序.何を頼みとするか

私たちの人生において、何を頼みとして(何を拠り所として)生きるのか、ということは、とても大切なことであります。しっかりとした拠り所がないと、ちょっとした難しい局面に出会うと、どうしたら良いか分からなくなったり、間違った道に迷い込んだりいたします。しかし、順調な人生を歩んでいる時には、何を頼みとして生きるかということを余り意識しません。そして、自分の力でやっていける、少々のことがあっても対処できる、と思ってしまうのであります。けれども実際は、私たちは家族に支えられたり、隣人や友人に支えられたり、地域社会や国に支えられたりしているのでありますし、そして何よりも、神様に支えられて、生きているのであります。しかし普段は、そのことをあまり意識せず、感謝もせずに過ごしてしまうのであります。ところが、人間関係にひびが入ったり、災難に遭遇したり、健康を害したり、大きな失敗をしでかしたりすると、歯車が狂い始めて、それまでの人間関係や社会の仕組みが当てにならないことが露呈して来ますし、自分にもその状態を乗り越える力がないことが分かって、何を頼みとしたらよいのか分からなくなってしまうのであります。
 
このようなことは、一個人の人生でも時々あることですが、一つの社会や国においてもあることであります。先月から11月にかけて、旧約聖書に記されたイスラエルの民の歴史の要所要所を取り上げて学ぶことになっているのですが、そこにはイスラエルの民が様々な困難に遭遇する歴史が記されていて、その中で絶えず問題になることが、自分たちの民は何を頼りにすればよいのか、何を拠り所として国を立てて行けばよいのか、ということでありました。イスラエルの民は奴隷状態にあったエジプトから神様の導きによって脱出し、カナン(今のパレスチナ)の地に入って、そこに定着するようになりました。初めは、神様から選ばれたヨシュアという指導者が民をリードいたしましたが、やがて士師と呼ばれる政治的・軍事的指導者が必要に応じて登場して、他民族の攻撃や圧迫からイスラエルを守る英雄として働くのであります。しかし、士師というのは世襲ではありませんし、イスラエルの民全体を安定的に治めるというところまでは行かなかったのであります。そうした中で、先週学んだように、サムエルという祭司(宗教指導者)が、士師(軍事指導者)や預言者(御言葉の取次ぎ手)の役割も果すのですが、まだ安定した政治体制が出来上がるまでには至ってはおりませんでした。そうした中で、周辺の国々と向き合わねばならず、強力な政治指導者の必要性が高まって来るのであります。
 ところが、イスラエルの民というのは、アブラハム、イサク、ヤコブといった先祖たちの時代以来、唯一の真の神様に導かれてきた宗教民族であります。様々な困難に遭遇しても、神様の指示に従って行動し、守られて来たのであります。モーセやヨシュアやサムエルといった指導者が現れましたが、彼らも自分の意思や指導力で民を率いたのではなくて、神様の御意志に従ってリードしてきたのでありました。イスラエルの民にとっては、あくまでも神様が頼みであり、拠り所であったのであります。しかし、周辺の諸国が政治的・軍事的体制を整えて来る中で、ただ神様に頼るだけでよいのだろうか、と考え始めるのであります。
 
このことは、イスラエルという世界にも稀な宗教民族の特殊な問題に留まるのではなくて、冒頭に申しました私たちの人生の問題、即ち私たちが世の中で生きて行く時のあり方、何を頼みとして生きるのか、という問題に重なるのであります。私たちも、意識するかしないかは別にして、実は神様の守りと導きの下にあるのであります。しかし、それだけでは安心出来ずに、目に見える形で頼り甲斐のあるものが欲しくなるのであります。特定の人間の力に頼ろうとしたり、組織や権力に頼ろうとしたり、武力に頼ろうとしたり、科学や技術の力に頼ろうとしたりするのであります。しかし、本当に頼るべきは何なのか、誰なのか、そのことが今日の箇所において問われているのであります。

