序.再び、聖霊降臨日のメッセージ

先週はペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を行いました。テキストはヨハネ福音書15章の「イエスはまことのぶどうの木」という比喩で語られた箇所で、聖霊降臨日とは関係がないように思われるテキストでしたが、そこから、ぶどうの木である主イエスとその枝である私たちのつながりについて聞き、その木と枝の間には聖霊が通っているということを学びました。
 今日与えられておりますヨハネ福音書2019節以下は、復活の主イエスが弟子たちに現れた出来事を記している箇所ですが、22節に、「聖霊を受けなさい」と語られたことが書かれているので、聖霊降臨日にも読まれることの多い箇所であります。今日は、この箇所から改めて聖霊降臨日のメッセージを受け取りたいと思います。
 
この箇所は、週の初めの日の夕方、即ち、主イエスが復活された日の夕方の出来事を記していて、ペンテコステより48日前の出来事なのですが、それはペンテコステから始まる教会の働きの根拠となる出来事でありますし、また教会とは何を行うところかということについて主イエスが予め語っておられますので、大変重要な箇所であります。そして、この日に起こったことは、最初の教会だけではなく、現代の教会、私たちの米子伝道所にも当てはまることで、礼拝のたびに起こっていることでもありますので、心して聴く必要があります。

1.恐れて、鍵をかける私たち

さて、この日の朝、女の弟子(ヨハネ福音書ではマグダラのマリアとされている)が主イエスを葬った墓に行くと、入口の石が取り除けてあって、中には主イエスのご遺体がなくなっていて、そのことを男の弟子のペトロとヨハネに知らせると彼らがやってきて、墓が空であることを確認するのですが、彼らは主イエスが復活されたとは思わず、誰かがご遺体を持ち出したとしか考えていなかったようであります。しかしその後、泣いていたマグダラのマリアに、復活された主イエスが声をかけられて、マリアは主イエスに出会うのであります。マリアはそのことを弟子たちのところへ行って伝えたということが、すぐ前の18節に書かれていますから、彼らは主イエスの復活のことを聞いてはいたのであります。しかし、信じられなかったのでありましょう。また、もしそれが本当なら、面倒なことになると考えたに違いありません。主イエスを十字架につけた連中が、主イエスの復活の事実を打ち消すために、弟子たちの方に攻撃の矛先を向けて来るに違いないからであります。
 
19節にあるように、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたのであります。そこには、主イエスの復活を喜ぶ姿はありません。まして、主の復活のことを他の人々にも知らせようというようなことは微塵も考えていなかったようであります。むしろユダヤ人たちに見つからないように、弟子たちはどこかの家に集まって、鍵をかけてひそんでいたのであります。
 
これが復活の主イエスに出会う前の弟子たちの姿であり、聖霊を受けて、人々に語り始める前の弟子たちの状態であったのであります。このようなことは、弟子たちだけでなく、誰でも、私たちもまた、復活の主イエスに出会わず、聖霊を受ける前は、このような姿をとらざるを得ないということであります。私たちもまた、こうして教会に来ているということは、弟子たちと同じように、主イエスと一定の関係を持つものであります。しかし、そのことが必ずしも喜びとなっておらず、むしろ、これ以上深い関係になることに躊躇したり、自分と主イエスとの関係について人々から非難を受けることを恐れて、自分を守るために心の戸に鍵をかけていて、大胆に外へ出て行くことをしないということがあるかもしれません。そうしたことは、主イエスに出会わず、聖霊を受ける前、即ち、洗礼を受けてキリスト者になる前には、やむを得ないことだと言えるかもしれません。しかし、ややもすると、洗礼を受けてキリスト者になってからでも、主イエスとの間に一定の距離を置いて、神様に自分を明け渡すということがないとすれば、主イエスときっちりと向き合っていないか、聖霊の働きを受け止めていないということであるかもしれません。サタンはいつも、私たちを主イエスと聖霊の働きから引き離そうといたします。すると私たちは、人の目やこの世における評価を恐れて、主イエスに対しても、教会に対しても、知らず知らずのうちに心の戸に鍵をかけてしまったり、別の楽しみの世界に逃げ込んだり、忙しさを口実に、主イエスとの関係を避けたりすることになってしまいます。

2.真ん中に立ち、平和をもたらす主

しかし、復活の主イエスは、ユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていた弟子たちを放って置かれることはなさいませんでした。19節の後半にはこう書かれています。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。主イエスは鍵をかけていた戸を通り抜けて、恐れている弟子たちのところに来られました。それは、手品のようなことをされたとか、奇跡を行われたということではありません。主イエスが復活されたということは、十字架にお架かりになる以前の体に復活されたということではありません。別の新しい体に甦られたのであります。時間空間を越えることの出来る体、永遠の命を持つお方として弟子の前に現れたということであります。主イエスが私たちのところに来られる時は、このようにして来られるということであります。私たちの方では、様々な形でガードしております。物理的に聖書や教会から離れていることがあるかもしれません。或いは、精神的に主イエスに対して心を閉ざしたり、頭の中から忘れ去っているということがあるかもしれません。しかし、復活の主イエスはそうした妨げを超えて、私たちのところに入って来られるのであります。
 
