序.私がキリスト者に?

今日は、この礼拝の後で、先日天に召された狩野陽子姉の記念会が開かれます。そのためにこの礼拝には、御遺族の方々や、生前に姉妹とお交わりのあった方々もお見えになっております。そういう方々は、故人を偲び、互いに慰め合うことを主な目的として、来ておられるのでありまして、はっきり言って、神様を礼拝するのが主な目的で来ておられるのではないかもしれません。まして、この機会にキリスト教の信仰を持つとか、キリスト教の信者になるきっかけにしようといったことは念頭に置かれていないのではないかと思います。
 
しかしながら、神様が考えておられることは、いつも私たち人間の思いを遥かに超えています。神様はいつも私たちを救いに入れよう、神様が治めておられる神の国に入れようとなさっておられます。そして、あらゆる機会を用いて、私たちに働きかけられるのであります。神様には神様のご計画があって、これとお決めになった人を導いて、神様に愛され、神様を信じ、神に仕える人を作られるのであります。ですから、狩野姉が天に召されたことによって作られたこの機会も、神様は最大限に用いて、お集まりの一人ひとりに向き合って、御心を伝えようとなさっているのではないかと思います。
 
実は、ここにおります信者の方々も、初めからキリスト教を信じようとしていたわけではありません。神様が色々な機会を用いて捕らえて下さったので、今、キリストを信じる者とされているのであります。誰でも初めは逃げ腰であります。初めだけではありません。人間は皆、神様から大きなお恵みを与えられているにもかかわらず、それに感謝するどころか、いつも自分勝手なことをしてしまうのであります。でも、神様はそんな私たちをお見捨てになることなく、このような礼拝の場や、色々な機会を用いて、神様の許にある恵みと喜びの中に連れ戻して下さるのであります。神様はそのような働きかけの機会として、この礼拝の場を設けておられるのではないかと思います。
 
先ほど旧約聖書と新約聖書の2箇所が朗読されました。普段聖書に馴染んでおられない方は、これらは何のことが書いてあるのか、一度お聞きになっただけではお分かりにならないと思いますし、特に、旧約聖書の方は、イスラエルの民に最初の王様が与えられた時のことが書いてあるのですが、これは紀元前1000年以上も前のことでありまして、およそ現代の日本の私たちとは関係がないことが書かれているように思えるのであります。しかし、この二つの聖書が共通して扱っていますことは、神様がある一人の人を恵みの対象として選んで導かれるとは、どういうことなのか、ということが記されているのでありまして、ここに書かれていることは、私たち一人ひとりにも当てはまる普遍的なことなのであります。ですから、「自分は神様の選びの対象ではない」とか、「クリスチャンになる気はない」と思っている方も、しばらく聖書の言葉に耳を傾けていただきたいのであります。

1.王を求めた不信仰な民なのに

そこで最初に、当時の歴史的背景や、前後の関係についてご説明したいと思います。イスラエルの民は唯一の神を信じる民族でしたが、紀元前1300年ごろまで400年ほど、エジプトの奴隷状態にありました。しかし、そこに神様はモーセという指導者を与えられて、エジプトから脱出させて、カナン地方(今のパレスチナ)へ導かれて、そこに定着するようになったのであります。初めはモーセの後継者であるヨシュアという人がリーダーでしたが、その後、周辺民族と戦わなければならない時には、士師と呼ばれる英雄的な人物が現れて働くのでありますが、基本的には神様が守り導いて下さると信じておりましたから、強力な政治的・軍事的体制を組む必要がなかったのであります。けれども、(先週に学んだことですが)周辺民族が王政を敷いて力を増して、その圧力が激しくなるにつれて、イスラエルの民も周辺諸国と同じように王を立てたいと考え始めたのであります。当時の指導者は祭司といって神殿での祭儀を行うことを主な役割とするサムエルという人だったのですが、民の長老たちは、このサムエルに王を立てることを申し入れるのであります。しかし、これは裏を返せば、神様の守りを信じないで、人間の政治力や軍事力で戦おうとすることであって、信仰とは裏腹のことでありますので、サムエルは反対でありました。しかし、民の要求が強い中で、神様は王を立てることを容認なさるのであります。それは、王というような権力者を置くことが、結局は搾取を招いて、民が苦しまなければならないことを、民に身をもって分からせるためという理由がありました。それにしても、神様のなさり様は、私たちにとって意外であります。というのは、神様が自分を信頼しないイスラエルの民をお見捨てになるのではなくて、あくまでもこの民と関わって行こうとされるからであります。リュティという説教者はこのことを面白い比喩を用いて表現しています。それは、<イスラエルの民は間違った列車に乗り込んで、神様の民として向かうべき目的地とは違った方向に向かおうとしているのだけれども、神様はその間違った列車に乗り込んで、一緒に行かれるようなことだ>というのです。この神様のなさり様は理解に苦しむところであります。
 