1.王を求める

さて、先週は、祭司エリの二人の息子の不祥事などによって、イスラエルの民に主の御言葉が臨むことがなくなっていた中で、神様がエリの後継者としてサムエルを備えられて、御言葉が届くようになった次第を学びました。しかし、そのサムエルもやがて年老いて来ましたので、1節にあるように、次の後継者として自分の二人の息子を任命いたします。ところが、この二人の息子にまた、問題がありました。3節によると、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げたのであります。このことがきっかけで、イスラエルの長老たちからサムエルに対して新しい要求の申し入れがあったのであります。5節でこう言っております。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」これまでのイスラエルにおいては、神様が支配者であり、神様が謂わば王でありました。しかし、ここに来て、周辺の諸国と同じように、王を立てたいと言い出したのであります。こういうことを言い出した直接の動機は、サムエルの息子たちの不正でありますが、もっと大きな背景があります。イスラエルの民が王を求めた大きな動機は、7章に書かれていることなのですが、周辺民族の脅威であります。カナン地域の西南部の海岸部一帯にはペリシテ人がいて、彼らは鉄製の武器を有していて、その軍事力で支配権を広げようと虎視眈々とイスラエルを狙っておりました。これに対抗するためには、士師の時代のような政治体制では太刀打ち出来ないので、周辺諸国と同じように王を立てて、強力な支配体制を組む必要があると考えたのであります。
 
しかし、このことは、裏を返せば、神様のご支配に頼っているだけでは、ペリシテにやられてしまうのではないかという不安であり、それは神様に対する不信仰であります。本当の動機は神様への不従順であります。
 
王を立てるということが絶対に間違いだというのではありません。神様ご自身が、やがて王を与えようというお考えを持っておられて、王とはどういう者でなければならないかということを述べておられる箇所があります。それは申命記1714節以下(p308)であります。そこに書かれていることの要点は、@神様が選ばれる者を王としなければならない、A馬を増やしてはならない(即ち、軍事力の増強をしない)、B妻を多くめとって、心を迷わしてはならない、C銀や金を大量に蓄えてはならない、D律法を忠実に守らなければならない、ということであります。しかし、今ここで長老たちが求めている王は、申命記に記されているような王ではなくて、5節にあるように、「ほかのすべての国々のような王」であります。20節では、もう少し詳しく、「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」と述べています。絶大な権力を有し、この世的な軍事力や経済力をもって他を圧する王であって、神様の律法などに余り捉われない王であります。
 
私たちは人生の拠り所を何に求めるでしょうか。この世の人たちが拠り所としているのと同じものを求めているのではないでしょうか。経済的な豊かさや他の人より勝った能力を持つことに人生の拠り所を求めるのではないでしょうか。競争に勝てる人間になるということであります。そして、神様が与えて下さった掟などは、自由を束縛するものとしか考えないのではないでしょうか。現代の競争社会で求められるものは、何が神様の御心に適っているか、何が正しいかということではなくて、世の中で如何に他よりも優位に立てるかということであります。そこでは力のある者がもてはやされ、力の弱い者が片隅に追いやられます。ですから、他を圧することの出来る力こそが頼るべき王なのであります。ここに描かれている王を求めるイスラエルの姿は、正に現代の私たちの姿を映し出していると言えそうであります。

2.王のゆえに、泣き叫ぶ

では、長老たちの申し入れを受けたサムエルはどう対応したでしょうか。6節を見ると、裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った、とあります。長老たちの求めていることは、神様こそが王であるとする信仰に反すると思えました。そこで彼は神様に祈りました。そしてサムエルが神様から聞いた言葉が7節から18節まで記されています。そのうち、9節までの結論部分を後に回して、先に11節以下に語られている警告の内容を見てみましょう。
 
「あなたがたの上に君臨する王の権能は次のとおりである」という言葉に始まって、第一は、息子たちが戦争や農耕のために徴用され、娘たちは香料作りや料理のために徴用されるということ、第二に、王の家臣たちを養うために、畑が没収されて、穀物の十分の一が徴用されるということ、第三に、奴隷や家畜が王のために働かされ、羊の十分の一が徴用され、国民は王の奴隷になると告げられるのであります。言い換えれば、王というものは搾取に搾取を重ねるということであります。その結果、18節にあるように、「あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ」ことになるというのです。だが「しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」のであります。
 
ここには王というものの悪い面だけが強調されているように思えます。王や権力者が国民に恩恵を施してくれるという面がないわけではありません。軍事力が強化されて敵から攻められることのない平和が確保されるということもあるでしょう。家臣たち(役人たち)が行政能力を発揮して、産業活動が活発になり、経済的に豊かになるということも期待できるでしょう。そのために、税金のような形で持ち物や財産の一部を徴用されるのも必要悪と言えるかもしれません。しかし、歴史が示していることは、王とか権力者というものは、民を搾取することになり、結局、民は泣き叫ぶことになるのがオチであります。
 
