序.「ともし火」は何を暗示?

 今日は、日曜学校のカリキュラムによって旧約聖書のサムエル記上3章が与えられています。カリキュラムでは1節から18節までになっているのですが、21節まで加えさせていただきました。
 今日の説教題を「ともし火は消えず」としました。それは、3節にある、「まだ神のともし火は消えておらず」という言葉からとったのですが、その言葉の直接的な意味は、<朝になったら消すともし火がまだ消えていない真夜中のことであった>ということを表わしていますが、単にそれだけではないことが暗示されていると受け取りました。今日の箇所の中心メッセージがこの言葉にあるわけではありませんが、中心メッセージを指し示す意図が隠されている言葉ではないかと思って、説教の題といたしました。今日の中心メッセージとこの言葉の間にどのような関係があるのかということを考えながら、今日の説教をお聞きいただきたいと思います。

1.主の言葉が臨むことは少なく――祭司たちの罪

さて、今日の箇所に書かれていますことは、紀元前1,100年頃のイスラエルにおける一つの出来事であります。そこで、初めに当時のイスラエルの民の状況をご説明しておきましょう。エジプトを脱出したイスラエルの民は、先々週に聞きましたように、神様が約束されたカナンの地(今のパレスチナ地方)の土地を取得して定着し始めます。やがてその政治指導者として「士師」と呼ばれる人が現れ、宗教上の祭儀を執り行う「祭司」と呼ばれる人が現れます。今日の箇所に登場するサムエルという少年は、後に祭司でありつつ士師とも呼ばれるイスラエルの指導者になる人物であります。
 出エジプト記によりますと、モーセは神様の言葉を伝えて、「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト196)と言っております。つまり、イスラエルの民というのは、神様を礼拝する民として特別に選ばれた民で、民全体が世界に対して祭司の役割(神と人とを執り成す役割)をするのであります。
 
ところで、今年も半年を過ぎようとしていますが、この教会の本年の主題聖句は、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Tペトロ25=週報参照)という御言葉ですが、聖書ではそれに続いて、「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」と述べられています。つまり、イエス・キリスト以降は、イエス・キリストを信じるキリスト者(即ち、教会)がイスラエル民の役割を受け継いで、「聖なる祭司」となって、執り成しの献げ物をするのであります。教会の誕生は、サムエルの時代からすれば、1000年以上後のことであり、今の私たちに至るまでには3000年の時の隔たりがあるのですけれども、今も、「祭司の民」と呼ばれている現代の教会の状況と、ここに書かれていることとの間には通じることがあって、ここに書かれている当時のイスラエルの状況と私たちの教会の今の状況を重ね合わせながら、ここを読む必要があるのであります。
 
そこで、今日の31節を見ていただくと、こう書かれています。少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。これはサムエルがまだ少年の頃のことで、彼はエリという年老いた祭司の所に預けられて、その手伝いをしていたのでありますが、その頃のイスラエルの状況を「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」と記しています。「主の言葉が臨むことは少なく」というのは、信仰の危機であります。また「幻」というのは、旧約の時代にあっては、「夢」と並んで神の啓示の重要な手段でありました。つまり、言葉による啓示も、視覚による啓示も稀であったということは、イスラエルの宗教的・信仰的状況が危機的状況にあったことを示唆しています。
 
その最大の原因は、神殿に仕える祭司エリの家の二人の息子たち、ホフニとピネハスの悪事でありました。彼らは世襲のかたちで祭司になっていました。212節以下を見ますと、「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった」とあります。彼らの具体的な行状は、13節以下と22節以下に記されています。第一の悪事は、神殿に献げられた犠牲の肉の取り扱いについてであります。律法の定めるところによれば、祭司は献げられた犠牲の供え物の分配にあずかることが出来ました。ただし、犠牲の肉の中から祭司がどのように取るかは、律法と慣習によって厳格に定められていました。しかるに息子たちは、そうした取り決めを無視しました。そして、下働きの人を遣わして、まだ焼く前の肉を強引に横取りしたというのです。神様に献げるべきものを取り分ける前に、自分たちの欲しいものを手に入れたのであります。エリの息子たちの第二の悪事は、神殿に仕えていた女の人たちとたびたび床を共にしていたということであります。主を知ろうとせず、神様に対する恐れをもって生活していない時には、このように人間の欲望が表に出てきて、道徳的な退廃が進むのであります。礼拝などそっちのけで欲望を満たしていたのであります。
 
