序.サウル王の過ちから何を聞くか

6月末から11月にかけては、旧約聖書を説教のテキストにして、イスラエルの歴史を辿りながら、そこに示された神様の御心を聞き取って行くことになっています。先週はイスラエルの民が自分たちの国にも王様を立てたいとする中で、最初の王であるサウル王が立てられた経緯を通して、現代の私たちが聴くべき神様のメッセージを受け取ったのでありました。
 
王を立てるということは、裏を返せば神様を信頼しないということでありますので、当時のイスラエルの指導者であった祭司サムエルは反対なのでありますが、神様は王を立てることを容認されて、神様がお選びになったサウルが初代の王になったのでありました。
 
先週はサムエル記上の9章と10章から王が誕生した経緯を聞いたのでありますが、その後、11章から今日の15章まで、サウルはイスラエルの新しい指導者として、表向きは華々しい活躍をしたことが書かれているのであります。11章には、アンモン人が攻めて来たのに対して大勝したことが書かれています。12章には祭司サムエルが引退表明して告別の辞を述べたことが書かれていて、13書に入ると、ペリシテ軍との戦いのことが書かれていて、サウル王の息子のヨナタンの活躍もあって、次々と勝利を収めるのであります。そして、今日の15章になるのですが、ここではアマレク人というイスラエルの民にとっては数百年来の敵と戦って、殆ど全滅させるのであります。ところが、聖書はそのようなサウルの活躍ぶりを描くと同時に、そのサウルが早くも神様に対して大きな過ちを二度も犯してしまったことに重大な関心を寄せていて、先ほど朗読した最後の1523節の終わりには、「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」という、サムエルが告げた裁きの言葉を記すのであります。
 
先週は、神様がサウル王を選んで使命を与え、その使命を果す力をも与えられたということを通して、神様は私たちをも選び出して神様を信じる者として下さって、神様に仕え、その使命を果す力をも与えて下さるのだ、というメッセージを聞いたのであります。ところが、その私たちの見本のようなサウルが大きな過ちを犯してしまうのであります。このことはまた、私たちの見本であり、私たちに対する警告であります。そこで今日は、そのサウルの犯した過ちを通して、神様の御声に耳を傾け、御心に触れたいと思うのであります。

1.自分で焼き尽くす献げ物をした過ち

サウルが王になってから、神様に対して二つの過ちを犯しました。それらはいずれも、人間の目から見れば、小さな過ちに見えます。むしろ、サウルの指導者としての適切な判断であるとさえ見えることなのでありますが、祭司サムエルは、はっきりとその過ちを指摘するのであります。では、サウルはどんなことをしたというのでしょうか。
 
第一の過ちは、13章に書かれているペリシテ人との戦いに臨むに当ってのことでありました。2節によれば、サウルの配下にはイスラエルの民から選りすぐった三千人がいますが、一方、敵のペリシテ軍は、5節によれば、戦車は三万、騎兵は六千、兵士は海辺の砂のように多かったと書かれています。この数字は誇張が入っているとは思われますが、イスラエルの人々は、敵が圧倒的な勢力を持っている中で戦意を喪失して、洞窟や穴倉に身を隠したり、戦線を離脱する者もいました。当時、出陣する前には神様に焼き尽くす献げ物をささげて、戦勝を祈願するのが慣わしでしたが、サムエルは、七日間待って自分が到着してからその儀式を行うように命じていました。しかし、サムエルがなかなか到着しないうちに、イスラエル兵はどんどん散り始めます。サウルは痺(しび)れを切らして、祭司のサムエルが来て行うべきなのに自分で焼き尽くす献げ物をささげてしまうのです。そこへサムエルが到着して、13節にあるように、「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民に指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。」――王になったばかりのサウルはこのような厳しい裁きの言葉を受けなければならなかったのであります。ペリシテ軍との対決は、サウルの息子のヨナタンの英雄的な行動によって、結局、勝利に終わるのですが、サウルはサムエルを通して聞いていた神様の命令に背いてしまったのであります。敵の圧倒的な勢力を前にして、一時も早く出陣したいというサウルの気持ちは分からないではないのですが、神様が必ず守り導いて下さるという信頼を失っていたわけで、厳しいけれども神様の御言葉に聞き従うことこそ、最も大切なことなのであります。

2.滅ぼし尽さなかった過ち

サウルの第二の過ちのことが今日の15章に記されています。今度はアマレク人との戦いの中で犯した過ちです。アマレク人というのは、パレスチナの南部にいた民ですが、イスラエルの民がエジプトを出てカナン(パレスチナ)の地にやって来た時に妨害したので、神様から「わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る」(出エジプト1714)と言われていました。その時から数百年が経つのですが、アマレク人はまだ滅ぼされることなく、相変わらずイスラエルに敵対して邪魔をしていました。
 
