序.神の約束に生きるとは

<神を信じる者とは何か、どういう人のことか>ということについて、色んな言い方ができるかと思いますが、旧約聖書から新約聖書までに一貫して流れている見方は、<神を信じる者とは、神様の約束を信じる人、神の契約の民のこと>であります。「旧約」「新約」という「約」とは、契約(約束)の「約」であります。聖書は神様の約束を記した書物であります。その聖書に記された神様の約束を信じるのが、神の民であり、キリスト者であります。
 
旧約の時代に、神様はまずアブラハムに、多くの子孫を与え、カナンの土地を与えると約束されました。この約束を受けた民がイスラエルの民となりました。そのイスラエルの民がエジプトで奴隷状態になっていた時に、モーセに、エジプトを出て、カナンの地に入ることを約束されましたが、それが実現したのが、今日のヨシュア記に書かれていることであります。このあと、やがてイスラエルが王国になると、ダビデ王の子孫がとこしえに続き、その中から救い主が現れることを神様は約束されました。その約束が実現したのが、イエス・キリストであります。新約聖書はそのことを証言する書物で、更に、主イエス・キリストが終わりの日に再臨されて、神の国を完成することが約束されていて、イエス・キリストを信じる者が、その神に国に入れられると約束されているのであります。この約束を信じるのが、新しいイスラエルの民である教会であります。
 
このように旧約の時代から新約の時代の今日に至るまで、神様の救いの約束は貫かれているのでありますが、約束を受けた神の民の状態は決して安穏としたものではなく、約束の実現にはいつも大きな困難が立ちはだかったのであります。そこで問われるのが、神様の約束を信じる信仰であります。神の民として生きる、キリスト者として生きるということは、大きな困難に遭遇する中で、神様の約束を信じて生き抜くかどうかということであります。
 
今日の箇所は、イスラエルの民が、モーセの後継者として神様から選ばれたヨシュアに率いられて、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入った時、そこに立ちはだかったエリコの町の城壁がどのようにして崩されたのかという物語であります。この物語によって、神様の約束を与えられている私たちキリスト者が、また教会が、その歩みの中で大きな困難に遭遇した時に、どのようにして、それを乗り越えることが出来るのか、神の約束に生きるとはどういうことなのか、ということを教えられるのであります。

1.約束の地に向けて

今日与えられておりますヨシュア記6章に入ります前に、ヨシュア記の最初の、ヨシュアがモーセの後継者となった時のことが書かれている箇所から見ておきたいと思います。119節を読みます。
 
主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
 ここで神様がはっきりと言われていることは、<主が共にいてくださるので必ず成功する>ということでありました。
 
いよいよヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ることになるのですが、カナンの地に入ってどうしても攻略しなければならないのがエリコの町でありました。エリコの町は古くから栄えた町で、この地方の拠点の位置にあるとことから、昔から攻撃の対象とされることがよくあったので、頑丈な城壁で囲んで、敵から攻められないよう防備されていました。そこで2章に書かれているように、ヨシュアは二人の斥候をエリコに送り出して偵察をさせます。これは神様の助けを信頼していないということではなくて、人間の側でも、適切な準備を怠ってはならないからであります。二人は遊女の家に入って、そこに泊まります。なぜ遊女の家に泊まったのかの説明はありませんが、斥候にとっては怪しまれずに泊まれる場所と考えたのでしょう。ところが、イスラエルの何者かが忍び込んだということをエリコの王に告げる者があって、捜査が入ります。しかし、ラハブという遊女は二人をかくまうのであります。彼女はこれまで神がなさったイスラエルに対する奇跡のことを知っていて、エリコが滅ぼされるに違いないから、その時は家族全員を救ってもらえるよう、斥候に誓わせるのであります。
 