イソップ物語に「蛙と蛇」というのがあります。<池の中の蛙たちが自分たちに支配者がいないのを不安に思って、ゼウスの神に王様を自分たちにお授けくださるようにお願いしました。ゼウスは一本の木切れを池に投げてやります。蛙たちは、最初はそれを敬っていたのですが、ただプカプカと浮いているだけの木切れの王様を馬鹿にするようになります。そして、もっと強い王様を要求しました。そこでゼウスは水蛇を与えました。すると水蛇は、池の蛙を皆食べてしまった>、というお話しです。何時の時代でも英雄の待望論、強力な指導者の出現を望む声があります。今の日本の状況もそうした空気があります。でも、真の神ならぬ王は、民を食いつぶすのが常であります。

3.彼らに王を立てなさい

ところで神様は、王を持つことについてこのような警告を与えられるのですが、驚いたことに、7節にあるように、「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい」と言われ、9節でも、「今は彼らの声に従いなさい」と繰り返され、最後に22節でもサムエルに、「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と念を押すようにおっしゃるのであります。神様がイスラエルの民の不信仰に気づいておられないのではありません。7節の後半から8節にかけてでは、「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」と述べられています。それなのになぜ、神様は王を立てることを容認されるのでしょうか。理解に苦しむところであります。
 
私たちはイエス様が語られた放蕩息子の譬えを知っています。弟息子が父親に財産の分け前を下さいと要求した時に、父親はそれを拒みませんでした。その結果、弟息子は財産を金に換えて、それを持って放蕩の限りを尽くして、使い果たすのでありますが、父親はそれを全く予測出来なかったわけではないでしょう。しかし、父親は財産を分けてやったのであります。そのように、神様は私たちの間違った選択を容認されることがあるのであります。私たちは自分で体験しないと身に浸みて分からないことがあります。そういう私たちを教育するために、神様は私たちの我侭を容認されるのであります。ローマの信徒への手紙124節にパウロのこんな言葉があります。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ124)神様は人間が欲望のままに罪を犯すことを容認されたと言うのです。その結果、私たちは自業自得に陥って、初めて、過ちに気づくのであります。イスラエルの民は王を立てることを望みます。私たちもこの世の力に憧れて、それを求めます。その結果どうなるかは、自ら体験しないと分からない愚かさがあります。神様は私たちに挫折を味わせることによって、真の神がどなたであるかを気づかせようとなさるのであります。

結.真の王

では、神様はイスラエルの民に「王を立てさせなさい」と言われたまま、彼らがどうなろうと自業自得だからしょうがない、と見放してしまわれるのでしょうか。警告だけ与えて、それ以上は勝手にしろということなのでしょうか。そうではありません。
 
イスラエルに王が立てられようと、私たちがこの世の力を王として崇めようと、神様が本当の王であることには変わりがありません。神様が本当の王の座を降りられることは決してありません。神様はイスラエルの民がどんな過ちを繰り返そうが、イスラエルの民を選び、愛し続けられることには変わりはありませんでした。そして、そのイスラエルの民の不従順の真只中に、独り子イエス・キリストをお遣わしになり、彼らが主イエスを十字架に架けることを容認なさるのであります。そして、イエス・キリストを裏切った弟子たちを用いて、教会を建て、宣教の御業を進められるのであります。放蕩に身を持ち崩して帰ってきた弟息子を、喜んで迎えられるのが神様であります。神様は寛容と真実をもって、王であり続けられるのであります。それが、真の王である神様のなさり方なのです。
 
私たちも、自分の弱さを覚えたり、大きな困難に遭遇する時に、この世で力を持っているように見えるものに頼ろうとします。富や能力や地位が人生の拠り所となりそうに思えます。見えない神様より、現実の社会の中で目に見えて力を振るっているものの方が、頼り甲斐があるように思えます。しかし、私たちのために御子イエス・キリストをお遣わしになり、十字架による救いを実現して下さった見えない神様こそ、今も変わることなく、私たちに愛を注ぎ続け、罪の力に対する永遠の勝利を与えて下さる、真の王なのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

真の王である父なる神様!
 
今日もあなたは、御言葉をもって私たちをあなたの御国へ招き入れようとして下さいましたことを感謝いたします。
 
私たちは、弱さの中で、力を持っているように見える様々なものに惑わされ勝ちな者であります。どうか、御子を十字架の死に至らせるほどに、私たちを愛し、悪魔に対して真実の力をお持ちであるあなたを忘れることがありませんように、絶えず、御言葉をもって臨んで下さい。あなたの御言葉を聴かなくても生きていけるような思い違いをすることがないように、導いて下さい。
 
どうか、弱さを覚えて苦しんでいる人、困難に遭遇している人、病と闘っている人の近くに、あなたが寄り添って下さいますようにお願い致します。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年7月1日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記上8:1−22
 説教題:「神こそ真
(まこと)の王」         説教リストに戻る