このことを耳にした父親のエリは224節以下にありますように、息子たちを諭します。「息子らよ、それはいけない。人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。こう言ってエリは懸命に諭すのですが、息子たちは耳を貸そうとしません。息子たちをエリは悔い改めさせることが出来ませんでした。このような状態では、神様の御言葉がイスラエルの民に臨む筈はなかったのであります。
 
ところで、このような状態を特別にひどい状態であるとして、私たちとは関係のないこととして受け止めてよいのでしょうか。「主の言葉が臨むことは少なく」と述べられていることに注目しなければなりません。自分自身に主の御言葉が臨んでいるかどうか、また私たちの教会で果たして主の御言葉が語られ聴かれているかどうか、形の上で聖書の言葉が語られていても、それが生きた御言葉として語られ聴かれているのだろうか。もし、主の言葉が臨むことが少なくなっているとすれば、私たちの側のどこかに問題があるからではないでしょうか。私たちの個人的満足やこの世的な都合が優先されて、礼拝が疎かにされているとすれば、主の言葉が臨むことはあり得ません。主の言葉が臨むことが少ないのを、時代の所為や他人の所為にしてはならないでしょう。まず、自分たち自身を顧みる必要があります。
 
先週、中会の教職者会がありまして、(その報告は礼拝後にしようと思っていますが、)テーマは「日本伝道の今日的課題」ということで、日本の伝道が閉塞状況にある中で、どこに問題があるのかということが講師によって指摘されました。その問題とは、端的に言うと、牧師が伝道的体質を失っているということでありました。つまり聖書のことを話していても、聞く人に届く生きた御言葉として語られていないということであります。それは、牧師自身が御言葉によって生かされていないということの表われでもあります。この講師の指摘を私自身の問題として受け取りました。
 
祭司エリの息子たちのように、倫理的・宗教的に乱れたことをしているということだけが問題なのではなくて、礼拝が軽視されていること、御言葉を聴くことが疎かにされていることが問題なのであります。私自身の子供たちの中にも、信仰を持つに至らず、教会から全く離れてしまっている者がいます。また洗礼は受けているのですが礼拝生活から遠ざかっている者もいます。どのような行く末が待っているのか、身につまされて心が痛みます。皆様方の中にも同じ思いを抱かれる方がおられるかもしれません。
 
今日の説教の最初にイスラエルの民が祭司の役割を担っており、私たちキリスト者もその役割を引き継いでいるということを申しましたが、私たちはその役割を果たしているのだろうか、ということが問われているのであります。

2.この子を主にささげます――ハンナの誓い

さて、当時のイスラエルの民の嘆かわしい状態に対して、神様はそれを見過ごしにはされませんでした。神様はエリの息子たちとは別に、祭司の職を継ぐ者を備えられるのであります。その経緯がこのサムエル記の1章から書かれています。それを簡単に辿ります。
 
ある所にエルカナという人がいて、その人には二人の妻があって、一人はハンナ、もう一人はペニナと言いました。ペニナには子供があったのですが、ハンナには子供がなかったので、ハンナは大変悩んでいました。それでハンナはお祈りの中で神様に誓いを立てます。もし男の子を授けて下さるなら、その子を神様に献げるという誓いです。神様はこのハンナの誓いに応えて、男の子をお与えになりました。その子がサムエルです。サムエルが乳離れすると、ハンナは誓ったとおり、サムエルを祭司のエリの所に連れて行って、「わたしは、この子を主にゆだねます」(128)と言って、祭司エリに預けたのであります。その時ハンナが捧げた祈りが2章に書かれています。これは後に、主イエスを身ごもったことを知ったマリアが歌った「マリアの賛歌」の元になったと言われています。こうしてサムエルは、祭司エリのもとで少年時代を過ごすのであります。