こうして、3章に入ると、いよいよヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったことが書かれています。契約の箱を先頭に川を渡るのですが、春先で水量がとても多く、堤を越えんばかりでした。ところが、箱を担いだ祭司が足を踏み入れると、水が壁のように立って、干上がったのであります。まるで、モーセに率いられて葦の海(紅海)を渡った時の再現のようなことが起こったのです。4章、5章に書いてあることは省略しますが、5章の最後の13節以下の所に、エリコに近づいた時、「主の軍の将軍」が現れたことが書いてあります。これは神の使い(天使)と理解したらよいと思いますが、これからの戦いがイスラエル軍の戦いであるというよりも、神の軍隊の戦い、即ち、神の戦いであるということを示しています。

2.鬨の声をあげよ

さて、6章に入りますが、エリコの町は既にイスラエルの攻撃に備えて、城門を堅く閉ざしています。難攻不落の城壁のように見えます。その時、主なる神様がヨシュアに命じられたことが、25節に書かれています。それは、兵士が皆、町の周りを一周するのを六日間続けること。七人の祭司が雄羊の角笛を吹き鳴らして先導すること。七日目には、町を七周して、七周目に雄羊の角笛を吹き鳴らすと共に、民が一斉に鬨の声をあげよ、ということでありました。
 
「雄羊の角笛」というのは、戦闘の際に用いられる進軍ラッパではなくて、祭の際に用いられるものであったようであります。七人の祭司とか、七日目とか、町を七周するというように「七」が多く用いられていますが、「七」はイスラエルでは聖なる数字とされ、完全を意味しました。「鬨の声」というのは、広辞林によれば、<敵味方が接近して戦闘を始める際に発する叫び声>とあります。
 
このように命じられたことが、どのような効果があるのか分かりません。相手を焦らせるとか、威嚇するという効果があるかもしれませんが、結果的にどのような効果があるのか、何も語られていません。イスラエルの民にとっては、なぜそのようなことをしなければならないのか、合点が行かなかったと思われます。何か宗教的な儀式のようでありますが、戦闘の役に立つとは思えません。しかし、ヨシュアは神様に言われたことを祭司たちに伝えて、その通りに実行することを命じました。新約聖書のヘブライ人への手紙11章には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(111)とあります。城門を堅く閉ざしたエリコの城壁をどうして打ち破ることが出来るのかということを考えた時に、エリコの町の周りを、角笛を吹き鳴らしながら回ることにどんな意味があるか、ヨシュアも祭司たちも兵士たちも、何も見えなかったに違いありません。それは正に、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」という信仰に立つしかない行為でありました。いわば、礼拝行為でありました。
 
私たちが行っている礼拝行為も、それをすれば何か効果が期待できるというようなものではありません。私たちの前に立ちはだかる困難を解消したり和らげたりするための直接的な効果があるものではありません。信仰のない人から見れば、無意味な行為であります。それは、ヘブライ人への手紙が言うように、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であります。しかし、その効果の分からない行為が、神様のご命令に従うことであるなら、見える結果がついて来るのであります。神様が結果を出して下さるのであります。
 
ホテル「わこう」の少し先に、米子復活教会の新しい会堂が一昨年末に献堂されました。以前の復活教会は別の場所にあったのですが、あの土地が競売に出されたのを入札して購入して、建設されました。その経緯を聞きますと、競売物件だったので大変安かったのだそうですが、どこかの業者などが少しでも高く入札すれば手に入らなくなるところでした。そこで教会の信徒の方々は、入札参加の締め切りまで、このエリコの出来事を真似て、あの土地の周りを回って祈り続けられたそうです。結局、他の入札参加者が出なくて、非常に安い金額で手に入れることが出来たのです。土地の周りを回って効果があるとは思えませんが、結果的には神様が良い場所を備えられたということであります。信仰の勝利と言えるかもしれません。こういうことは、神社でお百度を踏むのと同じように、迷信的なこと、場合によっては狂信的なことになりかねませんが、神様がお命じになったかどうかが大切なことであります。礼拝は神様がお命じになっていることであります。無意味に思えても、人間の思いを超えた結果が伴うのであります。