先ほど読んでいただいたのはサムエル記上の10章ですが、一つ前の9章から、イスラエルの最初の王が神様によって選ばれた経緯が記されています。そこに書かれている物語のあらましを見ておきます。

2.サウルが王とされた経緯

イスラエルの民の中のベニヤミン族という小さな部族のキシュという人の息子でサウルという人物が登場します。ある時、キシュの大切にしているロバが行方不明になります。当時の農家にとって、ロバは大きな財産でした。それで息子のサウルに捜しにやらせます。ところが彼がなかなか見つけ出せずに困っていると、供の若者が祭司のサムエルを訪ねて教えてもらったらよいのではないかと言い出します。一方、神様はサムエルにサウルという男がやって来るので、その男に油を注ぐという任命の儀式をして、その男を指導者(ここではまだ王とは言われていない)にするよう命じられるのです。そこでサムエルは訪ねてきたサウルに、イスラエルの期待がかかっていることを説明します。サウルは、自分は小さな部族であるベニヤミン族の一族で、指導者になるなんておこがましいと言うのですが、サムエルはサウルを大いに歓待いたします。そして、10章に入りますが、次の日の朝、サウルの頭に油を注いで、主があなたを指導者とされたのだということをはっきりと申し渡します。さらに、捜しているロバについては、居場所を教えてくれる人に会うことができるということと、また、サウルの上に主の霊が激しく降ること、そして神様がサウルと共におられるので、しようと思うことは何でもしなさいということを告げます。こうして、サウルはイスラエルの新しい指導者に選ばれるわけです。
 
その後、サムエルはイスラエルの民を集めて、彼らが「王を立ててください」と申し入れたことを受け入れて、彼らに王を選ぶくじを引かせますと、不思議なことにサウルが選び出されるのであります。
 
ところが、この時人々はサウルを捜しますが、彼の姿が見当たりません。彼は荷物の間に隠れていました。自分が王になどとてもなれないと思って、隠れていたのであります。しかし、神様が隠れている場所を教えられて、民の前に引き出されます。こうして民は喜んでサウルに「王様万歳」と叫ぶのであります。最初の王の誕生であります。
 
以上が、サウルがイスラエルの最初の王になった経緯なのですが、このことから私たちは何を教えられるのでしょうか。ここに書かれている物語は、大昔の、遥かに遠い国で起こった出来事で、私たちとは殆ど関係のないようなことなのですが、冒頭にも申しましたように、神様が一人の人間を選んで深く関わって下さる時の、神様のなさり方を示しているという点で、決して私たちと無関係なことではないのです。そのことを考えながら、もう一度経緯を振り返りたいと思います。

3.ロバを求めて王に

サウルは最初、姿を消した父親の大事なロバを探しに出かけました。これは失ったものを取り戻すための作業であって、マイナスをゼロに戻すだけで、プラスを生み出す前向きの作業とは言えません。私たちの人生においても、このような、やむを得ずしなければならない後ろ向きの作業が結構あるものであります。失敗したことの後始末、痛めた体の回復、不幸な災害からの復興などの後ろ向きのことに、時間とお金と体力を消耗しなければならないことがあります。しかも、簡単に元通りに回復するとは限らないし、後遺症が残ることもしばしばであります。長い人生の中で、ずっとその重荷を負い続けなければならないことだってあります。サウルも山を越え、地を巡ってロバを探すのですが、見つけ出すことが出来ませんでした。
 