3.主よ、お話しください――サムエルの召命

32節、3節を読みます。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。ここには祭司エリの老いが進んで、祭司としての務めを果たすことが出来なくなって来ていたことがほのめかされています。しかし、問題はエリが年老いて務めに支障が出てきたことだけにあるのでないことは、先ほど見た通りであります。祭司エリの家庭に問題があることが、祭司の民であるイスラエルの民がその務めを果たせない状態にして来ていたことを暗示しています。けれども、「まだ神のともし火は消えておらず」と記しています。神殿では、出エジプト記2720節以下にある常夜灯の規定によって、神様の臨在の象徴として夕暮れから夜明けまで夜通し火が燃やされて、祭司の子らがそれを守ることになっていました。おそらくサムエルはエリの息子たちに代わって、神殿に寝泊りして、ともし火が消えないように番をしていたものと思われます。「まだ神のともし火は消えておらず」という言葉の直接の意味は、先ほど申しましたように、<まだ夜明けが来ていない真夜中なので、ともし火が点されていた>ということですが、ここから二つのことを読み取ることが出来るように思います。一つはイスラエルの民を覆う闇の深さであります。主の言葉が臨むことが少なくなっている希望の持てない状態を暗示しています。しかし、もう一方で、そうした暗い状況の中でも、ともし火は消えていない、希望の火は点されているというメッセージを伝えているように受け取ることが出来ます。なぜなら神様はそこに、エリを継ぐべきサムエルを用意されているからであります。「サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた」とあります。エリは自分の部屋で床に就いていたのに対して、サムエルは十戒が納められた神の箱を守るという祭司の役割をエリに代わって果していたのであります。主の言葉が臨むことは少なくなっていましたが、主の言葉は常に近くにあったのです。主なる神様はイスラエルを決してお見捨てにはなっていないのであります。
 
4節以下に進みます。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
 
しばらくすると、また「サムエルよ」と呼ぶ声が聞こえたので、エリの所に行くと、エリは「わたしは呼んでいない」と言いました。7節にはこう書かれています。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。サムエルはまだこの時、神様が自分に語りかけて下さるという経験をしていなかったし、神様から自分に語りかけて下さるとは全く考えてはいなかったのであります。
 
主が三度目にサムエルを呼ばれて、エリの所へ行った時、エリは主がサムエルをお呼びになったことに気付きます。そして、今度呼ばれたならば、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えるように教えました。それで、四度目に主が「サムエルよ」と呼びかけられた時には、サムエルはそのようにお答えしました。これがサムエルの召命に至る経緯であります。

4.その言葉は一つたりとも地に落ちず

ところが、その後、11節以下に進みますと、主がサムエルに告げられた、エリの家に対する厳しい裁きの言葉が記されています。既に2章の27節以下で、主がエリに直接告げられていたことではありますが、313節以下でこう述べられています。「わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」13,14節)
 
サムエルはこの言葉をすぐにはエリに伝えませんでした。15節に、サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた、とあります。戸惑いがあったでしょう。エリに対する遠慮もあったことでしょう。またエリの息子たちに代わって、サムエル自身が担わなければならない立場を思って、とても自分からは言い出せなかったという気持ちがよく分かります。しかし、エリはさすがに神様の御言葉は隠すことが出来ないものであることを知っていました。それで、主が語られた言葉を一つも隠さないで述べるように命じます。そこでサムエルは隠し立てせず、一部始終をエリに話しました。
 