そうした中で、サムエルはサウルに主の言葉を告げます。23節です。「万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」――これは神様からの全滅命令です。なぜ神様がこのような無慈悲とも思えるような厳しい命令を下されるのか、疑問に思う人がおられるかもしれません。<聖書にはこういう考え方があるから、世界から戦争がなくならないのだ>と考える人もいます。しかし、<なぜ神様がこのような命令を下されるのか>と問う権利は私たちにはありません。神様はすべての人を救いたいという意志をお持ちであります。けれどもその御意志を貫くために、それを妨げようとする者たちを完全に滅ぼすという、辛い決断をなさることがあるということであります。神様は御自分の目的を貫かれるためには、多少の犠牲もやむを得ないなどという大雑把なことを考えておられるわけではありません。そのことは、5節から6節までを読むと分かるのですが、アマレク人の町の中に少数民族のカイン人が一緒に住んでいました。彼らはイスラエルの民がエジプトからやって来た時に親切にしてくれたので、巻き添えにならないために、立ち退くようにサウルを通して言っております。
 
さて、サウルはアマレク人に対する神様の全滅命令をどのように実行したのでしょうか。8節以下を見ると、こう書いてあります。アマレクの王アガグを生け捕りにし、その民をことごとく剣にかけて滅ぼした。しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした。89節)サウルは命令に従って、残酷にも男も女も、子供も乳飲み子も滅ぼすのですが、自分と同じ身分のアガグ王には憐れみをかけます。値打ちのない動物は滅ぼすのですが、肥えた動物など上等の動物は惜しんで滅ぼしませんでした。なぜこのようにしたのか、その動機は明らかではありません。12節を見ると、サウルはカルメルに自分のために戦勝碑を建てたことが書かれていますように、自分の手柄を誇りたくて、アガグ王を生け捕りにして見せしめにし、立派な戦利品を獲得出来たことを民に見せたかったのではないでしょうか。
 
しかし、それは神様の命令に対する違反であります。既に神様は、サウルが神様の命令どおりにしなかったことをご存知で、11節でサムエルに、「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果さない」と言っておられます。サムエルが深く心を痛めてサウルのところにやってきますと、サウルは13節で誇らしげに「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果しました」と言うのですが、サムエルは14節で、「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか」と、サウルを追及します。するとサウルは15節で言い訳をして、「兵士がアマレク人のもとから引いてきたのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです」と言っております。兵士の所為にした上で、主への供え物にするなどという勝手な口実を述べております。しかし、神様の命令どおりに実行しなかったことは紛れもありません。
 
そこでサムエルは神様から告げられたことをはっきりと語ります。1819節を読みます。「主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」ところが、サウルはまだ分かっていません。20節でサウルは、「わたしは主の御声に聞き従いました」と言って、続けて、アガグ王を捕らえたこと、主への供え物として最上の羊と牛を取り分けたことを、まだ述べています。彼は自分が間違っていたとは思っていないのであります。さっき申しましたように、自分の手柄を誇ろうとしている浅ましい自分にも気づいていないようです。ペリシテ人との戦いの際に、自分が先走ったことをしてしまって警告を受けた、あの第一の過ちのことも忘れているかのようです。自分で良かれと思うことであっても、神様の御命令と違うことをするのは、御声に聞き従わないことになるのであります。

3.聞き従うことはいけにえにまさる

このようなサウルに対して、サムエルは22節で、こう語ります。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」――これは深くて重い言葉であります。これと同じ主旨のことは、旧約聖書では詩編やその他に何度も出てきますし、新約聖書の中でも主イエス自身が引用されたし、朗読したヘブライ人への手紙にも書かれています。
 
ここで「いけにえ」と言われていることは、私たちの「献金」や教会での「奉仕」と読み替えてもよいでしょう。「献金」や「奉仕」が不要であるとか、重要ではないということではありません。しかし、「献金」や「奉仕」によって、神様の御声に従うことを大目にみてもらおうとするような態度を神様はお赦しになりませんし、「献金」や「奉仕」さえきっちりとしておれば、礼拝は時々出ればよい、と考えるのは、神様の御声に聞き従うことを軽視していることになります。礼拝に出て、神様の御声に耳を傾け、それに聞き従うことが第一で、そこで受けた恵みに応えて、「献金」や「奉仕」が出てくるのであります。
 
では、礼拝に休まず出席して、説教に耳を傾け、祈りを捧げ、讃美をしておれば、主の御声に聞き従っていることになるのでしょうか。これはよく考えてみる必要があります。確かに、礼拝に出席することに大きな困難や戦いがある中で、敢えて、神様の招きの言葉に従って礼拝に行くということであれば、それは神様の御声に聞き従うということになるかもしれません。しかし、何の抵抗もない中で、習慣的に教会に来て、礼拝に参加しているというだけで、神様の御声に従っていることになるでしょうか。あるいは、多少の抵抗や、自分にとっての不利益がある中で、礼拝に出席していることが、本当に神様の御声に聞き従っていることになるでしょうか。もしかすると、礼拝に出席することが「いけにえ」を献げることになってはいないでしょうか。礼拝に出席することが自己満足に陥っていたり、義務的になっていたり、自分の敬虔さを誇ることになっているとすれば、それは、礼拝に出席することが「いけにえ」を献げることになってしまっているのであって、もはや神様の御声に聞き従うということではないでしょう。神様の御声に聞き従うとは、自分が満足するとか、自分で納得出来るとか、自分を誇らしく思えるということとは違うのであります。神様の御声に聞き従うとは、今日のサウルの物語から示されるように、神様が命じられたことを曲げずにそのまま従うということであります。御言葉のご支配のもとに自分を置くということであります。
 