ところが、神様はロバを捜し求めての不毛の旅を、サウルがイスラエルの指導者になるきっかけとして用いられたのであります。サウルの供の若者が、先見者との呼び声が高いサムエルに相談したらどうかということを思いつくのであります。出かけてみると、既にサムエルは食事の用意をして待っているのであります。サムエルが神様からのお告げを受けていて、イスラエルの指導者となるべき人がやって来るのを待ち受けていたのであります。そして、行方不明のロバも見つかっていると告げられるのであります。こうしてサウルをイスラエルの王にするとの神様の御心が実現するのであります。
 
<こんな旨い話しはそうあるものではない>と、皆さんはお考えになるかもしれません。しかし、神様がなさることは、これと同じようなことではないにしても、人が探し求めているものとは違って、遥かに大きな結果に至るのだということを、この出来事は示しているのではないでしょうか。その結果は私たちが期待していることとは違うかもしれませんが、私たちの思いや願いを超えた、神様の御心に適った事柄なのであります。

4. 隠れている者を引き出して

次に、サウルはこのような神様の導きに対して、最初は逃げ腰だったことに注目したいと思います。
 
9章の20節あたりで、サウルがサムエルを訪れた時に、サムエルが、「全イスラエルの期待は誰にかかっているとお思いですか。あなたにです。そして、あなたの父の全家にです」と言いますと、21節でサウルは答えて、「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか」と言っております。これは余りにも大きな話しに驚いている発言でありますが、同時に、もしそれが本当になるなら、他の部族の人たちから妬まれたり、抵抗を受けたりするのではないかと考えて、尻込みしている発言ではないでしょうか。
 
また、10章の14節以下には、サウルのおじとの会話が記されていますが、おじが「サムエルが何と言ったか話しなさい」と言った時に、サウルは「ロバが見つかったと教えてくれました」と答えるのですが、サムエルの語った王位のことについては、おじに話さなかった、と書かれています。サウルは余りに大きな役割を与えられたので、そのことを正直に報告出来なかったのです。それはサウルがまだ信じられない思いであったということと同時に、出来れば避けたいという思いがあったからではないでしょうか。
 更に、20節以下で、王を選ぶくじが実施された時、くじは見事に神様の御心どおり、サウルに当るのですが、サウルは姿をくらまして、荷物の間に隠れていたことが書かれています。これは彼が引っ込み思案であったというだけではなくて、王に選ばれることの恐ろしさの余り、逃げ出したかったからではないでしょうか。しかし神様は、隠れていようとする者を探し出し、逃げ出そうとする者を召し出して、神様が定められた御用に当らせられるのであります。そして、ロバを探していたサウルにもっと大きなものを発見させられるのであります。
 
私たちも、神様の選びを受けて、お招きを受けると、逃げ腰になります。煩わしいと言う思いや、これまで歩んできた人生が大きく変えられることへの恐れを感じるからであります。しかし神様は、逃げ隠れする私たちを探し出して、私たちが逃げ出したかったところに大きな恵みがあることを発見させて下さるのであります。

5.霊が激しく降り

このように、サウルが神様によって王に選ばれるということは、人間の思いを超えたことであり、逃げたくなるような恐れを感じざるを得ないことでありましたが、そこには神様からの大きな力(霊の力)が働いているという事実にも目を留めたいと思います。
 
10章の初めで、サムエルがサウルに油を注いだあと、サムエルがサウルに語った言葉が書かれていますが、6節のところでサムエルは、「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう」と言っております。そして実際、その後、サウルがサムエルと分かれて帰途について、ギブアというところに来た時、神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になったのであります。「神の霊が降る」というのは、神様の力が働くということであります。「預言する状態」というのは、神様の御心に沿って言葉を語ったり行動したり出来る状態ということです。サウルが元々王に相応しい能力を備えていたから選ばれたということではなくて、神様の選びを受け、神様から霊を注がれて、御心に適った働きを出来るようになった、ということであります。
 