3.叫んではならない

ところで、ヨシュアが神様から命じられたことを祭司たちに伝えた後、10節以下に、その他の民に対して言ったことが書かれています。「わたしが鬨の声をあげよと命じるまでは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨の声をあげるのだ」と命じています。なぜこのような禁止命令を付け加えたのでしょうか。それは、人間が声を出すと、そこに人間の勝手な思いが付け加わったり、<なぜそんなことをしなければならないのか>といった呟きや疑問の声が出て来たりするからではないでしょうか。神様がお語りになること、お命じになることは、時には意味がないように思えます。そんなことはまともに受け取れないと思って割り引いて聞いてしまうことがあります。逆に、拡大解釈して、自分の思いや意見を付け加えてしまいます。そうなると、神様のお考えや意図とは全く違うことを語ってしまう恐れがあります。
 
これは説教者が最も気をつけなければならないことです。聖書の話をしているようで、いつの間にか自分の考えを述べたり、この世の道徳の教えや、人間が考え出した思想を語ってしまいかねません。もちろん、聖書に書き残されていることから、今、神様が語ろうとしておられることを聞き取って、それを現代の状況に適応させて語るということが必要ですから、黙っていたり、ただ聖書の言葉をおうむ返しに繰り返しているだけではいけないのですが、神様の御心はどこにあるのかということを、聖霊に導かれながら謙虚に耳を傾ける必要がある訳です。同じことは、説教をお聞きになる皆様の方でも気をつけていただかないといけないことであります。神様の言葉を聞いて、感動するのはよいのですが、そこに自分の思いや経験が加わって、自分の感情の高ぶりを表現するだけでは、ここで「叫んではならない」と言われていることをすることになってしまいます。また神様の言葉は、すぐさま受け入れ難いことはよくあることですが、そこから自分の考えのどこが間違っているのかを謙遜に探求するのならよいのですが、逆に、傲慢にも聖書の御言葉を批判したり、気に入った言葉は受け入れるけれども、気に入らない言葉や自分にとって都合が悪い言葉は無視したり、自分なりに変更してしまうことがあるのではないでしょうか。ヨシュアは、そういう言葉を「聞かれないようにせよ」、「口から発してはならない」と言っているのではないでしょうか。自由な発言を封じるわけではありませんが、何よりもまず、神様の言葉を謙遜に聞いて従うということから始めなければならないということであります。

4.神の勝利

さて、こうしてヨシュアの伝えた神様の言葉に従って、行動が始まります。一日目の一周をすると、宿営に戻って夜を過ごします。翌朝も、言われたとおりに、町を一度だけ回って、宿営に戻ります。同じことを六日間繰り返します。なぜ、こんな意味もないように思われることを繰り返すのかという思いが出て来たに違いありません。しかし、それを口から出すことは許されません。早く鬨の声をあげて、攻め込みたいという思いも高まって来たかもしれません。しかし、鬨の声をあげるのは、神様から言われたことをしてからであります。七日目は朝早く夜明けとともに起きて、町を七度回って、祭司たちが角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼしつくして主にささげよ」と言います。民が一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそこから町に突入して、占領しました。なぜ、堅固に見える城壁が鬨の声と共に崩れたのでしょうか。民の声が大きくて、その振動で崩れたのではありません。天の軍隊が崩したのであります。それは神が勝利されたということであります。イスラエルの民は、神様の御言葉に従うなら、攻略することが困難に思える難関も、難なく打ち崩されるということを、しっかりと実感することが出来ました。
 
鬨の声自体に力があるのではありませんし、意味があるわけでもありません。鬨の声は神様の勝利の合図でありました。それはまた、ヨシュアとイスラエルの民の信仰のしるしでありました。
 
