダビデの心の内を見抜けなかったということなのでしょうか。そうではありません。神様はおそらく、そういう弱い面を持ったダビデであることを見抜いておられたのではないかと思います。けれども神様が見ておられたのはそれだけではありません。先ほど引用しましたように、ダビデには神様との関係を大切にする心がありました。間違いを犯した後でも、神様のお言葉を聞いて悔い改めることが出来る心を持っていました。それは、ダビデが元々備えていた素質というよりも、神様が与えてくださった恵みの賜物と言った方が良いかもしれません。神様はダビデをお選びになる時に、そのような心を与えられたということではないでしょうか。
 
このことは、神様が私たちを選んで、何かの役目を与えられる時にも当てはまることだと思います。私たちは外見においても、才能や性質においても、大した人間ではないかもしれない。しかし、神様の御用をするには、そんなことは問題になりません。神様は必要な能力や性質も備えて下さいますが、大切なのは神様の御心に耳を傾けて、それに素直に従う心です。神様はそのような柔らかい心をも私たちに与えて、間違った場合には素直に悔い改めて、神様の御心に沿った働きをさせて下さるのであります。コリントの信徒への手紙一では、こう言われています。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」(12627)また、悔い改めについては、ローマの信徒への手紙で、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(24)と言われています。神様は選んだ者には、必要な力も悔い改めの心も備えて下さるのです。

4.主の霊が激しく降る

しかし、ここで間違ってはいけないのは、神様に与えられた使命に応える力とか悔い改めることの出来る柔らかい心といったものは、一度与えられたら身について、いつまでも持続されるものかというと、そうではないということであります。13節を見ていただきますと、こう書かれています。
 その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
つまり、神様の霊がこの時からダビデの上に継続的に降るようになったのであります。主の霊は一度降れば、ずっと神様の御心に従った歩みを続けられるというのではなくて、継続的に降ることによってはじめて、御心に従った働きが出来るということです。

 14節以降を読みますと、その後、サウルとダビデがどのような関係になったかが記されています。主の霊がダビデに降るようになったのとは逆に、主の霊はサウルからは離れて、反って、サウルには悪霊がさいなむようになった、と書かれています。そして、サウル王は精神的に不安定な状態になったようであります。しかし、それですぐにダビデが王位を引き継いだわけではなくて、不思議なことに、不安定なサウルの心を慰めるために連れてこられたのが、竪琴を巧みに奏でるダビデその人であったのです。これは偶然ではなく、神様の御心によることでありましょう。これから後のことを、今日はお話することが出来ませんが、大切なことは、サウル王を継ぐ新しい王としてダビデを選ばれたのも神様であり、その場合に神様は心を見て選ばれたということ、そして、心を見るとは、神様に対して従順に従う心を持っているかどうかを見るということ、そしてその心は、一度与えられたらいつまでも持っておれるのではなくて、絶えず神様から霊を送っていただくことによって保たれることを学びました。その神様は私たちのような者をも選んで用いて下さいます。そして、神様に選び出された者には、絶えず神様の霊を送って下さって、神様の御心に従った生きたたが出来る力と素直な心も与えて下さるのであります。

結.ベツレヘムで生まれた真の王

最後に、もう一度、ベツレヘムでお生まれになった真の王であるイエス・キリストのことを思い起こしてみましょう。このお方について聖書は、サウル王のように、「民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」とは書いていませんし、ダビデのように「血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」とは書いていません。そうではなくて、お生まれになった時には、泊まる宿もなく、家畜小屋で「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とみすぼらしいお姿であったことが書かれていますし、十字架の上では人々から激しく罵られながら息を引き取られたのでありました。見た目には人より優れた姿はありませんでした。しかし、その心はしっかりと神様の御心に従っておられました。このお方こそ、神様の約束に従ってダビデ王の子孫に生まれ、私たちを永遠の御国へと入れて下さる真の王なのであります。
 
お祈りいたします。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
 
神様がダビデ王を選ばれた物語を通して、あなたが私たちを選んで、あなたのお役に立つように、必要な力だけでなく、御心に従う素直な心をも備えて下さることを覚えて、心より感謝いたします。
 
私たちは人の評価や見た目に惑わされる者で、御心に背きがちな罪深い者でございますが、どうか、御霊を送って下さい。そしてどうか、あなたの御心に適う者として、あなたに仕えさせて下さい。
 
どうか、あなたをまだ知らない方々、あなたとの出会いを求めている方々に、あなたが御言葉をもって出会って下さって、あなたの働きに携わる弟子へと召し出して下さいますようにお願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年7月22日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記上16:1−13
 説教題:「
主は心によって見る」         説教リストに戻る