そして主イエスは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。これは、「シャローム」という、ユダヤ人の日常の挨拶の言葉であります。このような日常の挨拶の言葉を使われたのには意味があります。復活の主イエスが現れたということは、幽霊を見たのではないし、空想や幻想ではないし、単に頭の中で考える思想のようなものではなくて、これまでも弟子たちと「シャローム」と挨拶を交わされていたのと同じように、現実の存在としてそこに来られたということであります。そのことは、主イエスが私たちのところに来られる時も同じであります。主イエスが私たちと共におられるということは、単なる思想や願望ではありません。現実の出来事なのであります。
 
ところで、この「シャローム」という言葉は、日常的な挨拶の言葉で、「こんにちは、ご機嫌よう」といった挨拶と同じように使われる言葉なのですが、ここで主イエスが「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と言われたことには、単なる挨拶以上の意味が込められています。なぜなら、この時、弟子たちの間にはシャローム(平和)がなかったからであります。彼らは不安と恐れの中にありました。心を閉ざしていました。信仰が消えかかっていました。更に言えば、罪が覆いかぶさっておりました。人間の不安や恐れは罪の表れであります。心が頑なになったり、人に対して心を閉ざすのは罪があるからであります。そのような弟子たちに対して、主イエスは「シャローム(平和)!」と宣言なさったのであります。それは、「あなた方の罪は赦された」とおっしゃったのと同じことであります。主イエスは、先週聞いた15章の少し前の1427節で、こう言っておられます。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」――<世が与えるように与えるのではない平和>とは、どのような平和でしょうか。それは、主イエスが十字架にお架かりになることによって罪の赦しが行われることによって実現する平和であります。
 
主イエスはまた、私たちのところにも入って来られて、「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と言われるお方であります。私たちは不安や恐れや頑なさで心を閉じている時に、罪の赦しの恵みをもって来て下さって、まことの平和をもたらせて下さるお方です。

3.手とわき腹とをお見せになる――人となって罪を負うイエス

続いて20節には、そう言って、手とわき腹とをお見せになった、とあります。手とわき腹とは、主イエスが十字架に釘付けされた手と、息を引き取られたあと、兵士が槍でわき腹を刺した傷跡であります。ということは、実際に十字架上で恥と苦しみを負って死なれたお方がそこにおられるということであります。幻でも夢でもなく、肉体を持って十字架にかかって死なれたお方が、今、ここに生きておられる、ということであります。人間の罪の結果、殺された方が、その傷のまま、死を乗り越えて(死に勝利して)、そこに立っておられるのであります。十字架に架けられたのとは別の方がおられるのではありません。肉体において甦られたのであります。しかし、そうではありますが、以前と全く同じ体ではありません。鍵のかかった戸を通り抜けて来られました。それは魔法のようなものを身につけられたということではなくて、新しい別の体へ甦られたのであります。死を乗り越え、罪を越えた体をもって、そこに現れたのであります。しかし同時に、十字架の傷跡をお持ちであり、それを手で触ることも出来る体であられました。決して、以前とは別のお方ではないのであります。この間まで生活を共にしたお方であり、自分たちが裏切ってしまったお方であり、十字架に架けられて、肉を裂き、血を流して息を引き取られて、墓に葬られたお方であります。そのお方が以前と同じように、弟子たちの真ん中に立っておられるのであります。こうして、弟子たちは、主を見て喜んだ、と書かれています。恐れから解放され、安心して、心の戸の鍵も開かれたのであります。
 
弟子たちに手とわき腹をお見せになった主イエスは、私たちの礼拝の場所にも来て下さいます。もっとも、主イエスはその後、天に昇られましたから、この場で主イエスの手とわき腹を見ることは出来ませんし、主イエスの生のお声を聞けるわけではありません。しかし、今、御言葉をもって私たちの真ん中に立って下さる主は、十字架の上で手に釘を打たれ、槍でわき腹を刺されたお方であることは変わりません。私たちが礼拝で聞いている御言葉は主イエスの思想や理想的な考えではなく、主イエスが肉体をもって勝ち取って下さったことを聞いているのであります。お姿を見ることは出来ませんが、今も生きて、私たちの罪をも赦して下さる愛をもって、私たちに語りかけて下さるお方として、ここに立っておられるのであります。そして、その御言葉によって、私たちも喜ぶのであります。

4.息を吹きかけて――新しい命の創造

さて、主イエスは弟子たちの真ん中に立って、手とわき腹をお見せになって、弟子たちを安心させ、喜ばせただけではありません。21節以下にありますように、重ねて「あなたがたに平和があるように」とおっしゃった後、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われて、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」弟子たちに派遣命令が下されたのであります。ただ自分たちが恐れから解放されて、与えられた平和を喜んでいるだけではおれないのであります。父なる神様がイエス・キリストをこの世にお遣わしになったように、主イエスが私たちを新しい任務に遣わされるのであります。しかし、その際、弟子たちを新しい任務に放り出されるのではありません。彼らに息を吹きかけて聖霊を与えられるのであります。彼らが実際に行動を開始するのは、ペンテコステに再び聖霊を受けてからですけれども、この時既に、主イエスが聖霊を与えられて、新しい任務への準備を始められたのであります。
 