それを聞いたエリは、きっぱりと言います。18節です。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」厳しい結末も、エリは主の御旨として受け入れたのであります。このようにして、イスラエルに対する神様の御計画は前進するのであります。神様はエリの息子たちの悪行をも、救いの歴史の前進の機会に変えられたのであります。――ここに、悔い改めて主の御言葉に対して従順にされる信仰者の姿・教会の姿を見ることが出来るように思います。神様はイスラエルの民を決して見放すことはなさらなかったように、教会をお見捨てになることはなく、人の罪、教会の過ちを越えて、救いの御計画を前へ進められるのであります。
 19節以下には、サムエルが成長し、主の預言者として信頼に足る人物として認められていったことが書かれています。やがてサムエルは、最初に述べましたように、祭司として、王として、預言者としての統合的な役割を担う人物として、イスラエルの民を導くことになります。そして、19節には、主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった、と記されています。このようにして、神様の御言葉がイスラエルに回復されたのであります。
 
しかし、これでイスラエルがずっと安泰で、主の言葉に従順であり続けたというわけではありません。むしろ、サムエル以降、イスラエルの不従順と不信仰は拡大していったと言えるかもしれません。既に、サムエルの時代に、周辺の部族が王を立てて力をつけて来るのを恐れて、神様に頼るだけでは安心できずに、自分たちにも王を立てることを望みます。民はサムエルの声に聞き従わず、王を与えよと言い張るのであります。また、大国アッシリアの圧力が迫って来るのに対して、力を頼んで同盟しようか、もう一方の大国に助けを求めようかと、王の心が揺れることが度々ありました。そのような中で、異教の神々に頼むこともしばしばでありました。そのような不信仰が、結局、バビロン捕囚を招くことになりました。
 
こういうわけで、19節の「主が彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」と言われたことの実現は、主イエス・キリストが来られる時まで待たねばなりませんでした。主がイスラエルと共にあり、私たちと共にあるということは、インマヌエル(即ち、神は我々と共におられる)と呼ばれるイエス・キリストにおいて実現しました。御言葉であるイエス・キリストが、正に「地に落ちる」ことによって、即ち御子として地上に来られることによって、そして十字架にお架かりになることによって、はじめて、御言葉は高く挙げられるのであります。そういう意味で、サムエルはイエス・キリストを遥かに指し示す存在に過ぎません。

結.神のともし火は消えず――燃え続ける御言葉

今日、サムエルを通して、そしてサムエルが指し示すイエス・キリストによって知らされることは、<私たちが主を知ろうとせず、御言葉と礼拝をおろそかにする罪にもかかわらず、そしてそのために主の言葉が臨むことが少なくなっているのではないかと思われるにもかかわらず、神の言葉は決して絶えることはないし、神のともし火は消えることがない>ということであります。
 
世界は今、暗い闇が覆っているように見えます。先はますます暗さが増しているようにさえ思われます。教会の行く末にも明るい希望が持てない状態にあります。それは、私たちが主を知ろうとせず、主をないがしろにして、主を心から礼拝しないところから来る暗さであります。
 
しかし、「神のともし火は消えていない」のであります。神様は決して夜明けが来るまで、ともし火を消されることはありません。終わりの日まで御言葉のともし火は燃え続けるのであります。そしてやがて主イエス・キリストの再臨の朝が明けるであります。
 
最後に、先程朗読していただいた新約聖書のペトロの手紙二116節以下(p437)のうち、19節の御言葉をもう一度聴きましょう。ここは、預言の言葉(即ち、御言葉)について書かれている箇所です。
 
こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください。(Uペトロ119
 
祈りましょう。

祈  り

イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちの罪のゆえに、暗さが増し、希望が遠のいて行くかのように見える中で、今日もこうして私たちを礼拝に招いて下さって、御言葉のともし火を点し続けて下さっていますことを感謝いたします。
 
どうか、あなたの呼びかけに、いつでも、「主よ、お話し下さい。僕は聞いております」とお応え出来る者とならせて下さい。どうか、私たちもまた、それぞれの置かれた場所において、小さなともし火を点すことが出来る者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年6月24日  山本 清牧師 

 聖  書:サムエル記上3:1−21
 説教題:「ともし火は消えず」
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