「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」           (ヨハネによる福音書155

 旧約ではぶどうの木はイスラエルの民のことであるが、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語られた。実を結ばないイスラエルの民に代えて、神はイエス・キリストを「まことのぶどうの木」として、この世に植えられたのである。それがキリストを頭とする教会である。
 では、ぶどうの木である主イエスと枝である私たちの関係はどんなものか。二つのキーワードを用いて語られている。一つは「つながっている」「とどまる」などど訳されている「メノー」という語。ここでは、木と枝の比喩によって生命的なつながりがあることを示すと共に、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(7)と、御言葉による結びつきが語られている。また、ヨハネ6:56では、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と言われたところにも使われていて、そこでは十字架の犠牲の贖いによる結びつきがこの言葉で表現されているし、14:16では、「父は別の弁護者(=聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とも言われ、聖霊の働きにもこの言葉が使われている。
 今一つは、「実を結ぶ」と訳されている「フェロー」という語。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子になるなら」(8)とあり、主の弟子となって教会の群れに加わることを意味する言葉として用いられており、また、Uペトロ1:20では、「人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語った」とあって、聖霊が実を結ばせるとされている。だが、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2)との厳しい言葉も聞かなければならない。しかし、ここで二つのキーワードで示されていることは、私たちが頑張って、力を振り絞って、主イエスというぶどうの木につながっていないと関係が切れてしまうということではなくて、主イエスの十字架の御業と御言葉の語りかけと聖霊の働きによって、しっかりとつなぎとめられ、実を結ばせていただけるということである。それが、ぶどうの木の比喩で語られたペンテコステ(聖霊降臨日)のメッセージである。 

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年5月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ15:1−10
 説教題:「イエスにつながる」
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