ここに「息を吹きかけて」とあります。この「息」という言葉は、ギリシャ語でもヘブル語でも「風」とか「霊」とか「命」とも訳される言葉であります。人間は母体から出て息をすることによって、一人の人として生き始めて、息が絶えると死ぬのであります。ですから、同じ言葉が「息」という意味と「命」という意味を持っているのは不思議なことではありません。先ほど旧約聖書の創世記2章の言葉を読んでいただきました。そこには人間アダムが神様によって鼻に息を吹き入れられて生きる者となったことが書かれていました。これは神話的な表現で書かれていることですが、そこで言われていることは、私たち人間は神様に命を吹き込んでいただいて生かされているものだということであります。その創造の物語と重なるようにして、ここでは主イエスが弟子たちに息を吹きかけて、新しい命をいただいた人間として誕生させられたということです。復活の主イエスによる新しい人間の再創造ということであります。古い人間は自らの力で罪の負い目から抜け出ることは出来ません。ここに新しい命を吹き込まれることによって、罪から救い出された新しい命が誕生したのであります。それは新しいイスラエルである教会の誕生ということでもあります。これは十字架によって罪を贖って下さり、新しい命を造り出して下さった主イエスにしか出来ないことであります。
 
私たちもまた、主イエスが来て下さって、御言葉の息を吹きかけられることによって、聖霊を受けて、新しい命に甦えって、弟子たちを継ぐ者たちとされます。

5.罪を赦す教会

では、息を吹きかけられて、聖霊を受けた者はどうなるのか、何が出来るのかということですが、弟子たちがペンテコステに聖霊を受けて、いろいろな国の言葉で神様の御業を語り始めたということを私たちは知っております。教会が宣教の業を始めることが出来たのです。他の福音書を見ますと、マルコ福音書では、「イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける』」(マルコ16:1516)と書かれています。マタイ福音書では、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:1920)と言っておられます。ルカ福音書では、『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』とおっしゃっています。つまり、福音を宣べ伝え、洗礼を授け、罪の赦しを得る悔い改めを告げる、ということが、聖霊を受けた者たち、即ち、教会の使命だということであります。これらは、皆様方が概ね了解しておられる教会の使命であろうかと思います。ところが、このヨハネ福音書では、23節を見ますと、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と驚くような言い方がされているのであります。罪を赦す・赦さないは私たちがすることではなくて、神様がなさること、あるいは神様の御心を受けて主イエスがなさることではないかと思うのですが、ここでは、「あなたがた」即ち、弟子たち・教会が行うことであると言われているのであります。主イエスは罪を赦す権威を教会に託されたということであります。これは大変大きなことであります。もっとも、これはキリスト者の一人ひとりが独立して、罪を赦す権威を持っているということではありませんが、罪人であり、間違いやすい私たちが集まっている教会であるにも拘わらず、イエス・キリストの体である教会である限りにおいて、罪を赦す権威を持っているということであります。これはキリストから預かった権威ですから、軽々しく行使すべきことではありませんが、他の福音書が言っていることも、結局は罪の赦しということこそ、教会の務めだということであります。

結.主を見て喜ぶ教会

以上、見てきましたように、復活の主イエスが礼拝において私たちに出会って下さるということは、私たちが恐れから解放されて平安を得るだけでなく、息を吹きかけられて、聖霊を受けることによって、本来はキリストがなさる罪の赦しの御業を、教会に託されているということであります。このことを深く受け止める必要があります。
 
20節に、「弟子たちは、主を見て喜んだ」とありました。これは十字架にお架かりになって亡くなられた主イエスが、もう一度生きて目の前に立っていて下さる喜び、主が罪に勝利して下さった喜びであり、キリスト者の喜びの基本がここにあるということであります。礼拝の喜びはここにあります。逆に言うと、ここに立たないことには、礼拝に来ても、本当の喜びに満たされないということであります。そして、この喜びに満たされることによって、福音の宣教ということが始まるのですが、それは、他でもなく、先ほど23節で聴きましたように、罪の赦しを宣べ伝えるということであり、実際に、悔い改めて罪を赦されて、救いの出来事が起こっていくということであります。主を見て喜ぶ私たちはまた、人々の罪が赦されるのを見て喜ぶという幸いを与えられているのであります。祈ります。

祈  り

父、子、聖霊なる神様!十字架と復活による救いの御業を覚えて、御名を賛美いたします。
 
この小さな、欠けが多い教会にも、聖霊を注いで下さって、あなたの赦しの御業に与らせていただく喜びを与えられていますことを深く感謝いたします。どうか、自らの罪を悔い改めつつ、まだあなたの赦しを受けていない人々に、福音を宣べ伝えることが出来ますよう、聖霊を豊かに注ぎ続けて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年6月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ20:19−23
 説教題:「聖霊を受けなさい」
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