神様は私たちにも、神様の言葉に従って、鬨の声をあげることを命じておられるのではないでしょうか。礼拝で歌う讃美歌は神様の勝利を讃える鬨の声であります。讃美歌は単なる私たちの宗教的感情の発露ではありませんし、私たちの心の願いの表現でもありません。「讃美歌」と言われるように、神様を讃美するのであります。神様の勝利、神様が罪を滅ぼして下さったことを誉め歌う、鬨の声なのであります。
 
21節に、彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽した、と書かれています。聖絶(聖なる絶滅)と言われるやり方であります。こうしたやり方に疑問を感じられる方がおられるかもしれません。十戒の「殺してはならない」という掟に矛盾するではないかとか、キリストの「敵を愛しなさい」という言葉とも矛盾するではないか、という疑問も出て来ます。今日はそのような議論を詳しく行う余裕はありませんが、今日の箇所ではっきりさせておかなければならないことは、エリコの人々を滅ぼし尽くすのは、イスラエルの人々が利益を受けるためではなくて、エリコの町で神様の御支配が完全に行われるためであったということです。十戒の「殺してはならない」という掟はユダヤ人の間で守るべき掟として与えたれたもので、その教えはユダヤ人以外にも適用できる広がりを持つものではありますが、神様の行為を縛るものではありません。キリストの「敵を愛しなさい」という言葉も、人間のための教えであって、神様の審きを禁ずるものではありません。エリコの町に異教的なものの痕跡が残らないために、神様は滅ぼし尽くすことを求められたのであって、イスラエルの民はその命令に従わなければならなかったのであります。こうして、神様が具体的に支配者であり、約束を実現する方であることを示されたのであります。
 
22節以下には、二人の斥候をかくまったラハブの一家だけが約束どおり助け出されたことが記されています。おそらくラハブの一家は信仰を持つようになって、イスラエルの民に加えられたのでしょう。そして、驚くべきことに、マタイ福音書によれば、主イエスの系図の中に登場するのであります。神様は異邦人の遊女であった者をも、救いの歴史に用いられたということであります。ここに、神様の深い救いの恵みの一端を見ることが出来るのではないでしょうか。私たちも異邦人であります。元々、救いの外にあった者であり、卑しい罪人であります。そのような者をも神様は救いの御業に加えて下さっていることを、ラハブのことから聴き取りたいと思います。

結.キリストの愛の勝利を信じて

先ほど、新約聖書の朗読で、ローマの信徒への手紙831節以下を読んでいただきました。35節にはこう書かれています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」ここには、私たちの人生の中で、また教会の歩みの前に立ちはだかる様々な「エリコの城壁」が並べられています。これらの「エリコの城壁」を現代風に言い換えるならば、個人生活では、生活苦、就職難、差別、重い病、老い、などを挙げることが出来るでしょう。教会の歩みに立ちはだかるものとしては、異教社会、現世利益や欲望の充足を求める社会、科学万能の風潮、宗教への警戒心、などを挙げることが出来るでしょう。私たちはそれらが打ち崩すことの困難な堅固な城壁に見えて、立ち往生してしまうのであります。しかし、37節以下でパウロは言います。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」エリコの城壁を崩された神は、御子イエス・キリストの十字架と復活の愛をもって戦って下さって、輝かしい勝利を収めて下さるのであります。その勝利の結果というのは私たちが思い描いていたものとは違うかもしれません。しかし、キリストによって示される神様の愛から私たちが引き離されることはないのであります。私たちは、命じられるままに、無駄とも思える礼拝を続けて、鬨の声をあげさえすればよい、讃美の歌声をあげさえすればよいであります。
 
祈りましょう。

祈  り

万軍の主なる父なる神様!
 
立ちはだかる困難の前に、くず折れそうになる私たちでありますが、あなた御自身が戦って下さり、御子イエス・キリストをさえ惜しまずに差し出して下さる恵みを覚えて、御名を賛美いたします。
 
どうか、あなたの約束の御言葉から耳をそらすことがないように、キリストの愛から離れることがないように、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰をお与え下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年6月10日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨシュア記6:1−25
 説教題:「鬨の声をあげよ」
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