先週の月曜日に中国地区の教職者会がありまして、尾道西教会の傳先生がイーヴァントという人が書いた「説教学講義」の一部を紹介されました。そこには教会が牧師を招聘して、御言葉を語るという職務を委ねるということの重要性が述べられていて、イーヴァントが強調するのは、教会がその職務を委ねた限り、そこで語られる御言葉を自分が気に入ろうが入るまいが、教会員はそれに聞き従わなければならないし、また語る方も、自分の思いを語るのではなく、また教会員の喜びそうなこと・期待していることを語るのでもなくて、神の言葉そのものを語らねばならないということでありました。牧師も教会員も、自分を御言葉のご支配の下に置くということが大切なのであります。
 
10節を御覧下さい。こう書かれています。主の言葉がサムエルに臨んだ。「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果さない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。ここで神様が「わたしは悔やむ」とおっしゃっていることに違和感を覚える方がおられるかもしれません。何でも見透せる筈の神様が失敗して悔やまれることなどあるのだろうか、という疑問です。この「悔やむ」という言葉は<惜しむ>とか<残念に思う>といった心情を表わすこともありますが、<思い直す>とか<行為や取り扱いを変える>という意味も含まれています。つまり、人間の側の行動や態度が変わることによって、神様がその人に対する従来の取り扱い方を変えられることも「悔いる」という言葉で表現されるのであります。つまり、ここでは、サウルが神様の命令に不従順であったので、王に相応しくないと思い直される、ということであります。ここで注目したいのは、神様が悔やまれたということではなくて、神様の御声を聞いたサムエルの心情であります。「彼は深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ」、とあります。サムエルは、サウルが神様に捨てられるということについて、神様に激しく抗議したのであります。サウルは確かに神様の御命令に背きました。しかし、ペリシテやアマレクとの戦いにおける彼の功績は大きいですし、イスラエルの民やサウルの部下の心はサウル王から離れていません。何とか神様の決定を変えることが出来ないか、神様に訴えたのであります。しかし、結局、神様の御決定に従わざるを得ないのであります。そして、23節の最後にありますように、サウルに対して、「主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる」という言葉を語らねばならなかったのであります。正に、サムエルは自分の思いに反して、神の声に聞き従ったのでありました。
 
このあと24節以下では、サウルは自分が主の命令とサムエルの言葉に背いて罪を犯したこと告白して、赦しを願うのですが、もはや、赦されることはありませんでした。27節を見ますと、サムエルがサウルに最後通告をして立ち去ろうとしたとき、サウルはサムエルの上着の裾をつかむのですが、上着は裂けたと記されています。これは二人の間に入った決定的な裂け目であると同時に、サウルと神様との間の裂け目をも象徴しているように思えます。この時以来、サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会わなかったと35節に記されています。これが神様の御声に聞き従うということであります。神様の御声に聞き従うとは、自分の思い、自分の立場に捉われるのではなくて、神様の厳しい決定に従うということであります。

結.聞き従った主イエス

最後に、もう一度、「聞き従うことはいけにえにまさる」という御言葉を聴きましょう。「いけにえ」を献げることは大事なことであります。神様を礼拝し、献金や奉仕をすることは大切であります。しかし、「聞き従うことはいけにえにまさる」のであります。聞き従うことは私たちの思いや満足とは違うことをすることです。心地良いことであるよりも辛いことであります。サムエルはその辛さを偲んで、神様の御声に聞き従いました。しかし、サムエル以上に神様に聞き従うことの辛さを味わった方がおられます。それは、十字架にお架かりになる前にゲッセマネの園で血の汗を滴らせながら祈られたイエス・キリストであります。主イエスはこう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」この主イエスの父なる神様に対する従順があったからこそ、私たちの不従順が赦され、生かされているのであります。この主イスの従順があるから、私たちはもう神様の御声に聞き従わなくてもよい、ということにはなりません。主イエスの従順によって、私たちも、自分の思いや立場を超えて、私たちなりに、神様の御声に聞き従う者へと変えられるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
御声に聞き従わず、御心に反することの多い私たちでありますが、主イエス・キリストの十字架の従順の故に赦されて、こうして御前にあって、御言葉を聞くことが出来ますことを感謝いたします。
 
どうか、私たちの勝手な思いを捨てて、御言葉に耳を傾け、御言葉に聞き従う、従順で勇気ある信仰をお与え下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年7月15日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記上15:10−23
 説教題:「
主の御声に聞き従う」         説教リストに戻る