「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」
                    (サムエル記上
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 イスラエルの最初の王に任命されたサウルは、周辺の民族との戦いに目覚しい働きをしたが、神様に対して二つの過ちを犯した。
 一つは、軍事力が圧倒的に優位なペリシテ人との戦いに臨むに当って、イスラエル兵が次々と戦線を離脱しはじめる中で、祭司サムエルの到着を待ち切れずに、自分で焼き尽くす献げ物(いけにえ)を献げて戦勝を祈願したこと。今一つは、かつてイスラエルの民がカナンに侵入しようとした際に妨害したアマレク人との戦いにおいて、主は「一切、滅ぼし尽くせ」と命じておられたにもかかわらず、アマレク王アガグを生け捕りにし、羊と牛の最上のものを滅ぼし尽さず、値打ちのないものだけを滅ぼした。このことをサムエルが追求すると、兵士がしたとか、羊と牛は主への供え物にするため取って置いたなどと言い訳をした。これに対してサムエルは標記のように述べた上で、「王位から退けられる」との主の言葉を伝えた。
 サウル王のしたことは、人間の目から見れば小さな過ちに見え、むしろ、指導者として適切な判断をしたようにも見える。そのためサムエル自身も「深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ」(11)のであるが、主の御声に聞き従うとは、自分の思いから勝手な判断をするのではなく、辛くても神が命じられたことを曲げずにそのまま従うこと、御言葉の御支配のもとに自分を置くことなのである。サウルは、いけにえを献げることは神に喜ばれると考えた。確かに、私たちが礼拝を守ることや献金や奉仕を献げることは大切であるが、そのことで自己満足に陥ったり、義務的に行われているなら、それは主が喜ばれない「いけにえ」になっていることになる。
 神に聞き従うことにおいて、サムエル以上に辛さを味わった方がおられる。それは十字架を前にして、ゲッセマネで祈られた主イエスである。主は「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られて十字架に向かわれた。この主イエスの従順があったからこそ、私たちの不従順が赦され、生かされていることを覚えたい。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年7月15日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記上15:10−23
 説教題:「
主の御声に聞き従う」         説教リストに戻る