私たちもまた神様から召しを受けてクリスチャンになるとき、あるいは何かの使命を与えられるとき、神様は私たちが元から持っている能力や資質を用いて使命に応えさせるというだけではなくて、霊の力を注いで下さるのであります。私たちは、たとえ素晴らしい能力を持っていたとしても、それを人間の思いで用いたならば、神様のお考えとは違ったことをしてしまいます。絶えず、神様の霊を注いでいただかなくてはなりません。神様が選んで召し出して下さった以上、神様は必ず霊の力を注いで、御心に従って用いて下さる筈であります。

結.神があなたと共におられる

もう一度、10章6節、7節を御覧下さい。「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう」とサムエルが言ったあと、「これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです」と言っております。先ほど、リュティという人の言った譬えを紹介しました。イスラエルの民は王様を要求するという間違った方向へ向かう列車に乗ったのでありますが、神様はそのような列車に一緒に乗り込まれる、というのであります。イスラエルが神様を信頼せずに王を立てることを求めたことは、間違った選択でありました。そのために、このあと実は悲劇が訪れることになります。しかし、神様はその間違った列車を勝手に行くがままにされるのではなくて、その列車に一緒に乗り込んで下さって、その列車が遭遇する悲劇の結果をも一緒に担って下さるのであります。神様はその後、イスラエルの民の中に御自分の独り子イエス・キリストをお遣わしになります。そして、主イエスは十字架の悲劇をお受けになるのであります。しかし、そのことを通して、神様はサタンの支配へと向かおうとする人類の悲劇的な歴史を、自ら担って下さることによって、救いへと導いて下さったのであります。
 その神様は、誤った方向へ向かおうとする現代の人類の列車、また私たちの人生の列車にも共に乗って下さって、私たちが負わなければならない悲劇を共に担って下さるのであります。そこには、人類の本当の救いがあり、私たちの人生の救いがあります。今日神様は、サウルが王とされた物語を通して、私たちを招いておられます。私たちにはその招きが煩わしく思われ、そこから逃げ出したい思いがあるかもしれません。自分にはそんな資格がないという思いがあるかもしれません。しかし、神様は私たちを召し出そうと、ここに招かれたのであります。私たちは神様とは別世界の人生を歩んで来たかもしれませんし、これからも別の世界を歩もうとしているかもしれません。しかし神様は今日、私たちの人生の列車に乗り込んで来られたのであります。それは、突然の思いつきや偶然ではなくて、神様がずっと昔から御計画なさっていたことであります。そのことがサウルに起こったように、私たちにも起ころうとしているのだということを心に留めていただきたいのであります。
 
最後に、先ほど朗読していただきました新約聖書の方をお開き下さい(新p352)。14節以下を読みます。私たちに語られている御言葉としてお聞き下さい。
 
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。147
 
以下は省略いたしますが、ここには、神様が私たちを選んで、イエス・キリストによる救いの恵みに入れようとして下さっているということが言われています。私たちが、この日の礼拝に招かれているのは、その神様の救いのご計画の一環だということを覚えたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

世界をご支配なさり、すべての人を救いへと導こうとなさっている父なる神様!
 
今日、私たちを御許に呼び集めて下さって、サウルの選びの物語を通して、私たち一人一人に語りかけて下さったことを感謝いたします。
 
私たちは御心に反して、勝手な歩みをしている者たちであり、あなたの選びを受けるに相応しい者ではありませんが、どうか、あなたの永遠の救いの御計画のうちに加えて下さい。私たちは特別な力を持ち合わせている者ではありませんが、どうか、御心に適う働きを少しでもさせていただくことが出来るよう、霊の働きをもってお導き下さい。
 
この国が、また人類が、誤った方向に向かおうとしている時にも、あなたがお見捨てになることなく、関わり続けてくださいますように。一人でも多くに人が、救いに入れられますように、お願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年7月8日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記上10:1−27
 説教題:「
主が選んだ人」         説教リストに戻る